喜/起
余命あと十一ヶ月 1
この世、最後の一柱である
その知らせに人間たちはひどく悲しんだものの、驚きはしなかった。実を言えば、それはとうの昔に知らされていたので。
神の御代が終わり、この世が人のものとなってから幾星霜。かつて地上にも多く存在した八百万の神々は、増え続ける人間に反比例するかのように、徐々に姿を消していった。
だけど神は人間たちを見捨てたわけではない。その証拠として、一柱だけ地上に残した。神の名は菊理。日本神話において、生者の身でありながら冥府に訪れた神。
生と死。二つの境界に立つ神はそれゆえ、神の身でありながら人の世に残ることができた。神々は菊理に、神の代表として世界の終わりまで人間たちを見守るように、と申しつけた。
しかし人の世は、神々の予想超えて遥かに長く続いた。
かつて地を満たしていた神気は薄れ、人々は次第に神を忘れ、不死である菊理の肉体にも遂に寿命が訪れた。それは、この世が神のものであった頃ならあり得ないはずの劣化。神気の枯渇によるものだ。
神の玉体は清浄なる神気の中でしか生きられぬ。酸素のない空気が人間にとって猛毒となるように、神気の薄れた世界は、菊理の神体を徐々に蝕んでいった。
人々はたった一柱の神様がいなくなってしまうことを嘆き、どうにかして菊理を延命しようと画策したが、根本的な解決には至らなかった。
そうして騙し騙しやり過ごしてきた余命に、ついに限界が訪れたのが今年の春。余命を告げる神に、氏子はある提案をした。
ならば神様の終活をしましょう、と。
古来より神とは祟るもの。もしも最古の神である菊理が未練を残して荒御魂になったりでもしたら、その被害は想像もつかない。
とはいえ長く生きすぎた神には、もはやこれといってやり残したことなどない。それでもなんとかうんうん唸って絞り出した未練は、呆れるほどに平凡なものだった。
旅をしたい。美味しいものを食べてみたい。人に混じって街で暮らしてみたい。
残りの余命一年をかけて、神はこの未練を晴らすことにした。名付けて神様のやり残し片付けようぜリスト。だとやっぱり長いので、終活リスト。
しかし、神は長生きであっても人の世にはとんと疎い。余命一年の神様が終活を成し遂げるためには、人の協力が不可欠だ。そこで代々、神社の神職を務めてきた一族から神の介護係を出すことになった。代わりに、一つだけある条件を出して。
そうして選ばれたのが私とククリ。たぶん幼い頃から神社の出入りして育ったので、互いに気心知れた間柄だった、というのが理由だろう。
というか。いくら歴史ある神社などと言っても、神なんて所詮は前時代の遺物なわけで。そんな神様につきあって、終活なんて面倒なことを引き受ける物好きが、他にいなかったという方が正しい。まあ、私もククリとなら嫌ではなかったし。
そんなわけで、新社会人生活の幕開けと同時に、私とククリの同居生活が始まったのでした、まる。
◆
風呂から上がると身体に溜まっていた疲れもほどよく溶け、食欲も湧いてきた。
そしてククリに怒られた。
「年頃の娘が素っ裸のまま風呂から上がるなっつってんだろうが、はしたない! 仮にも異性の前で、恥じらいとかないのかお前は⁉︎」
「イ、セイ……?」
「……お前が僕をどう見ているのかは、よっく分かった」
馬がなにやら怨念をにじませつつうめくが、これに関しては怒るほうが理不尽というものだ。だって目の前にいるのはどう見ても馬、あるいは三頭身のぬいぐるみだし。これを異性とみなすのは、どんな人類にだって不可能だと思う。もちろん私にだって無理だ。
とはいえ、怒ると馬はうるさい。なので言われた通りにボタボタと雫を滴らせながら、着替えを取りに寝室へと部屋に向かう。
余談だが、この家はバストイレ完全独立の二LDKだ。十七畳のリビングと、六畳の寝室。そして八畳の書庫。
いうまでもなく、新米社会人には分不相応の広さ。加えて職場にも近く、さらには最寄り駅から徒歩五分という好立地。なんでそんな好物件に住めるのかといえば話は簡単で、そもそも私の家じゃないからだ。
