第6話 池田信人が見る悪夢

 ────父親が現れた。


 信人にとって、晴天の霹靂へきれき

 父は、ある日突然、扉の前に立っていた。

 前の生活と完全に縁を切っていた信人は、この男が出所したことを知らなかった。

 どうして此処が・・・・・・。

 この「鬼畜男」の執念に恐怖を覚えた。



 信人はこの日のことを、今でも後悔する。

 何故あの時、自分は拒絶しなかったのか。

 妻を連れて逃げなかったのか。


 だが、扉を開けた瞬間に信人の思考は停止し、一気にしいたげられた記憶がよみがえった。

 ずかずかと父が家に上がり込んできても、身体が動かない。


(やめろ)

 驚く妻に慣れ慣れしく話しかけ、自分は信人の父親だと告げる。


(やめろ。言うな)

 戸惑う妻を拝み倒し、財布から取り出した金を掴むと、信人に言葉を残し、出て行った。

 またな────という言葉を。



 帰宅した母は、呆然ぼうぜんと座り込む信人を見、妻から父が来たことを聞くと、半狂乱状態になって荷物をまとめ、家を出て行った。


 今考えれば、母の行動は正解だった。

 父はすぐに戻ってきたのだ。


 しかし、父が次にとった行動は意外だった。

 いきなり信人に謝った。そして自分は変わったと言う。

 刑務所生活でアルコール依存を克服し、昔の自分を悔やんだと。

 あの頃の自分は酒が切れると幻覚が現れ、恐怖から暴力にはしっていたのだと。

 これからは仕事を見つけ、お前に懺悔ざんげするつもりで働く、真人間になる、と言った。


 そして、一瞬言い淀んだ後。

 一晩悩んだが、金がないため宿にも泊まれない。給料が貰えるようになるまでしばら居候いそうろうさせてほしい、と言い土下座までした。


 信人は困惑した。


 信用できない。


 出来るはずもない。

 これまで一度も約束を守った姿を見たことがないのだ。


───)

 それは判っているが、それを言葉にした後にこの男が豹変した場合、自分は抵抗できるのか?


 この男の暴力に対する自分の身体に刻み込まれた防御方法。それは全く無抵抗で暴力が過ぎ去るのを待つ。

 恐らく自分はその呪縛から逃れられていない。

 昨日も硬直して何もできなかったのだ。


 しかし妻は「お父さん」と声をかけ、信人に住まわせてあげましょう、と言った。


 妻の長所は優しいことだった。

 しかし同時に短所でもある。

 疑うことを知らないのだ。


 昨晩のうちに全てを妻に打ち明ければよかった。

 どうして呆然と過ごしてしまったのだろう。

 だが、どう説明すればこの悪魔を理解させることが出来ただろうか。


 狡猾こうかつなこの男は、信人の身体に傷をつけなかった。気を失うまで首を絞められたり、腹を蹴られて吐血したと言っても、この無垢な妻はそのような人間の存在自体理解できないかもしれない。


 父は顔を崩して涙を流しながら、ありがとう、と言いながら妻の手を握る。


 見事な演技だった。

 母からこの男は詐欺師まがいのことをしていたと聞いたことがある。自分も結婚して本性を知ったのだと。気付いた時には蟻地獄にはまっていたと。


 しかし拒絶の言葉が出てこない。

 悪魔は妻に招かれ、家に入ってゆく。

 聖母のような彼女の行為を、どうすれば止められただろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る