第5話 隣家の記憶

 秋の澄んだ夜空に、満天の星々が輝いていた。

 それを見上げる望の部屋の窓からは、柔らかな涼風が吹き込み、望の髪を優しくなぶる。


 その窓に肘をかけた手のひらにあごを乗せ、望は物憂ものうげな表情を浮かべていた。


 昼間見たあの男────。

 あれは、3年前に姿を消した聡であった。


 望の部屋の窓からは、隣の家の白いバルコニーが見える。

 明かりがその窓から漏れていれば、ごく普通の暖かな家族が暮らすようなその家───。


 だがその家には、全く明かりが灯されていない。

 それどころか、数年間人が立ち入ったことがないそこは、白い壁も薄汚れ、庭の雑草も伸び放題状態だ。


 3年前の惨劇が、この敷地に人が入ることを拒んでいるようであった。

 そこにはかつて、聡とその一家が住んでいた。



 望と聡は幼なじみであった。

 生まれた時から二人は、まるで兄妹のように育った。


 聡は母親と二人で暮らしていた。父親はずっと海外赴任で、父からの送金で生活は成り立っていた。

 何不自由なく。


 聡の父親はかなり忙しい身らしく、聡も父親とは一度も会ったことがないということであった。

 片親状態であったが、聡は母の愛情に包まれ、素直に育った。口数は少ないが人望も厚く、何より瞳が優しい少年だった。


 そして聡の母は望にも優しかった。

 幼児のころからそれを当たり前のように甘受かんじゅしていた望は、物心がつくようになってからその美しさと包容力が特異なことであることに気付き、憧れに似た感情を抱くようになった。

 憧れの対象から愛される聡を、うらやましく思ったこともある。


 ところが3年前。

 聡の母が、この隣家で殺された。



 望はそんなことが起きていたなど、全く気付かなかった。

 悲鳴や物音も聞こえず、その夜は静かに寝ていた。

 朝になって母から聞き、ショックを受けた。


 冷たい床の上に、母の血に染まる放心状態の聡がひざまずいていたらしい。


 その現場を望は見た訳ではなかったが、その無惨な死に様は、聡の姿から伺いしれた。

 よほどのショックを受けたのか、聡の髪は白髪と化していたという───。

 

 そしてそのまま、聡は姿を消した。

 話では、昨夜保護されてすぐに外国にいる父親に引き取られたことになっていたが、望はそれが嘘であると直感していた。


 一度聡から、自分には父親が存在しないかもしれない、とらすのを聞いたことがあった。一度も会ったことも連絡が入ったこともなく、そのことを母に尋ねても態度に何処か不自然なものがあると。


 それ以上に望は、自分に何も言わずに消えた聡のことが気になった。

 電話でもいいから一言、聡の口から直接聞きたかった。


 幼い頃より兄弟のように育ち、母親以外で唯一心を許す存在であると思っていた望にとって、何も言わずに消えるなどあり得ないと思われた。

 そして、また出会えることがあれば、その疑問の全てを投げかけてみたかった。


 何処へ消えていたのか。


 あの夜に何が起きたのか。


 何よりも聡に会って、今どうなっているのかを知りたかった。

 時が経つに連れ、それは忘れるどころか、より大きな願望となっていた。

 それが、期せずして現実のものとなったのだ。


 願望が現実として叶った喜びもつかの間、それは自分の抱いていた不安の最悪のものを具現化していた。

 以前の暖かみが全く姿を消し、冷たいものへと変貌していた。


 望は、時が立てば、聡があの夜のショックから立ち直り、昔の自分を取り戻してくれていると信じていた。

 しかし、やはり一夜にして頭髪を白く変えるほどの経験は、元の人格に戻すにはあまりに過酷だったのか。


 今日、街で見た聡は、望さえ疑ったほどの別人になり果てていた。



 望は後悔していた。

 聡とは二度と会えないかもしれない。

 何故、あのとき聡を行かせてしまったのか。

 引き留めて、せめて次に会うための手段を講じてさえいれば。

 この広い東京で、偶然特定の人物に二度も出会える確立など、皆無に等しい。


 しかし望は、根拠の無い、しかしはっきりとした希望を抱いていた。

 聡は日本にいる。

 この夜空の何処かに。

 必ずまた逢える。


 望が見上げる夜空に、一筋の光が、東の空へと流れていった。

 何時からか、鈴虫の鳴き声が、風に乗って望の部屋まで届いていた。

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