正確には古い知人の持ち家で、訳あって長期不在するためその間、管理者兼住人として間借りしている。私の給料じゃ、とてもこんな場所には暮らせない。
知人からは好きに使っていいと言われているが、一人暮らしを始めたばかりなので、私物はほとんどない。とはいえ、家具家電がそっくりそのまま残っているので、生活に不自由はない。いや、むしろありがたい。ベッドなんてシモンズ製だし。やたら寝心地いいし。これ、買ったらいくらするんだろ。
ふと鏡を見ると、そこに映っているのは呆れるほどに見慣れた自分の姿だ。
背はさほど高くない。いや、現代日本人女性としては、割と低いほうだろう。
そこまで無駄な肉はついていないと信じたいウエスト。小ぶりというほどではない胸。肩のラインで切り揃えた黒髪は、風呂上がりのせいかぺっとりと肌に張り付いている。ククリ曰く、クラスで三番目くらいの美人だそうだが、あの馬の感覚はいまいちアテにならない。なにせ馬だし。
パジャマを着て、ついでにキッチンで夕食のカップ麺を用意してからリビングに戻ると、ソファの上にドンと陣取った馬が、先ほど手渡した原稿を片手にぶっちょう面で待ち構えていた。ビーズの如きつぶらな瞳が私の手の中のカップ麺を捉え、不機嫌オーラが当社比二十三%増す。
「まーたカップ麺か。神たる僕には関係ないが、健康な肉体とは健康な食生活から生まれるらしいぞ。たまにならともかく、毎度毎食インスタントというのは感心しないな」
「仕事から帰ってきて自炊とか、普通に無理だよ。そもそも私、料理できないし」
「せめて野菜を食べろ。じゃなきゃ果物を食べろ」
「前にブロッコリーを食べてたら止めたのククリじゃない」
「だって花束みたいに咲き誇ったブロッコリーを丸齧りするとはさすがに思わないだろ……せめてキュウリとかさ」
「緑黄色野菜を食べろって言ったじゃない」
「言ったけどさ……」
ククリは魂が抜け出そうな深いため息をつきながら「今度、翔にでも言って果物でも持って来させるか……」などと吐き捨てた。
「……まあいい。食べないよりマシだし、今日はもう遅いからさっさと本題に入ろう。座りなさい」
向かいのソファを勧められるが、実際に座ってみたら間に置かれたローテーブルのせいで、ククリが見えなくなってしまった。少し悩んだ結果、ぬいぐるみを抱えてそっ……とテーブルに移した。神は何も言わなかった。
「お前の原稿、読んだよ。結論から言うと、出来のいいゴミだな」
「ぶっほ」
あまりにストレートかつ遠慮のない酷評に、私は思わず啜りかけのカップ麺を吹いた。
「うわ、バッカお前やめろよ⁉︎ この身体、めちゃくちゃ吸水率がいいんだぞ! 僕のこの魅惑のマシュマロボディに、ラーメンスープの匂いが染み付いたらどうするんだ⁉︎」
「いやまあ、本当にそれはゴメンなんだけど、いくらなんでもゴミ呼ばわりはひどくない⁉︎ こっちだって一応、それなりに真剣にやってるんですけど……!」
そりゃあ執筆なんて生まれて初めてだし、最初からうまくいくとは思ってない。思ってないが、さすがにその感想はあんまりだ。
ククリの言っている『原稿』とは、例の人間か神に出した条件のことだ。菊理神社の歴史書──神社文書の作成。
神社文書とは、各神社が独自に編纂する記録書のこと。一般的には祭神やら建設時の記録やら、当時の風土やらが記されており、それ自体が大変貴重な歴史や文化の史料にもなっている。
神話の時代から生き続けてきた菊理の持つ記憶と記録は、人の世にとって大変貴重なものだ。神の余命と共に失われるのはあまりにも惜しい。
だから人間は終活にあたり神様に一つだけ頼み事をしたのだ。この世と共にあった最後の神が、何を思い、どう過ごし、如何にして神去るのか。その始まりから最後までを記録に残してほしい、と。
この最後までという部分がミソで、つまり神社文書には終活の記録も含まれる。そして神と人が協力して行う以上、それは当然、神と人双方の視点が必要となるのだ。
