9

 安住永と大木瑠奈は保育園以来、高校に至るまでクラスは違えど一緒に過ごしてきた。仲良くなった詳しい経緯は覚えていないが、年少の時に同じ組になったことが大きなきっかけとなったのは間違いないだろう。

 保育園時代の思い出として、共に楽しく遊んでいた記憶も残っているが、永に最も深く刻まれているのは、瑠奈の悲壮な顔だった。

 お迎えの時間となり、永は父に連れられて玄関に向かう。振り向きざま、直前まで身を寄せて親の迎えを心待ちにしていた瑠奈に、別れの合図として手を振った。瑠奈もまた手を振り返すのだが、その視線は永ではない何かに注がれているように感じた。

 永だけでなく、他の子が去って行く時にもその顔を覗かせていた。永や他の子が抱く、単純に別れを惜しむ寂しさだけではない。幼心に永は違和感を覚えた。

 ただ永はその顔の真意を瑠奈に尋ねることはできなかった。違和感を言い表せるほどの語彙を持ち合わせていなかったからだ。

 さらにその顔はある時を境に全く見せなくなった。ごく短い期間に訪れた特異な変化であり、それ故に月日が流れる内に永の思い出の奥底へと沈んでいった。


 その日永は、テレビを見ている母の横で宿題をしていた。

「そうか……もう五年が経つのね」

 母が独り言をこぼした。宿題に集中していた永は、そのままの姿勢で母に尋ねた。

「何が五年経ったの?」

「瑠奈ちゃんとこのお父さんが――あっ、いや、何でもないわ!」

 喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだのが見ずとも分かった。永はそこでようやく手を止めてテレビ画面を凝視した。

 映像には献花台に並べられた花束の前で、手を合わせる人々が映し出されていた。画面の端には『裾曳川土砂災害から今日でちょうど五年』の文字が躍っている。永には聞き馴染みのない出来事だった。

「瑠奈のお父さんが何? どうしたの?」

「何でもないって言ってるでしょ!」

 母は永の追求に対して強引に抑え込もうとする。しかし永としても、親友の名前が出た以上簡単に引くことは出来なかった。

「ねえ何なの? お母さん。ねえって! 瑠奈のお父さんがどうしたの⁉」

 物理的にも距離を置こうとする母に食い下がって捲し立てた。するととうとう観念した母が苦々しい顔で言葉を繋げた。

「……瑠奈ちゃんの、お父さんは……あの災害の犠牲者なのよ」

 ぎせいしゃ。十歳の永は急に出て来た難しい言葉に戸惑ったが、すぐにその言葉の意味を把握した。

「ぎせい者。それって、瑠奈のお父さんは五年前に死んでるってこと……?」

 だが永は直後に否定した。

「うそだよ! そんなの絶対うそ! だってこの前、瑠奈がお父さんと会ったって話、永にしてたもん」

 瑠奈の父は海外で仕事をしているらしく、一か月に一回しか会えないのだと、瑠奈は寂しそうにも笑って永に打ち明けてくれた。瑠奈が父と会った翌週には必ず永にも嬉しそうに報告していた。そして一か月後の約束の日まで「あと何日」と一緒に数えていた。

「だから死んでるなんておかしいよ」

「そのお父さんは、瑠奈ちゃんのお母さんなの。瑠奈ちゃんのお母さんが……NFでお父さんの振りをしているの」

 永の筋の通った主張は、NFという異質な存在の介入によって捻じ伏せられた。NFに代表される遠隔操作型アンドロイドの存在については学校で教わったばかりだったため、辛うじて母の説明を理解することができた。だが衝撃が大き過ぎたせいで、永は理解できたことをしばらく自覚できなかった。

「そんな……。だって、じゃあ……」

 茫然と立ち尽くす永の両肩を掴み、母はゆっくりと諭した。

「このことは絶対に瑠奈ちゃんに話しちゃダメだからね。それに瑠奈ちゃんのお母さんにも。それが……瑠奈ちゃんの為なの」

 母の悲痛な顔は、永の思い出の底に眠っていた、瑠奈の悲壮な顔と重なった。

 思えばあの時、二人は五歳だった。ちょうど、瑠奈の父が亡くなった災害が発生した時期と一致している。あの顔は単に友達との別れ惜しさだけでなく、父との突然の別れに悄然としていたことが要因となっていたのだ。

