12

 発砲音が場内に響く。そこから瑠奈たちが居る座席までは百メートル以上の距離があるにも関わらず、心臓が縮こまるような音だった。

 スターターの頭上に煙が広がるのと同時に、選手が一斉に走り出す。先頭から数えて四番目を走っているのは矢代紫陽。彼女が新しい義足に変えてから初めての大会である。

「がんばれーー!」

 瑠奈と永は前屈みになって声援を送る。

「良い位置に入ったな」

 一方、隣の萌陸は冷静に紫陽の走りを眺めていた。

 紫陽は中距離を専門とする選手であり、今は五千メートルの種目に出場している。スタート時の順位からほぼ変動がなく、団子状態の集団がトラックをぐるぐると回っている。

 紫陽も三位から五位を行ったり来たりしながらポジションを譲らない。陸上について素人の瑠奈の眼には、同じ光景が繰り返されているようにしか見えなかった。

「今何周目だっけ?」

「多分、十周目……かな?」

「十周で合ってるよ。……そろそろか」

 萌陸がそう呟いた直後、選手たちに動きが見え始めた。集団のスピードが明らかに速くなる。集団に追い付ける体力が残っていない選手が振るい落とされる。紫陽は何とか食らい付いていた。

 早めに勝負を仕掛けてきた二人の選手が外側から集団を追い越し、一気にトップに躍り出る。ユニフォームの柄から、その内の一人は瑠奈たち学校、つまり紫陽と同じ部活の人だと分かる。紫陽に変化は無い。

 残り一周の鐘が鳴る。同じ距離感を保っていた選手たちが一気に崩れ、皆がラストスパートをかける。

「矢代さーーん」

「行けーー!」

 一人、そして二人と、紫陽は着実に前を走る選手を抜く。二人目に抜いたのは、早めにラストスパートをかけた二人の、同じ部活ではない方の選手だった。

 対して同じユニフォームの背中は、遠かった。

 ゴールラインを超えた紫陽は手を腰に付け、天を仰ぎながら歩いていた。


 大会終了後、瑠奈たちは紫陽の慰労会を開いた。

「応援に来てくれてありがとう。折角来てくれたのに、不甲斐ない結果でごめん」

「全然そんなことないよ! 表彰台まであと一歩だったんだから」

 紫陽の結果は惜しくも四位だった。

「……うん。安住さんも、わざわざありがとう」

「こちらこそ、すごいものを見させてもらったよ」

 最後に紫陽は萌陸に目を向ける。

「お前は来なくて良かったのに」

「紫陽ったら、冷たい奴だなー。自分だって紫陽の走る姿を見たかったのさ」

「観客席にいるの見つけて、走るの滅茶苦茶イヤだったわ。お前さえいなければ、入賞してたかもな」

「照れ隠しかな? それに、一位になれなかったのは紫陽の責任だろ」

 最後の口調はいつものおどけた風ではなかった。萌陸の口から飛び出た重く鋭い台詞が紫陽を襲う。

「……」

 紫陽は萌陸を睨み付けながら黙っていた。萌陸も負けじと睨み返す。

「あ……」

 二人の不穏な空気を感じ取り、話題を変えようと瑠奈が口を開きかける。だが瑠奈の次なる言葉を遮ったのは、紫陽だった。

「確かにそうだな」

「え?」

 紫陽が萌陸の意見に珍しく同意する。

「ラストスパートでもっと抜く算段だったんだけど、想像以上に厳しかったな」

のペースに引っ張られたんだろ」

「そうだな。あそこで巴瑞季が追い上げて来て、正直ペースを乱された」

 巴瑞季とは早めに勝負を仕掛けた、紫陽の同級生のことである。彼女は二着でゴールを果たしていた。

「前にも言ったじゃねーか。どんな邪魔が入っても最後まで自分のペースを保って走れって。練習の時、自分があんなに邪魔してやったのに、何も変わってねーじゃん」

「あれはまた違う邪魔さだったけどな。本来の意味での邪魔だったけどな」

 瑠奈は以前、萌陸が校庭で練習している紫陽を見つけて『冷やかしてくる』言ってと去って行ったのを思い出した。口ではああ言いながら、萌陸も紫陽のことを気に掛けていたのだろう。

