11

 白石華純かすみには七歳年上の姉が居た。姉の真純ますみは思春期に入ると、年相応に見た目を気にし始め、ファッション誌を愛読するようになった。

 通学路に大きな書店があったせいか、真純は電子書籍ではなく紙媒体での雑誌をよく買っていた。そのため華純は端末を持っていない幼い頃から、姉が読み終わったファッション雑誌をよく眺めていた。

 当時七歳だった華純にとってはまだ理解し難い世界で、可愛い人たちが映っている、その程度の認識しか持っていなかった。

 ただ、一人のモデルの名前だけは鮮明に覚えている。

 新見輝未来。

 その雑誌は真純のような十代から二十代までを年齢層をターゲットとしており、新見輝未来は二十代の大人向けのファッションを専門とするモデルだった。華純はおろか真純でさえ、目指すには早いほど、年齢差があったが、華純は一目見た時から目を奪われた。

 華純を射抜く眼光は鋭く、他を寄せ付けない気高さを醸し出していた。服装は雑誌の主軸から大きく外れているわけではないのだが、新見輝未来が着ることで印象を一変させる。そんな強制力に華純も引き寄せられた。

 真純が見終わった後も新見輝未来が載っている号だけは処分せず大事に保管していた。

 私もこんな大人になりたい。いつしか新見輝未来は華純の目標となっていた。


 新見輝未来と出会ってから二年が過ぎた頃、真純が床に放り投げていた雑誌をいつものように拾い上げ、夢中でページを捲っていた。すると、「新見輝未来、次号で本誌モデルを卒業」の文字が目に入った。「卒業」が何を意味するのか、華純は読み進める内に理解していった。

 真純はその雑誌しか購読しておらず、必然的に華純もその雑誌しか読むことができなかった。その点では新見輝未来を定期的に見る機会を失うのは痛手だった。

 しかしどの雑誌の何月号に載るか、検索すれば良い話である。お小遣いを全て使っても買い揃えるのは難しいかもしれないが、見れないわけではない。

 結びの「次回、輝未来さんが明かす重大な告白とは⁉」という意味深長な文言を、華純は半ば強引に好意的に受け取った。

 ところが華純の希望は儚くも崩れ去った。新見輝未来は卒業と共に、業界からも引退する。それを知った華純は、ただ茫然とするほかなかった。その日の夕食が喉を通らなくなるほど華純はショックを受けた。

 突如として目標を失った華純だったが、ずっと打ちひしがれるほど脆弱な性格ではなかった。

 ――新見輝未来が居なくなったなら、華純が新見輝未来みたいになってみせる。

 新見輝未来の存在は、漠然とした理想の大人像から、モデルという具体的な夢を与えるきっかけとなった。

 華純の夢は単にモデルになることではなく、新見輝未来のような大人の色香があるモデルになることである。九歳では幼過ぎると自覚した華純は、ひとまず身体作りに専念した。

 折しも数年後には成長期が到来する。モデルに必要とされる造形となるかは、この成長期に懸かっていると言っても過言ではない。

 基本的には栄養バランスの良い食事を心掛けた。特に成長期に摂取すべき栄養は何か、それが多く含まれている食材は何か、学校の家庭科で習うのに加え、自主的に調べ上げた。そして食事を作る母の手伝いをしながら、それとなく料理を母に注文していた。

 お菓子などの間食も極力控えるようになり、続ける内に自然と食べたいと思う欲求は消え失せた。

 十分な睡眠時間を確保するために早寝早起きを実践した。夜の十時までに就寝、朝の七時起床を徹底した。

 さらに毎日のストレッチやトレーニングも欠かさなかった。筋力の偏りを防ぐため、運動部には所属しなかった。

 努力の甲斐あってか、中学生になる頃には、友人から羨望される体型を手に入れた。いよいよ本格的にモデルへの道を目指し始めた。

 正攻法はオーディションに出場することだった。そして出場するためには両親を説得しなければならない。

 試金石としてまずは真純を説得することにした。納得させられれば味方も増える、一石二鳥だった。

「華純、モデル目指すの? へー、いいんじゃない?」

 真純はあっさりと受け入れた。

「え、そんなあっさりと?」

「いや、薄々気付いてたし。親も多分気付いてる。私が同伴しなくても説得できると思うよ」

 真純の言葉通り、両親もすんなりと華純の夢を受け入れた。

「だって華純、あんなに頑張ってたんだもの。あの姿を見せられて、ダメなんて言えないわ」

 今までの努力が、思わぬ形で華純を後押しした。

 十四歳の夏、華純は初めて履歴書を送信した。数週間後、一次審査通過の通知が届いた。夢に一歩近づいた実感があった。残念ながら二次審査で落選してしまったが、一次を通過しただけでも華純に自信を持たせた。