 五年の時を経て、永はあの時の違和感の正体を知った。

 ――もしこのことを瑠奈にしゃべったら、瑠奈はまたあのころの瑠奈にもどっちゃうのかな。

 それだけは阻止しなければならない。

 永は母の忠告通り、この秘密を隠し通すことを決心した。

 真実を聞かされてから二週間が過ぎようとしていた月曜日の帰り道。恐れていた瞬間が訪れた。

「それで昨日お父さんと会ったんだけどね、お父さんってば――」

 瑠奈を何よりも破顔一笑させるのは、この話を始める瞬間だった。瑠奈の一か月の楽しみが父と会うことならば、永の一か月の楽しみは、父との時間を嬉々として話す瑠奈を見ることと言っても過言ではない。如何に瑠奈が父を好いているか、その喜びが身体全身から滲み出ていた。純粋に誰かを慕う瑠奈が、とても愛おしく思えた。

 しかしその日だけは、永は瑠奈を直視することができなかった。心酔している相手が偽物だと知ったならば。その先は想像に難くない。

 いつもはすぐにやってくる分かれ道を恨めしく思っていたが、早く来てくれと願ったのは、この一度だけだった。

 瑠奈と別れる時、自然に振舞えていたかどうか覚えていない。真実もろとも、あらゆるものがこぼれ落ちないように堰き止めるので精一杯だったからだ。

 一人になると、永は歩きながら泣いていた。

 一度は失いかけたその存在が、瑠奈にとってどれほど心の支えとなってきたか、誰よりも永が間近で観察してきた。

 瑠奈のためだから。

 その言葉が持つ重責を、永は身をもって得心した。

 中学一年の春、永は初めて瑠奈の家を訪れた。小学生が夜遅くに出歩くのは危険だと、安住家では門限が厳しく定められていた。放課後に瑠奈の家で遊んで、永の家まで戻ろうとしても、子供の足ではどうしても門限に間に合わなかった。そのため、小学生の頃は遊びに行くことができなかった。

 それが中学生になり門限が多少緩和されたことで、永は瑠奈の家まで行けるようになったのだ。

 しばらく瑠奈の部屋で遊んだ後、永はトイレに立った。部屋を出ると、永はゾクリと背中を凍らせた。他人の家にお邪魔した時に感じる、疎外感のような不安は何度も経験したことがあった。しかしその不安に交じって感じる静寂は、永に得も言われぬ恐れをもたらした。

 用を済ませ、早足に瑠奈の居る部屋に戻る。

「あ、おかえり。……どうかした?」

「ううん。何も」

 不安を掻き立てるような静寂の中に瑠奈はずっと居たのかと思うと、今まで遊びに来なかったことを後悔した。両親の言い付けを破ってでも来るべきだったかもしれない。

 過剰な心配だと己を落ち着かせようとしたが、帰り際に確信へと変わる。

「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」

「あ……うん。もう遅いもんね。……今日は来てくれてありがとう。楽しかったよ」

 瑠奈は永の袖を掴みかけ、すぐに引っ込めた。本当はもっと一緒に居てほしいのだろう。しかし瑠奈は我儘を言う性格ではなかった。本音を押し殺して永を見送ろうとしている。

 いくら心の支えがあろうと、瑠奈は容易く傷付き、壊れてしまいそうだった。ましてその支えが偽物だったなら尚更である。

 ――やっぱり永が守ってあげないと。

 この時から、永の瑠奈に対する庇護欲が芽生え始めた。

「ただいまー。あれ、誰か来てるの?」

 瑠奈の母が帰って来た。

「お母さん……! おかえり。今、友達が来てるんだ」

 母の声を聞くや否や、瑠奈は安堵した表情を見せた。

「こんばんは」

「お邪魔してます。安住永です」

「ああ! よく瑠奈が話してる子だ。いつも瑠奈がお世話になってます」

「いえ、こちらこそ」

 当然瑠奈よりも大人びているが、物腰の柔らかな雰囲気は瑠奈に似ている。

「それじゃ、今日は失礼します」

「もう帰るの? 何ももてなせなくてごめんなさい。またいつでもうちに遊びに来てね」

「はい……、必ず。瑠奈、また明日」

「うん。また明日」

 母の腕に抱き着きながら、瑠奈は永に手を振った。

 正直、永は瑠奈の母親を良く思っていなかった。どんな理由があれ、瑠奈を苦しめるかもしれない嘘をついたことが許せなかった。しかし実際に会って、永はすっかり毒気を抜かれてしまった。