「新しい義足にもすっかり慣れたと思ってたけど、本番のちょっとした動揺で上手く扱えなくなる。人のせいでも、義足のせいでもない、私の弱さのせいだ」

 紫陽は隣に置いてある、疾走用の義足を撫でた。

「そもそもスタートの時点でもっと前に出ないと」

「いや、あれはあそこで良い」

「いーや、もっと前に出るべき」

「はー? 私の計算は完璧なんだよ」

「何が完璧だ。負けてんじゃねーか」

「終盤で調子が狂っただけだ。序盤に問題は無い」

「なんだとこのやろう」

「なんだよこのやろう」

 いつもの二人の調子に戻り、瑠奈はほっと胸を撫で下ろした。そして二人に聞こえないように、永に耳打ちする。

「二人とも仲良しだね」

「そうだね」

 瑠奈の心配は、彼女たちの信頼関係の前では杞憂だったらしい。

 ひとしきり陸上談義を白熱させた後、話は夏休みの過ごし方へと切り替わる。

「しばらく大会無いし、ずっと部活かな」

「永はずっと家でごろごろしてる」

「自分は毎日遊んでる。夏休み最高」

「遊び惚けているな。宿題もやれよ。絶対に見せてやらんからな」

「はっ、大丈夫さ。お前の力を借りるまでも無い」

「大木さんと、あと安住さんに写させてもらうのもナシな」

「え」

「二人とも、こいつがどんなに泣いて縋ってこようが、絶対に見せるな」

 紫陽はにっこりと笑う。

「それがこいつの為なんだ」

「大木? 安住⁉ 嘘だよな……」

「大木さんは夏休み、何してるの?」

 萌陸の助けを乞う眼をすっぱりと無視する。

「あ、えっと、私もトワちゃんと一緒で、大体ごろごろしてる。たまに仕事が入ったり」

「ああ、モデルの。そういえば前に言ってた、インタビュー記事が載ってる雑誌、発売日当日に買ったよ」

「本当に? ありがとう」

「自分も、紫陽が買ったのを見たぞ」

「勝手に見たんだろうが」

「可愛かったぜ。それに、キュートだったぜ」

「意味同じだ」

 『可愛い』という言葉に対して過敏に反応したのは、瑠奈よりも永の方だった。さりげなく瑠奈の様子を盗み見る。しかし瑠奈当人は永の心配を余所に、至って明るく返した。

「良かった。そう言ってくれると嬉しい」

 それは瑠奈の本心から出た、社交辞令でも偽りでもない本音だった。


「じゃあまた、休み明けに」

「もしかしたら明ける直前に会いに行くかもしれないけど」

「やる気ねえだろ、お前。二人とも、分かってるね?」

「はい」

「榊さんの為に」

 三人は揃って敬礼する。何に対する敬礼なのかはよく分からない。

「助けてくれー」

 喚く萌陸を強引に引っ張る紫陽。二人と別れ、瑠奈と永も家路に就く。

「面白かったね」

「うん。榊さんって、もっと近寄りがたい人だと思ってた。人気者だし、永とは生きる世界が違うなって。でも、そんなことなかった。人気者だからって他人を見下したりしないし、人に好かれる理由が分かった気がするよ」

「そうだね」

「矢代さんも、もっとクールな人かと思ってた。あんなに意固地になって反論してたのは意外だったな」

「あんまり見ない一面が、今日だけでいっぱい見れたね」

「うん」

 相槌を打った永は、ずっと気になっていた先程の出来事について率直に尋ねた。

「さっき榊さんに『可愛い』って言われてたけど、大丈夫だった?」

 輝莉にとってそれは誉め言葉ではなかった。また心に傷を負ったかもしれないと永は不安視していた。

「大丈夫だよ。もう、大丈夫」

 そんな永を安心させるように、瑠奈は優しく呟いた。

「ちょっと前までの私は、『可愛い』って言われても嬉しくなかった。モデルの仕事が楽しいって思えなくなってた。私じゃなくても、輝莉じゃなくても良いんじゃないかって。でもそれは、私が単に何も見てなかっただけなの」