 反省を踏まえ、同年の冬、華純は再び履歴書を送信した。そのオーディションは一次、二次と順調に通過し、最終審査まで残った。

 最終審査は事務所本社での面接だった。審査員との質疑応答がいくつか交わされ、その後にダンス審査も行われた。緊張のあまりほとんど記憶は残っていない。

 会場だった事務所を出た直後、華純は背後から声を掛けられた。

「ねえ、君。さっき座ってた子だよね!」

 振り返ると、面接前の控室で華純と一緒に待機していた子だった。

「私笑乃えのっていうの。今十四歳なんだけど、君も同じくらいじゃない?」

「私も十四歳です……! 同い年ですね」

 華純が選ぶオーディションだけに、出場者の平均年齢は総じて高くなる傾向があった。そもそも中学生が出場すること自体が珍しいらしく、まさか同世代と会えるとは思っていなかった。

「どんなこと訊かれたか覚えてる?」

「趣味とか特技とか訊かれたと思うけど、それ以外は……」

「だよね! 私もよく覚えてないや!」

 笑乃は元気一杯の笑顔を見せた。釣られて華純も自然と笑みがこぼれる。境遇が似ている者同士、帰り道は二人で盛り上がった。

「もう結果を待つだけだけど、お互いに頑張ろうね!」

 別れ際、笑乃は華純に手を差し出した。

「うん。頑張ろうね」

 華純は手を握り返した。その手は酷く、冷たかった。

 後日届いた結果は、落選だった。最終まで進んでいただけに、それだけショックも大きかった。

 しばらくして、雑誌に載っている笑乃を見掛けた。

 この頃から華純に焦りが芽生え始めた。

 その後も華純は怯むことなく挑戦し続けた。書類審査は確実に通過するのだが、それ以上先に進み悩んでいた。両親や真純はずっと、明るく華純を応援してくれた。その優しさに救われた反面、プレッシャーにも繋がっていた。

 五度目のオーディションに落選した辺りから、華純は最終的な合格者の共通点のようなものに勘付いていた。

 それは、明らかにアンドロイドの合格者が多いということである。

 審査の段階ですでにアンドロイドを公言している人や、モデルとしてデビューした際にアンドロイドだと明かす人が多かった。

 のちに聞いた話で、華純の推測が正しかったことが判明した。


 アンドロイドの芸能界進出に嫌悪感を示す人々は、数年に渡り根強く蔓延していた。

 非難する風潮がようやく下火になったのは、アンドロイドが台頭してから五年ほど経過した頃だった。そしてその二年後には、一転してアンドロイドがブームとなり始めた。一般社会での普及率が大幅に増加し、アンドロイドが身近な存在へと変わったことで、理解が世間に浸透した背景がある。

 望み通りのキャスティングがしやすいアンドロイドは芸能界でも重宝されるようになり、積極的に取り込む時流へと変わっていった。


 華純がオーディションに励んでいた時期も、全盛期ほどではないにせよ、やはりアンドロイドが優遇される傾向があった。

 華純は自身の推測が事実だと気付いていなかったが、落選を繰り返す度に不信感を募らせていった。

 期待しては裏切られる。度重なる感情の乱高下に神経を摩耗させていた華純は、ある日保管していた例の雑誌を開いた。モデルになる夢を叶えるまでは開かないと願掛けをしていたのだが、すっかり自信を喪失してしまった華純は、新見輝未来に活力を貰いたかった。

 初心に戻ったようで、華純の荒んだ心が癒されていった。

 最後の雑誌を手に取る。新見輝未来の最後の姿が載っている号だが、実は、華純は買ってからまだ一度も目を通していなかった。引退の事実を受け止められる勇気が出なかったのだ。

 時間が経った今なら向き合える気がした。

 華純はゆっくりと雑誌を開いた。

「……ッ! ……嘘、でしょ……」

 引退宣言が書かれたページを捲る。そこに掲載していたのは、華純の目標だった新見輝未来が、実はアンドロイドだったことを伝えるインタビュー記事だった。

 ――新見輝未来が、アンドロイド……? 同じなの?

 華純を踏み越えて夢を叶えていった者たちと。

 ――……アイツらと、同じなの?

