余命あと十一ヶ月 3
旅に出たい。
それは終活をするにあたり、一番最初に出てきた未練だった。長命とはいえ、神社から一歩も出ることができない神様の、ひどくささやかな願いごと。
見たことのない場所に行き、嗅いだことのない空気に触れ、知らない土地を訪れる。
恐らくは
なので私も、かなり気合いを入れて準備をした。折しも世間はGW。新入社員でも気兼ねなく連休が取れて、慣れない社会人生活のリフレッシュにもなる。
翔に言われるまでもなく、確かに大変ではあった。なにせ四月から就職に始まり、初めての一人暮らし(注・馬付き)に、その合間を縫っての終活と、目の回るような怒涛の忙しさだったから。
……いや、冷静に考えるとちょっと働きすぎじゃない? 私。
社会人は忙しいとよく聞くけど、さすがにここまでとは思っていなかった。いやはや、人間生活って大変ですね。
だけど私は成し遂げた。そのはずだった。だというのに——
私は空を見上げた。まさに旅行日和と呼ぶに相応しい、雲一つない見事な快晴。
どこまでも高く、突き抜けるような澄んだ蒼天。降り注ぐ日差しは、しかし汗ばむほどに激しくもなく、ただ皓く燦々と地上を照らしている。真っ青な五月晴れのキャンパスを横切って、機械仕掛けの鳥が白い軌跡を描きながら天に向かって飛び立っていった。私たちが搭乗予定だった飛行機が。
それを呆然と羽田空港のロビーで見送りながら。
私はぼそりと呟いた。
「なぜ私たちはこんなところにいるのでしょうか……」
「お前がチケットの予約日を間違えたからだろ」
「そうなんですけども……!」
ククリの無慈悲な指摘に、私は悲嘆にくれながら頭を抱えた。
手配は完璧だった。準備も万端だった。事前の下調べも万全に済ませ、予定より遥かに余裕を持って空港にも到着。かくなるうえは、空港ロビーで貴族のように優雅にお茶しつつ、出発までの時間を潰すかと先にカウンターに向かったところ——
予約日の間違いが発覚した
私がFLTブッキングしたのは五月二日の便。
そして今日は五月三日だ。
こんなこと本当にあるのかって思ったけど、本当にあった。
ほんとうに、あった。
折しも世間はGW。平日であれば、キャンセルして別便を手配すればいいだけの話だか、盆暮に並んで一年でもっとも繁忙期となるこの時期に、そう都合よく空席などあるはずもなく。
結果。私たちはこうして、なんの打開策もないまま、漫然と空港で時間をすり潰していた。
いや、どちらかというとすり潰されそうになっているのは、私の精神の方ですが。
「そう落ち込むなって。人生、生きていればこう言うこともあるっていうか、誰しも間違いはあるっていうか」
「うう……」
一応、慰めようとしてくれているらしい。白髪の青年の珍しい気遣いに、私はノロノロと顔を向けた。青年。そう。青年である。
現在のククリは、お守りの力で人型になっていた。
人間でいえば二十代後半くらい。まだ微妙に青さの残る、少年と青年の狭間のようなひどく整った顔立ち。
鼻梁は高く、肌はなめらかで、男だというのにまつげは私より長い。さらさらとした髪は馬のときと同じ白銀で、瞳の色は深い藍色。神社にいるときの神は和装姿だが、さすがにそれでは目立つし動きにくいので、黒のスキニーにざっくりめのベージュのカーディガンというシンプルな現代服だ。なまじ、顔だちが冗談のように整っているため、飾り気のない服がこれ以上なく似合っている。
これこそが誰あろう人化したククリの姿だ。いや、正しくはこっちが彼の本来の姿であり、普段の馬は依代なのだが。
頭ではわかっているものの、最近はずっと馬バージョンに慣れ親しんでいたので、久しぶりに人型バージョンを見るとギャップがすごい。どちらの姿でも、声だけは同じなのだが。
「……ちなみに、これは責めているわけではなく純粋にただの疑問なんだけどさ。一度くらいは予約内容を確認しておこうと思わなかったのか?」
「思わなかった……だって昔から、記憶力には自信があったし……記憶違いなんてしたことなかったし……」
言い訳をさせて貰えば、そもそも菊理神社は『人の世を見守るため』に建てられた。つまりその祭神とは、文字通り歴史の生き証人。人の世の全てを見守り、記憶するという役割を持った神には当然『記憶』の権能がある。
菊理神社では、氏子ですらそのご利益のおかげで、軒並み記憶力が頭抜けている。要するに、人よりも物事を覚えるのが得意なのだ。
「そうか……お前にとって、記憶と認識は同義語だもんな……でもなヒメ。記憶力がいいのとミスをしないことは、まっっっっっっっったく別次元の問題だからな」
「グゥ」
呆れた神からとても真っ当に諭された。
ぐうの音も出なかった。
「ただでさえ、人間は疲労すると認識力が低下するし。操作ミスくら普通にやらかすだろ。ま、勉強になったと思えばいいじゃん。僕も悪かったよ。全部お前に任せきりにしちゃってさ。ちゃんと、事前確認しておくべきだった。ブッキングミスなんて、よくある間違いだし。仕方ないよ」
「よくある間違いなら救済手段も豊富にあって欲しかった……」
「あるにはあるんだよ。つーかGWじゃなきゃ、スライドくらいさせてもらえるよ普通。ただ今日は、繁忙期だから空席がないってだけで」
どうする? 予定ズラすか? というククリの邪気のない質問に、私は力なく首を振った。確かに日程をずらせば飛行機には乗れるかもしれないが、そんな資金的余裕はない。今回の旅行だって、終活の一貫ということでなけなしの貯金をはたいたのだ。