 背格好のみならず、温厚な人柄が瑠奈にそっくりだった。人を傷付けるような嘘をつく人には思えなかった。恐らくあの母親も断腸の思いだったのだろう。短い会話だったにも関わらず、そう哀憐を禁じ得ないほど、柔和な印象へと書き換えられた。


 瑠奈の夢を知ったのも、同じく中学一年の頃だった。初めて進路希望書なるものを配布され、それぞれが自分の将来像と向き合う機会を与えられた。

 将来の夢は何度も思い描いていたが、どれも現実味が無く漠然としていた。できるならずっと保留のまま今を謳歌したかった。

 対して、瑠奈は明確な夢を永に語った。

「実は私、モデルになりたいんだ」

 意外だった。どちらかと言えば瑠奈は目立つことを避けるきらいがあった。率先して行動するよりは、誰かの背中に従っていた。そんな瑠奈がモデルを目指しているとは露にも知らなかった。

「お母さんが持って帰ってくる雑誌を読んでる内に、私もこんな大人になりたいって思って……。私なんかがなれるか分かんないけどね」

 瑠奈自身まだ悩んでいる最中のようだったが、永は自分よりも先を見据えている瑠奈が羨ましかった。

「そうかー。じゃあ永は瑠奈のファン第一号になるのが夢!」

 未来に進む瑠奈を、隣で支えていこうと決意した。

 しかしそれからの瑠奈は、日を追うごとに元気を無くしていった。

 最大の要因は容姿だった。小学校の高学年ではクラスの中でも比較的高身長な方だったが、それ以降はあまり伸びず、成長期の終盤時点で平均よりも下回っていた。身長のみならず体型も見違えるほどの変化は無かった。童顔も相まって、徐々に年齢相応に見られなくなっていった。

「瑠奈は十分可愛いよ。小動物的って言うか、守ってあげたくなるって言うか……」

「……ありがとう。でも、私は……」

 お世辞抜きでも瑠奈は芸能人に引けを取らない可愛さがあった。しかし瑠奈の思い描く理想像ではなかったらしく、永の言葉が瑠奈の自信へと転換することはなかった。

 その後も瑠奈は努力を続けた。身長を伸ばす方法は一通り試し、時には永が注意するほどの食事管理を課すこともあった。流行の勉強にも余念が無く、お小遣いの大半はファッションのために費やしていた。

 だが現実は非情にも、瑠奈の容姿は依然に比べほとんど成果を見せなかった。努力とは裏腹に瑠奈の苦悩は増大するばかりだった。

 瑠奈の部屋の机に一冊の雑誌が置かれていた。横から見るとページが折れた跡がある。そこを開くと、「オーディション参加者募集」の記事が目に入った。もう何度見た光景だろうか。瑠奈は挑戦しようとして、踏ん切りがつかない状態が続いている。

 ――瑠奈の背中を押すために、永ができることは何だろう。

 永もまた、行き詰ったまま苦悩していた。

 そろそろ高校受験を意識するようになり始めたころ、瑠奈は突然、永の目の前に端末の画面を見せてきた。

「私、このオーディションに出ることに決めたよ!」

 興奮冷めやらぬ瑠奈を目の当たりにして永は歓喜した。ようやく瑠奈が夢に近づいたのだと。

「どこのオーディション⁉」

 永は画面に視線を向ける。

「その、NFを使って出場しようかなと……」

 瑠奈の言葉と「アンドロイド」の文字に、永は絶句した。

 それはつまり、今までの努力が泡沫に帰すということではないのか。夢に近づいたようで、夢を諦めたのと同義ではないのか。

「……そうなんだ」

 だが瑠奈の笑顔を前に、永は言葉を飲み込んだ。簡単な決断ではなかったはずだ。

「永はいつでも、瑠奈を応援してるからね」

 瑠奈が決めたのなら、瑠奈が笑って過ごせるのなら、永は傍で支えるまでだ。

 瑠奈が、否、九瀬輝莉がオーディションに合格し、晴れてモデルの仲間入りを果たしたと聞いた時、永は嬉しさと一抹の寂しさを感じていた。夢を叶えた瑠奈が、永を置いて遠くに行ってしまうような不安があった。

