第7話 闇夜の邂逅 ~闇より出づる者~

 望は夜道を歩いていた。


 大詰めに迫った学園祭の準備がこの時間までかかってしまい、クラス委員の望は、女子が帰った後も残って後片づけに追われていた為に、帰宅が遅くなったのだ。


 住宅街の公園の近くである。

 公園の中にある街灯と、月明かりが照らす夜道に、秋風が静かに吹いていた。

 通い慣れたこの道が、無性に寂しく思える。


 しかし望の頭の中は、聡のことでいっぱいであった。

 授業中も、文化祭の準備の最中も、ふと気が付くと聡のことを考えていた。

 望は空を見上げ、溜息ためいきをつく。


 冷たい空気が肺に流れ込み、心にわだかまるものを軽くしてくれた。

 天空には、これから満月になろうという上弦の月が、地上を照らしていた。

 その柔らかな光は、望に安堵感を与えた。



 ガシャン。


 ガラスの砕ける音に、望の脚は凍りついた。

 音と共に、辺りが暗闇に包まれる。


 公園が暗い。

 音の正体は、公園の街灯が砕ける音であった。


 望はえも言えぬ恐怖を感じた。

 公園の街灯が自然に砕け散るなど、常識ではあり得ようがない。


 望は闇の中に、自分以外の人物の気配を感じた。

 人は、五感に頼るが故、それを失う程憶病になる。

 そして最大の情報源である視覚を奪う闇は、それ自体が恐怖であった。


 何の因果か、天空の雲さえも、天からの明かりを覆い隠そうとしていた。

 言い得ぬ恐怖を招いたその音に僅かに遅れて、道の脇に並ぶ木々の一つが、枝をしなう音を立てる。


 望がその音のした方へと、条件反射的に顔を向けた瞬間、望の立つ道の行く手に、黒い影が出現した。


 目の端にそれを捕らえた望は、ゆっくりと顔を戻す。

 それを見てしまえば、後悔するであろうことは予感できたが、望の首は動きを止めなかった。


 瞳が「それ」を捕らえた瞬間、望はそれのもたらす恐怖と、その存在を認めぬ理性との葛藤かっとうで、声が出ない。


 大きく前へ突き出た鼻。


 薄く開いた口から漏れる、長く伸びた犬歯。


 見開いた眼には瞳らしき物は無く、ぼろ布の張り付く筋肉が隆起した全身は、赤黒い皮膚に覆われていた。

 そして、その盛り上がった額からは角が────。


 それは古来より恐怖を民にもたらす存在、────鬼────であった。


 そしてその顔は、苦悶の表情に歪み、ありありと狂気の相を浮かべていた。

 望の3倍はありそうなその巨躯が、枝を蹴って眼前に音も無く降り立ったなど、望は想像もしなかっただろう。


 いや、それ以前に望の理性は、そのような者が目の前に存在すること自体を否定し、思考することを止めていた。

 しかし躰にへばりついた、その原型を留めぬ布きれを染める黒い染みの正体が頭に閃いたとき、あの朝のテレビで見た光景と、ある言葉が浮かんだ。


 ────殺される────。


 液晶画面に映った、シーツから洩れる女子大生の抉られた腕が、脳裏に浮かぶ。

 悲鳴を上げ、逃げようとした身体が、動かないことに望は気付いた。

 自分の力では、何も出来ないことを悟った。


 望の眼に、鬼がゆらりとうごめくのが映った。

 鬼の姿が大きく迫る。

 鬼の緩やかな前進は、確実に自分へと近づいていた。

 唇が、言葉を求めて震える。

 だがそこからは、一言の言葉さえ洩れてこなかった。


 鬼は既に、手の届くところまで迫っていた。

 その手がゆっくりと上がる。

 次の瞬間には、自分を掴むだろう。

 運命を知った望の脳裏に、懐かしい遥か昔の記憶が甦った。


 前にもこんな事が・・・・・・。

 望の脳裏には、大きな野良犬が映し出されていた。

 野犬は、望の目の前に立ち塞がっていた。

 その犬は、幼い望の背丈ほどもあった。

 飢えか病か、狂気の色に染まる犬は、餌食に望を選んでいた。

 絶体絶命の窮地に陥った望を、その時救ったのが、聡であった。

 同様に自分の背丈ほどもある狂った犬を、聡は自分を助けるために必至に追い払ってくれた。


 その聡は今、いない。

 遠い存在であった。


(────聡────!)

 虚しい叫びを胸中に上げた望の腕を、分厚い手が掴んだ。

 意識が遠のく。


「待て」

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