余命あと十一ヶ月 5
一口すすった瞬間。口からこぼれ出たのはあまりにもシンプルな感想だった。
「……あまい」
それも砂糖のようなはっきりとした甘さではなく、もっと素朴で自然な甘さだ。
「野菜と肉の甘みだな。特に玉ねぎなんかは、あれで意外と糖分含んでるから、水からじっくり煮出すとびっくりするぐらい甘さが出るんだよ」
出汁をたっぷりと含んだ卵焼きは、驚くほどに柔らかく、スッと箸を入れるだけでじゅんわり出汁が溢れてくる。
ドキドキしながら最後に手を伸ばした、少し形の悪いおにぎりは、だけど一緒に炊き込んだおかげで、しっかりと素材の味が染み込んでいて。噛み締めるたびに、お米の甘さとほんのり効かせた塩味、そして鮭の旨みが口いっぱいに広がっていく。
おいしい。
ごく素直に、そう思った。
少し行儀が悪いが、右手に箸、左手におにぎりを持って、せっせせっせと口に運ぶ。おにぎりをかじり、卵焼きを食べ、味噌汁をすする。まるで生まれて初めて食事をするように、必死になって口を動かす。それを見たククリは。
たぶん、いつものように胸を張ろうとしたのだろう。どうだ、美味いだろう、とか。僕の言う通り、やってみたら意外と簡単だっただろう、とか。
でも結局、それらは全部、彼の口から出てくることはなかった。
代わりに、ぽろり、ぽろりと私の目から溢れる涙に吸い取られたかのように。
「なっ……!」
神が絶句する。あらかさまに動揺し、声をひきつらせた。
「な……なんで泣く⁉︎ な、なんかしたのか僕が⁉︎」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……なんか、ほっとしたっていうか」
そう。ただほっとしただけだ。ただ、ごはんを作って、誰かと一緒に食べる。たったそれだけのことで、なぜか涙が出た。
考えてみれば。
四月からこっち、急に環境が変わって、ずっと働き詰めだった。会社では仕事。家に帰れば終活。正直なところ、かなりいっぱいいっぱいだった。
入ったばかりなのに社会人生活は大変で、仕事を終えては帰って寝るだけの生活。原稿を書いてはダメ出しをされ、旅行の手配をすれば予約を間違える。何をやってもうまくいかない。そんな自分にちょっと嫌気がさしていた。
でも。
ククリと一緒に作ったごはんは、形はいびつでもちゃんと美味しかった。こんな私でもちゃんとできた。そのことが、なんだか無性に嬉しかった。
「……あー、もー。この真面目っこが。いつもいつも、気負いすぎなんだよお前は」
泣きながら味噌汁をすする私を扱いかねたように、ククリはため息をつき、ティッシュで涙と鼻水を拭ってくれた。面倒みが良すぎる。
「どうせお前のことだから、終活をきちんとやり遂げなきゃとか、だからって仕事もおそろかにできないとか、そんなこと考えてたんだろ」
「だっで……引き受けた以上はちゃんとやりたいし……やらなきゃだし……」
「あーのーな。真面目なのは悪いことじゃないが、もちっと自分の性格をきちんと把握しろ。お前は確かに頑張り屋だが、別に器用なわけではない。どちらかというと、あっちこっちに手を出して注意散漫になるドジっ子タイプだ」
「そんなことはなくない……?」
「なくない。何年の付き合いだと思ってるんだ。お前のことは、お前より僕の方がよく知ってる。そもそも終活なんてそんな気合い入れてやるもんじゃないだろ。仕事やなんやと違って、別に義務でも役目でもないんだから。ただやりたいからやるってだけ。失敗して誰かが困るモンでもないし、なんなら途中で辞めてもいい」
神は突然、全ての前提を根底からひっくり返すようなことを言い出した。
「こ、困るでしょ。困るじゃん。だって、そんなことしたら荒御魂に……」
「ならないよ。未練があるから荒御魂になるんであって、途中で辞めるならそれはもう、未練がないってことだろ」
だからもっと好きにやれよ。
ある意味、突き放したような素っ気ない言葉。だけどそれは、不思議なくらいすとんと私の中に落ちてきた。
「少なくとも僕は今日、お前と一緒にご飯を作って、食べて、それが楽しかったよ。終活ってそういうのでいいんじゃないか?」
「い、いいの……? そんなので」
「いいだろ。本人が納得してるなら。神だろうが人だろうが、死は誰しも一度きりだ。正解なんて人それぞれだし、誰かにどうこう言われる筋合いもない。正解がないから失敗もない」
「……そっか」
失敗もない。
その言葉に、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「実を言うと、ちょっとプレッシャーだったんだよね。
仕事とか、終活とかいろいろ。うまくいかないことばかりで。だからククリがそう言ってくれて、ほっとした、かも」
まあプレッシャーの原因には、ククリのダメ出しも含まれているのだが。それはあえて言わないでおいた。ククリが呆れてため息をつく。
「お前さ。そういうのを書けよ」
「えっ?」
「お前が書いてる原稿に。あれはさ、菊理神社の集大成だ。神代から続く最後の神の終わりと、それを託された人間の紡ぐ物語。一人と一柱の、最初で最後の共同作業だ。僕たちは——」
ククリの指先が、そっと私のそれに触れる。届いた指先が、そのまま包み込むように五指を絡めたてきた。触れる指先は温かく、互いに同じ熱を宿している。
「こんなにも似たカタチでありながら、互いに全く違う種族だ。去りゆく神と、それを受け継ぐヒト。菊理がこの世を去ることで、神話の時代は本当の意味で終わりを告げる。だけど」
私を見つめて、神様が笑う。蜂蜜にたっぷりの砂糖をまぶしたような、どこまでも甘く、優しく、幸福そうな。蕩けるような笑顔。
「違うモノだからといって、一緒に歩めないわけじゃないんだ。人の一生は、神にとっては瞬きの間かもしれないが、どんなに短かったとしても、それがなかったことにはならない。僕らが見る世界は、互いに全然違うものかもしれないけど。たとえどれほど時間がかかろうと、残り時間が僅かであろうとも。僕は最後まで、お前の
だからお前は、お前の思ったままを書けばいい。どんなに記憶力がよくても、心は記録に残らないものだから。
「……うーん。言いたいことは分かるけど、やっぱちょっと難しいよそれ」
「だろうな。ま、ようはあまり難しく考えるなってこと。好きに書けばいいんだよ。これは、お前と僕の終活なんだから」
神はカラカラと朗らかに笑った。なんかいい事を言っている気がするが、その割には——
「……めちゃくちゃダメ出ししたじゃない」
「あれはダメ出しっていうか、そもそもの文章の基礎について指摘しただけだろ。僕が本気でダメ出ししたら、あの原稿は今ごろ真っ赤になってるし、お前は泣きながら筆を折ってる」
「え、嘘なにそれ。コッワ」
とりあえずまあ、そんな感じで。
神様の終活プロジェクト第一弾。旅行計画は不慮のアクシデントによりあえなく延期となり、代わりに私の料理スキルが少しだけ上がった。
◆
結局その年のGWはどこの予定もいっぱいで、遠出することもなく。自宅でククリとまったりしながら、自炊したり近所を散歩したりして、のんびりと過ごした。
これが、私たちの始めた終活の最初のひと月。一人と一柱で過ごす、最初で最後の一年のはじまりのこと。
神様の余命まで、残りあと十一ヶ月。
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