 労せずして美しい容姿を手に入れたアイツらと。

 ――じゃあ、私がずっと憧れていた、あの美貌も、創られたもの……。

 華純を支える最大の柱が木端微塵に砕け散った。

 記事の中で新見輝未来はこう話していた。

「私を応援して下さった方々を裏切る可能性もあるため、明かすべきか否かを直前まで悩んでいました。ですが、これ以上嘘を重ねたくない。それが私の本意でした。我儘な判断を下したこと、この場をお借りして謝罪したいと思います。申し訳ございません。そして、今まで応援してくださったファンの皆様。本当にありがとうございました」

 嘘ならば嘘なりに最後まで貫いてほしかった。そうすれば華純の中では真実のままでいれたのだから。

 幾多の困難にも果敢に立ち向かって行った華純でも、この衝撃は残酷だった。

 華純の夢の原点と、夢を阻害するものが同じ。

 ――私の今までの努力は何だったの? 必死に努力してアンドロイドに近づこうとしていたなんて、まるで滑稽じゃないの。

 雑誌を掴む手に力が入り、皺が刻まれる。

 ――ならばいっそ、私も……。

 アンドロイドになってしまえば楽だろう。夢が叶う確率も上がるかもしれない。華純の意志が揺らぐ。

 ――でも、それなら私の努力は本当に無駄になってしまう。

 それで納得できるだろうか。それで夢を叶えて本望だろうか。

 ――そんなわけない……! 私の努力は、無駄なんかじゃない!

 華純の心臓に灯った火種は、やがて烈火となって全身を脈動する。

 ――こんな所で終わってたまるか。負けてたまるか。私は私のまま、夢を叶える。そして、アンドロイドを、新見輝未来を超えてやる。

 華純は己の流儀を論定させた。奇しくも華純の運命を変えたのはまた、新見輝未来その人だった。

 十七歳の冬、華純の手元に念願の合格通知が届いた。幾度目のオーディションかを数える気すら無くし、それでも決して挫けずに挑戦し続け、ようやく実を結んだ瞬間だった。すぐさま両親と真純に報告すると、三人とも安堵した表情を見せた。それだけ華純を心配していたのだと改めて気付いた。

 ――まだ始まったばかり。ここがゴールじゃない。

 歓喜に沸く中、華純は人知れず自身を奮い立たせた。


 事務所と契約する際、華純がモデル活動を行う時の芸名を与えられた。絶対に自身を偽らないと決意した華純にとっては芸名も流儀に反するものと見做し、断固としてその名を拒否した。

 基本方針として本名で活動してはならないと定められている事務所と、華純との間で白熱した議論が行われた。最終的に『華純』を『霞』に変換することで両者は折り合いを付けた。

 霞と同じ事務所に所属している他のモデルは、公言している限りでは人間とアンドロイド、ちょうど半々だった。華純の見立てではややアンドロイドが優勢だと睨んだ。

 高校生モデルは霞を含めて四名だったため、他の三名よりも大人びた印象を与えるモデルになる。それが所属当初の華純が課した目標だった。

 もっとも、霞は「クール系」、一名は「可愛い系」、二名は「清楚系」と、予めカテゴリー化されており、同年代で比較するとクール系に分類された霞が大人びて見えるのは必然だった。


 霞は誰とも深く関わろうとはしなかった。アンドロイドはもちろんのこと、周りのモデルは須く霞が超えるべき障壁と捉えていたからだ。

 元より慣れ合うつもりは無かった。和気あいあいとお喋りをする仕事仲間を尻目に、霞は先輩モデルを観察して技を盗んでいた。

「お疲れ様です」

「あ……お疲れ様です……」

 そして用が済めば早々に事務所を後にする。霞の眼には、頂上しか映っていなかった。

 華純が大学三年生の頃、霞の前に一体のアンドロイドが現れた。

「は、初めまして、九瀬輝莉です。よろしくお願いします」

 霞と同い年の彼女は、外見も霞に似ていた。

 一七〇センチの霞よりやや高い身長。服のシルエットからでも分かるくびれ。目尻の長い大きな瞳は、霞を真っ直ぐに見つめていた。霞と同じ「クール系」、それも何処か新見輝未来を彷彿とさせる容姿だった。

「……白石霞です。宜しくお願いします」

 年齢、容姿共に霞と似ている九瀬輝莉に勝つ。そのことに霞は意義を見出した。

 ところがまたしても、霞の熱情は不完全燃焼に終わる。

 九瀬輝莉は凛とした外見とは裏腹に、穏やかなで少し抜けた性格が随所で滲み出ていた。小さな機材トラブルにも動揺したり、インタビューの受け答えの中でも細やかな笑いを生み出す人当たりの良さがあった。