「トワちゃん、ありがとう。トワちゃんのお陰だよ」

 しかし永に抱き着いて感涙する瑠奈を見て、そんな不安は軽く吹き飛んだ。

「良かった。良かったよ、瑠奈。これでファン第一号は永だからね」

 やはり瑠奈にはまだ自分が付いていてあげなくては。

 永は胸に抱いていた瑠奈の頭に左手を添えた。まるで親が子供にするそれのように、瑠奈の頭を撫でるようになったのは、この時からだった。

 ――それに……。

 モデルという新たな世界に触れることで、今も瑠奈を支え続ける父への依存が少しでも軽減すれば、いつか真実を知る日が来ようともショックが小さいのではないか。永は図らずも差した光明に、期待せずにはいられなかった。


 委員会の仕事を終え、瑠奈の待つ教室へと向かう。階段を上っていると、降りてきた萌陸と踊り場で鉢合わせた。

「よう。大木だろ? 教室で待ってたぞ」

 運動神経が抜群に優れており、瑠奈の教室で昼食を食べる時に、たまに隣に居る人。最近は瑠奈の隣席の矢代さんと共に会話をすることもあったが、二人きりでの場面で言葉を交わしたことはほとんど無い。

 永の中の、萌陸の情報はそれくらいだった。

「あ、ありがとう……」

 誰にでも率直に接する萌陸に対して、永は未だに距離感を測り切れていない。

「ホントにすぐに来たな」

 永には何を言っているのか分からなかったが、萌陸は快活に笑った。

「呼び止めて悪かったな。それじゃ」

 萌陸は目にも留まらぬ速さで駆け下りて行った。納得したような萌陸とは対照的に、永は掴み所の無い言動に困惑する。

「……何だったんだろ……」

 ともあれ永は、瑠奈の元へと急ぐ。

 窓の外の夕焼けを眺める瑠奈に声を掛ける。

「瑠奈~、お待たせ~」

 いつもならこの一言で振り返るのだが、瑠奈は微動だにしない。不思議に思い、教室に踏み入って近づく。

「瑠奈~?」

「うわあ!」

 まったく永の存在に気付いていなかったらしく、瑠奈はお化けに遭遇したかの如く叫び声を上げた。

「何だ、トワちゃんか。びっくりした……」

 振り返って永の姿を確認すると胸を撫で下ろした。

「今日も遅くまでお疲れ様」

 瑠奈は何事も無かったかのように鞄を持って立ち上がった。


 永の声が届いていなかったのも然り、教室からずっと黙ったまま後ろを着いてくるのも然り、やはり瑠奈の様子がおかしい。ここ数か月たびたび漏らしている仕事の悩みが関係しているのかもしれない。そう判断した永は、

「……仕事の方はどう?」

 お決まりの台詞で探りを入れる。

「……うん。まぁ相変わらず、かな。ちょっと前向きに考えられるようになったかも」

 てっきり仕事に対する不満がさらに募ったのかと永は予想していたが、むしろ知らぬ間に好転したらしい。では他の要因とは何か。瑠奈をここまで追い詰めるほどの要因に、心当たりが無かった。