そんなわけでこの度の終活にあたり、微力ながら私も執筆に協力するハメになった。
最初に聞いたときは『そんなもの必要?』と思ったものだが、確かに記録とは大事なものだ。せっかく神代から紡いできた記憶がここで散逸してしまうのは勿体無い。
何より、菊理神社の積みあげた記録が、人の世にとって価値のあるもの、と言われれば、まあ悪い気はしないし。
そう思うからこそ、社会人生活の傍らでも頑張って書いたきたというのに。初見でゴミ呼ばわりはひどすぎる。
理由も分からぬ突然の罵倒に憤慨する私だったが、神はむしろ『なんで分からないんだ?』とでも言いたげな表情だった。いや、正確にはぬいぐるみなので表情筋はないが、とにかくそのような雰囲気を浮かべた。実にムカつく馬である。
「えぇ……ひょっとして理由、言わなきゃダメか?」
「是非お聞きしたいですね」
「……まあ、いいけど。まず文章が読みにくい。頭使って無理して難解な言葉とか使ってる感が満載。いいか、この世でもっとも読みやすのは『平易な文章』だ。賢しげに漢字テストで大学生でも書けないような難読語を使うな。あとときおり古文を混ぜるな。そういう演出ならともかく、お前の場合は手癖だろ。意味のないノイズを入れると、読者が混乱する」
「うぐっ」
「次に内容。まとまりがないというか、テーマがとっ散らかりすぎ。結局何を言いたいのかわからん。あとついでに、コロッコロ視点が変わるのもアウトな。一人称でも三人称でも神視点でも構わないけど、せめて視点統一くらいはしろよ。じゃないと読みにくい」
「………………」
「まあ、その辺は所詮、小手先の技術だからどうにでもなるとして。一番肝心なのは、読んでもお前が描きたいものが伝わってこないことだな。お前は何のためにこれを書いてる? これを書くことによって、読者に何を伝えたい? いや、最悪それすらどうでもいい。たとえ伝わらなかったとしても、お前が込めたい思いはなんだ? この話からはそれが見えてこないんだよ」
いいか、とぬいぐるみは短い腕を無理やり組んだ。でも威厳は溢れなかった。
「これは神代から紡がれてきた神の記録と、その神に寄り添ってきた人の物語。長い長い、人類の歴史に匹敵するような時間の中で、神と人は共にどう歩んできたのか。その集大成となるものだ。ただ事実だけを書くな。歴史の年表作ってんじゃねえんだぞ。心を書け。魂を込めろ」
「そんなこと言われましても……」
難易度が高すぎる。心とか、魂とか。そんな目に見えないものを、一体どうやって書けというのだこの馬は。
「……ええと、じゃあよかったところはどこにあるの?」
意外と真っ当なダメ出しの嵐に心が挫けそうになったので、プラス材料を聞いてみる。ククリはあっさり言った。
「ああ、それ? きちんと最後まで書いたこと。それだけは褒めてやる」
びっくりするほど本文関係なかった。
というか、内容に一ミリも触れていなかった。
「そ、それだけ……?」
「それだけ。あ、細かい誤字脱字の指摘ならあるけど、聞きたい?」
「いらない……」
ガックリしながらノートを返してもらう。多分、本当に嫌味でもなんでもなく、ククリは褒めたつもりなのだ。
やるべきと決められたことを、決められた通りにやり遂げる。そんな当たり前のことが『褒め言葉』になると、本当に思っているのだ、この神様は。
だけどしかたない。神に人の心は分からない。
神の心が、人には分からないように。
「まあそんなわけだから、今回の分は書き直しだ。残りあと十一ヶ月。まだ焦る時間じゃないとはいえ、人間の身ではあっという間だ。急がないとすぐだぞ」
「……わかってる」
事実、時間はあまりない。神に残された余命はあと一年弱で、未達の『終活リスト』はまだ山ほどある。
社会人生活一ヶ月目。神の終活まであと十一ヶ月。
ひょんなことから始まった神と私の同棲生活は、とりあえずこんな感じだった。
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