 紋切り型の美辞麗句に、一時的な照明の光、無機質なカメラ。それらを嫌なものにしていたのは、他でもない瑠奈自身だった。

「嫌だからって、それ以上何も知ろうとしなかった。勝手に不貞腐れてた。でも、どんなに嫌でも向き合わなきゃならない。それはお父さんの件で学んだ」

 父親だと思っていた人は本物の新夜ではなかった。裏切られ、傷付き、母親を恨んだ。自分の行いを恥じた。

 あのまま自分の部屋に閉じ籠っていたなら、瑠奈は自分を、自分の母を許せていなかったかもしれない。向き合ったからこそ、今の幸せがある。

「モデル仲間で、最近仲良くなった人がいるの。その人は私と同じように格好良いモデルを目指してて、どんなポーズをするか、どんなカメラワークで映るか、他のモデルさんを観察して一生懸命研究してた」

 霞の話はどれも、輝莉にとって興味深いものばかりだった。

「その話を聴いて気付いたの。私は格好良くなる努力をしてたのかなって。輝莉の外見は私の理想を詰め込んだ。でもその後は? 内面的にも格好いい大人になろうとしてた? 格好良いと思えるモデルになろうとしてた? ううん、私は輝莉の外見だけにしか頼っていなかった」

 なんで誰も私の欲しい言葉をくれないのか。そう疑問に思うことこそ、すでに間違っていたのだ。

「『可愛い』は輝莉に与えられた評価で、輝莉は、私は、受け止めないといけない。受け入れないといけない。違う評価が欲しいのなら、そう言ってもらえるように努力する必要がある」

 ――私は、私が見えていなかった。

「そう思うとね、『可愛い』って言葉が辛くなくなったの。いつか絶対にまた、『格好いい』って言わせてみせるって」

「そっか……、だからさっき、なんともなさそうだったんだね」

「うん。それに言葉として受け入れると、それを言った人にも目が向くようになった」

 無機質なカメラにポーズを取り、眩い光を焚くフラッシュと絶えず点滅するランプに囲まれる。

 しかしカメラのレンズの向こうには、輝莉に興味を持ってくれる無数の眼がある。輝莉を評価してくれる読者がいる。当たり前のことでも、そのことが瑠奈の意識からいつしか消えていた。

 ――私は、読者が見えていなかった。

「今日の矢代さんや榊さんみたいに、輝莉を見てくれてる。トワちゃんみたいに応援してくれる。誰でも良くなんてない。そんなこと言わせないし、思わせない。輝莉じゃないとダメだって、言わせてみせる」

 永の眼には、込み上げてくるものが溜まっていた。

「……そうだよ。輝莉は輝莉じゃないと、瑠奈は瑠奈じゃないと、務まらないんだからね。誰でもいいなんてことはないんだからね……!」

 以前の瑠奈なら響かなかったかもしれない。そう思ってずっと心に仕舞い込んでいた台詞が、ようやく瑠奈に届く。

「ありがとう、トワちゃん」

 瑠奈の言葉を聴いた永は、ようやく重責から解放された気分になった。

「私は狭い視野で、表面的なものしか見えてなかった。だからこれからは、もっと広い視野で世界を眺めていきたい。もっと色んな眼で、業界のことを知っていきたい。辞めるって結論を出すには、まだ早すぎる」

 悩んでいた頃とは違う。モデルを続けたいという明確な意志を持って輝莉は仕事をしていた。

「まあ色々理屈っぽいこと言ったけど、辞めたくないのは、結局モデルが好きだからなんだけどね」

 屈託のない瑠奈の笑顔を前に、永も笑顔で応える。

「強いね、瑠奈は。ちゃんと自分で悩んで、自分で解答を見つけてる」

「そんなことないよ。色んな人に支えられて、やっとそう思えるようになっただけ」

「ううん。強くなった」

 永は瑠奈の隣で、ずっと瑠奈を見続けていたつもりだったが、瑠奈の大きな成長を見落としていたらしい。

「永はずっと、瑠奈は儚い存在だと思ってた。傷付けばすぐに壊れてしまいそうな、昔の瑠奈のままだと思ってた。だから永が瑠奈を守らなきゃいけないんだって。でも瑠奈は永が思っていたよりもずっと、強くなってた」