 最初こそクール系の衣装を身に纏っていたが、その性格が露呈してからは徐々に天然清楚系へと路線変更がなされた。霞が手を下すこと無く、九瀬輝莉は土俵から退場していった。


「白石さんはアンドロイドのことどう思いますか」

 仕事の休憩中、霞は唐突に九瀬輝莉から質問を投げ掛けられた。

 ――嫌い。

 真っ先に霞の脳裏に浮かんだのはその単語だった。もちろんそのまま口に出すほど子供ではない。

「どう思うか」と質問する時、大抵は質問した本人の中で、求める回答はすでに決まっていることが多い。答え合わせに過ぎないのだ。

 このような場面では、霞は相手が求めていそうな回答を予測して答えるようにしていた。それが一番、角が立たない返答だったからだ。

 ところが今、九瀬輝莉がどのような返答を要求しているのか、判然としない。手掛かりが少なすぎた。探りを入れるため、霞は質問で返す。

「……どう、とは?」

 だが九瀬輝莉の方も具体的な言葉を期待していたわけでもないらしく、当惑した様子だった。

「いや、その、急に変なこと訊いてすみません。ただ、白石さんみたいに元々綺麗な人から見て、私みたいなアンドロイドは技術の力を借りて、外見だけ誂えて、悪足掻きしてるみたいに映ってるのかなって……」

 ――元々綺麗……? 何も知らないくせに。

 視界がぼやけ、つい軽くなった口から、積もりに積もった鬱憤が吐き出される。

「私は元々綺麗な人なんかじゃない。あなたが私を綺麗だと言ってくれるなら、それは私が努力の末に得たものよ」

 霞の言葉に九瀬輝莉が怯む。霞が放つ鋭利なナイフに脅えるように。被虐者だと主張するその姿は、霞の不快感に拍車を掛けた。

「それに悪足掻きはむしろ私の方では? 簡単に理想通りの姿を手に入れることができる時代に、意固地になって生身のままで活躍しようとしている。私の方が惨めに見えてるのではないの?」

 九瀬輝莉は即座に否定したが、霞は聞き流した。両者の間に沈黙が流れる。アンドロイドと慣れ合う必要は無い。落ち込む九瀬輝莉を歯牙にもかけなかった。

 しかし意外にも、九瀬輝莉は沈黙を破った。

「でも、簡単なんかじゃありません」

 霞に対して真っ向から意見したのは、九瀬輝莉が初めてだった。

「私だって本当は、ありのままの姿でモデルになりたかったです。でも、甘えた根性だと、安易に逃げたと思われるかもしれませんが、努力して夢に手が掛かるほど、私は恵まれていませんでした」

 ――何を言い出すかと思えば、ただの不幸自慢か。

 その不幸に寄り縋っている、自分でも言っていたように、それは甘えた根性である。霞が最も軽蔑する言い草に、虫酸が走った。

「私は外見を偽る選択肢を取りました。私の夢を叶えるためには、夢を捨てるしかありませんでした」

「……」

 華純が捨てた選択肢を、九瀬輝莉は拾った。それだけの話である。

「自分を偽ると決めるにも覚悟がいるんです。だからこの道は、決して簡単なんかじゃありません」

 九瀬輝莉は涙を拭う仕草を見せた。霞は咄嗟に握っていたタオルを渡そうとするが、すぐに意味が無いことに気付く。

「いえ、大丈夫です。何でもないです」

 アンドロイドだったものが、その瞬間は確かに一人の人間に見えた。

 ――九瀬輝莉にも、それを操作している人間がいる。

 周りの人々を敵視するあまり、霞はアンドロイドの奥に居る人の姿を見落としていた。

 選択を迫られる岐路は誰にでも訪れる。それが今後を左右するほどの重要な選択ならば、決意する覚悟も生半可ではできない。

 自分を偽らないと決めた華純と、自分を偽ると決めた九瀬輝莉。

 それらは貴賤で判断できるものなのだろうか。一人のアンドロイドを前に、霞は疑問を呈した。

 新見輝未来を超える。華純を裏切った背中を見据え、脇目も振らずに追い駆けてきた。その道中で得たもの、失ったものは計り知れない。

 これまでも霞と距離を詰めようとする仕事仲間はいた。霞はその差し出された手を無下にし続けた。知ろうともせず、必要が無いと勝手に決め付けて、霞は多くの人を傷付けてきた。

 ――私が憧れた大人は、こんなにも情けない姿だった? 私はどんな大人になりたかった?