「悔しい……! 私にもっと力があれば……! 具体的には時を巻き戻して、今からもう一度予約をやり直す力があれば……!」
「一応言っておくが、過去に戻っての事象改竄なんて、最高神たる父神の権能をもっ
てしても不可能だぞ。それができたら、この国に黄泉下りの神話は存在しない」
この国の父神であるイザナギは、最愛の妻であるイザナミの死を嘆き、地の底にある冥府にまで妻を迎えに行ったものの、結局、イザナミを甦らせることはできずに諦めて帰ってきた。
その際に生まれた神が三貴神——
つまり神の力であっても、過去を覆すことはできないのだ。
間違えた飛行機のチケットを、いまさら変更することができないように。
「いや、仮にも神話の大事件をそのレベルの凡ミスと同じに語られても困るんだけど……で、どうするんだ? いつまでもここまま空港で、現実逃避してるってわけにはいかないだろ」
「そうだけど……」
ズバリと正論で切り込まれて、私は思わず口ごもった。
そう。ククリの言う通り、過去に戻って
私はククリに手を引かれ、結局、どこにも飛び立つことのできないまま空港を後にした。
◆
とりあえず、荷物も邪魔だし一旦、家に帰ることにした。
羽田空港のターミナルから京急へ。空港発とあってさすがに電車の本数は多いが、それ以上にホームには人が多い。その誰もが旅行鞄やらスーツケースを持っているものだから必然、電車も乗車率以上に混み合うことになる。
「——お前、この後なにかプランとかある?」
それでもなんとか邪魔にならないよう車両の端っこにスペースを見つけ、ガタンゴトンと揺られていた私は力なく首を振った。
「ううん。なんにも。強いて言えばこの後、各方面にキャンセルの連絡をするくらい」
本当なら今頃は、優雅に飛行機に乗って空の上のはずだった。到着後は、予約したお店でランチ。そして午後は観光。目的地をぶらつきながら、そこかしこで名物料理を食べる。何日も前から思い描いていた旅行プランは、全部ダメになった。本当に、一体どうしてこんなことに——
あ、だめだ。考え出すとまた凹みそう。
一方ククリは、そんな私の胸中など知ってか知らずか、あっけらかんとした口調で「じゃあさ」と続けた。
「今日はこのまま、家に帰って飯でも作らないか? 僕と一緒に」
「エッ」
あまりに唐突な提案に、思わず驚いて大声を出し掛け——慌ててボリュームを落とした。乗客の視線が、一瞬なにごとかと集まり、またすぐにそれていく。
「エッ、なんでそんな……だってククリ、私が料理できないの知ってるでしょ⁉︎ ま、まさか復讐⁉︎ 予約を間違えたこと、そんなに怒ってるの?」
「なんでだよ。ていうか、真っ先に浮かぶのが復讐って、お前の中の僕の心象、いくらなんでも悪すぎないか? 僕らの過去に一体なにがあったんだよ」
憮然とした表情の神を見る限り、どうやら提案自体は本気らしい。だとすると、なおさら不思議だ
そもそも、人間ならばともかく神に食事は必要ない。なのになぜ……。
「そこまで不思議がることでもないだろ。僕なりの代案ってやつだよ。今回、ちょっとしたトラブルによって旅行が中止になってしまったわけだが」
「ウッ」
「別に嫌味じゃないからダメージを受けるな。責めてない責めてない。まあそれ自体は仕方ないとして、まるっと予定が空いてしまったわけだ。これをただ漫然と過ごすのはもったいないだろ」
「それは……そうなんですが」
「ついでにいえば、他の代替えプランを立てようにも、今の時期はどこも混んでいて飛び入りは難しい。なら旅行キャンセルで金が無駄になった分、節約も兼ねて自炊するってのも悪くないアイデアだろ」
「いやいやいや。悪いよ、悪いって。それじゃ、終活にならないじゃん」
そう、そうなのだ。
確かにククリの意見は、とても理に適っている。仮に今回の旅行が、本当になんの目的も裏もない、ただの知人同士の旅だったらそれでもいいかもしれない。
だけどこれは、終活なのだ。
余命一年となった神様がこの世界での『やり残し』を叶えるための最後の時間。その目的の一つが、今回の旅行だった。出だしてちょっと計画が狂ったからって、おいそれと諦めていいものじゃ——
「いや、いいだろ別に」
しかしククリは。
あっさりとそう言った。
「別に旅行自体を諦めようって話じゃないぜ。余命までまだ時間はあるし、出雲だって逃げない。それはまた今度にして、今は空いた時間で別のことをしようぜってワケ」
「で、でもそれじゃ終活が……」
「僕らは確かに終活中ではあるが、だからって他のことをしちゃならんって理由にはならないだろ。それに『やったことないものに挑戦する』ってのが、僕らの終活のテーマのはずだ。だったら料理だって該当するだろ?」
どうせ時間はたっぷりあるんだしさ、と、神はにっかりと笑った。悪意も裏もない、子供のような無邪気な笑顔。
「なんの予定もないなら、この連休中のお前の時間を僕にくれよ」
「で、でも私、本当に料理なんてできないし……絶対に失敗するだろうし」
「別にいいだろ。失敗したからって死ぬわけでもないし。ていうかどっちにしろ、どうせ一年後には死ぬんだし」
「急にジョークだか本気だか分からないことを会話に混ぜ込んでくるの、やめて欲しいんですけど⁉︎」
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