 新夜に、美姫に、永に、誰かに守られて生きる瑠奈は変わった。ならば、瑠奈を守るだけだった永も変わらなければならないだろう。

「今日の矢代さんと榊さんの関係、すごく羨ましかったんだ。榊さんが、負けたのは矢代さん自身の責任だって強い口調で言ったのは、きっと矢代さんの為を想っての言葉だったんだと思う。矢代さんもそれを知ってるから、榊さんの言葉を素直に聞き入れた。そんな風に、お互いを思い遣って、本音で言い合える関係って良いなと思ったんだ」

 羨ましいと思うのは、自分がそれを持っていないからだ。永と瑠奈の間には、踏み越えられない線が引かれていた。

「永は瑠奈が傷付くのを恐れて、瑠奈に遠慮していた節がある」

 瑠奈に大きな秘密を抱えていたことで、秘密にすることに対して抵抗が無くなり、慣れてしまっていたのかもしれない。

「じゃあこれからは、ちゃんと私に伝えてね」

「場合によっては厳しい口調になるかもだよ?」

「トワちゃんの言葉なら、私は真剣に受け止めるよ」

「ありがとう。瑠奈も、もし永が立ち止まりそうになったら、手を引っ張ってね。もし永が間違った道に進もうとしてたら、ちゃんと引き留めてね。瑠奈を守るなんて大層な使命感を持ってたけど、永自身はまだそんなに強い人間じゃないみたいだから」

「分かった。はやく矢代さんたちみたいな関係になれると良いね」

「うん……!」

 親友という今までの間柄は変わらない。しかし二人の関係性は、これまでとは様相が変わるだろう。瑠奈はそうなる日が楽しみだった。

「お、おまえ……」

「そこは似せる必要ないよ、瑠奈」


 ――今までの関係が変わる、か。

 美姫と夕食を食べていた瑠奈は、先程の永とのやり取りを思い出していた。

 ここ数か月の内で、瑠奈や瑠奈の分身たちの関係性が目まぐるしく変化した。両親との関係、霞との関係、永との関係。

「どうしたの? 難しい顔して」

「あ、うん……。お母さんも、お父さんと初めて会った時はNFだったんだよね」

「そうよ」

「怖くなかった? 本当の自分を見せるの」

 美姫は箸を止め、当時の記憶を懐かしそうに思い出す。

「もちろん、怖かったよ。私の場合は特に、モデルをやってる外見から素の私を見せるんだったからね。幻滅されるんじゃないか、愛想を尽かされるんじゃないかって……」

「でも結局、お父さんに全部曝け出したんだよね。どんな心境の変化があったの?」

「変化ってほど大袈裟じゃないけど……」

 美姫はそう前置きすると、新夜の写真に目を向けた。テーブルの上には、家族『三人』で撮った写真と、生前の新夜を映した写真が飾ってある。

「どうしてもこの人と一緒になりたいって思ったからかな」

 瑠奈もつられて写真を見る。

「それに時間が積み重なる限り、全く同じ関係ではいられない。それが人間関係ってもの。無理矢理押し留めようとしても、かえってお互い不幸になるかもしれない。なら、どうせ変わるなら、私の力で、私が望む関係に変えてやろうって……。そう思っただけよ」

 たとえ変わりたくなくても、時間の流れに乗って次第に変わっていく。

 ――なら私も、私の意志で、変えなきゃいけない関係がもう一つある。

「フフッ」

 美姫は心底嬉しそうに笑う。

「こんなこと訊いて来るなんて、瑠奈もいよいよ覚悟ができたのかしらね」

「なっ、何のことかな?」

 瑠奈は露骨にとぼけてみせるが、美姫にはバレバレだった。

「頑張ってね、瑠奈」

「……うん」

 変わるのが怖いと怯えているだけでは何も解決しない。

 瑠奈は、密かな決意を胸にした。

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