 自問する。真似て追い駆けるだけでは、いつまでも追い越すことはできない。

 ――私の夢は、何だった?


 一時間以上に渡った撮影が終了する。スタジオの中は冷房が効いているとはいえ、照明の熱が霞の全身を焼いた。汗でメイクが崩れ、途中にメイク直しを入れるほど暑かった。

『お待たせ。次、輝莉さんお願い』

「はい、よろしくお願いします」

 休憩していた九瀬輝莉が霞と入れ替わりでカメラの前に立つ。半月前は何かに悩んでいた様子だったが、今は憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔を見せている。

 今日の霞の撮影はもう終わった。今までならばすぐに帰っていただろうが、今日の霞は九瀬輝莉の撮影風景をじっと眺めていた。

 その大きな変化に九瀬輝莉も気付いたらしく、終了後に驚いた表情で霞の正面に座った。

「お疲れ様です……」

「お疲れ様です」

 九瀬輝莉は霞の顔を何度も窺っていたが、言及まではしなかった。

「この前はすみませんでした」

 このままではお互い無言が続きそうだったので、霞から切り出す。

「いえ、失礼なことを言った私が悪いんです」

「私の言葉があなたを傷付けたのではないかと思って……。冷静さを欠いていたようで、言い過ぎてしまったと反省しているわ」

「そんな、白石さんが謝ることでは……。それにあの時の会話は色々と気付かされることがあって、それで悩みにちゃんと向き合えるようになったんです。むしろお礼を言わせてください。ありがとうございました」

 九瀬輝莉はぺこりと頭を下げた。

「私も、あの時のことがあったから、原点を思い出せた。こちらこそありがとう」

 九瀬輝莉の言葉が無ければ、霞は自身を顧みることは無かっただろう。

「原点……ですか」

 感慨深く呟いた九瀬輝莉は、恥ずかしそうに俯いた。

「私は子供の頃からモデルになりたかったんです。去年その夢を叶えることができて、私は幸せでした。でも、次第に楽しいと思えなくなって……。続けたい気持ちと辞めたい気持ちがずっと拮抗していました」

 霞は過去の自分を思い出す。夢を追うべきか諦めるべきか。大切な選択のはずが、僅かな衝動で容易くどちらかに傾いてしまう、そんな危うさが怖かった。

「でも、そんなに悩んでたくせに、辞めると心に決めた瞬間に辞めたくない気持ちがどんどん大きくなっていきました。夢を叶えたことを後悔して終わらせたくない。そう思ったから私は、またここに来てしまいました」

 微笑んだその顔に、迷いは一切無かった。

「まだまだ手探りですけど、初心に戻って一から頑張って行こうと思います。――なんか勝手に宣言しちゃってすみません」

「いいえ、興味深い話だったわ」

 霞は自身の発した台詞に驚いた。他人の話を興味深いと思うことも今までは無かった。

 暗闇の中、遠くの光に向かって愚直に走っていた霞の足元を照らしてくれたのは、九瀬輝莉だった。

「あの時、あなたは『アンドロイドをどう思っているか』って訊いたよね」

「はい。急に変な事を言ってしまって……。白石さんを困らせてしまって、すみませんでした」

「いいえ、返答に窮したのじゃないの」

 霞は大きく息を吸い込んだ。

「私はあなたが嫌いだった」

「え⁉」

「正確にはあなたみたいに、アンドロイドがモデルをやっているのが嫌いだった。けれど、アンドロイドだって人間と変わらないって、あなたを見て気付いたの」

 新見輝未来を超える。その目標は達成されるまで華純の中に存在し続けるだろう。だがそれだけが霞の全てではなくなった。

「私はつまらない執念に縛られていた。私が欲していたのは、そんなちっぽけなものじゃない。人間かアンドロイドかなんてどうでもいい。何故なら――」

 ――私は、誰よりも格好良い大人になりたいから。

 そのためには周囲との壁を取っ払わなければならない。他人を知ることで人は大人に近づけると気付いたから。

 霞の大人への第一歩目は、子供のまま自分の殻に閉じ籠っていた華純を連れ出してくれた輝莉が良い。他人と信頼を築くには自分も相手に知ってもらう必要がある。

 霞は自身の話を、輝莉に話し始めた。

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