 永が別角度から探ろうとする直前、瑠奈が先に口を開いた。

「一昨日……お父さんが、来たんだ」

 一昨日は約束の日ではなかったはずである。それに瑠奈の表情が曇っている。父親関連の話題で瑠奈の顔が翳るなど有り得なかった。

「そう……なんだ」

 まさか。不穏な予感を察し、永は当り障りの無い相槌を打つ。

「うん。そこでね……お父さんは、本当のお父さんじゃないって言われた」

 永の心臓が跳ね上がる。声を出すのはおろか、呼吸の仕方さえ忘れてしまったようだ。

「本当のお父さんじゃないってのは、血の繋がらない義父だって意味じゃなくて、ええっと……上手く説明できないんだけど……」

 瑠奈は必死に頭を働かせて何も知らないであろう永に伝えようとしている。永はその姿に居た堪れなくなり、目線を逸らした。

「要するに、お母さんがNFを使って、お父さんの振りをしていたんだ」

 いつかこの時が来るのを覚悟していた。しているつもりでいた。だが想像していた以上に、永は圧し掛かる重さに押し潰されそうになっていた。

「急にこんなこと言っても分からないよね。はは」

 ――やめて。そんな哀しそうに笑わないで。

「私は、ずっと……、お母さんに騙されてて……」

 ――やめて。そんなに目を潤ませないで。

「私は……、わたしは…………」

 ――やめて。瑠奈は誰かを悪く言う子じゃない。

「瑠奈、ごめん。永、知ってた……」

 もう隠し通すのは耐えられなかった。

「ッ⁉ トワちゃん……?」

「小五の時、永のお母さんがうっかり口を滑らせたのを偶然聞いて……。だから、瑠奈のお父さんが、本当は瑠奈のお母さんだって、知ってたの」

 永は瑠奈に頭を下げた。

「ごめん。ずっと隠してて、ずっと言い出せなくて、ごめんなさい。でも、これだけは言わせて」

 たとえ瑠奈に嫌われたとしても、永には真実を告げたい。でなければ永が好きだった優しい瑠奈がいなくなってしまうようで、永はそれが何よりも恐ろしかった。

「永は、瑠奈のお母さんは、瑠奈に嘘をついてきた。でもそれは、瑠奈を守るためだったの。大切な存在を失った瑠奈は、触れただけで砕け散っちゃいそうなぐらい不確かで、不安定だった。目を離した隙に跡形も無く消えてしまいそうだった」

 永に残った最も古く、決して忘れることのなかった瑠奈の顔が脳裏に明滅する。

「そんな瑠奈が壊れない為の希望を知ってしまった。このやり方が間違ってるのは分かってる。でも、それが偽りだったとしても、その光で瑠奈が笑って生きて行けるなら、永はそっちが良かった。そのやり方に頼るしかなかった。きっと、瑠奈のお母さんも同じだと思う」

 結果的に瑠奈を苦しめたのだから、永は言い訳を並び立てたに過ぎない。それでも瑠奈には母を憎んでほしくなかった。

「だからお願い。どうか、お母さんを責めないであげて。お母さんを、許してあげて」

 父と永別し、母と別離する。瑠奈の家族が離れ離れになり、さらに瑠奈が深く傷付くのだけは避けたかった。

「顔を上げて、トワちゃん」

 瑠奈の口調はいつも通り、穏やかだった。永は恐る恐る瑠奈に従う。瑠奈は眼に涙を溜めているが、気丈にも流すのを我慢している。

「初めて聞いた時、私はお母さんが許せなかった」

 永はビクリと身体を震わせる。

「こんな辛い思いをするなら、いっそ……『お父さん』なんて居ない方が良かったって思った。でも、違うんだよね」

 瑠奈は永に歩み寄る。

「辛いのは私だけじゃない。私をずっと騙さなきゃいけなかったお母さんも辛かったんだよね。私の隣でずっと見守っててくれたトワちゃんも、辛かったんだよね」

 永の顔を瑠奈は両手で包み込んだ。

「だから、もう泣かないで」

 瑠奈の手から腕に向かって透明な液体が流れているのが見えた。永はそこで初めて、自分が大粒の涙を流していることに気付いた。

「私の方こそ、ずっと迷惑掛けてごめんなさい。ずっと、こんな不甲斐ない私を見守っててくれて、ありがとう」

 瑠奈の眼に湛えられていた涙がこぼれ落ちる。

「……瑠奈だって、泣いてるじゃん」

「私は良いんだよ」

「なにそれ……意味わかんない……」

 永は瑠奈の身体を抱き寄せた。

「ごめん……ごめんね」

 謝り続ける永の頭をそっと撫でた。親が我が子にするように。瑠奈が永にしてもらったように。


 橋まで移動すると、二人はいつものように欄干に肘を置いた。

「永がずっと黙ってたって言ったら、瑠奈に嫌われるかもって思ってた」

「嫌いになんてならないよ。だってトワちゃんは私の親友だから」

 永の弱音を瑠奈は即座に打ち消す。

「トワちゃんは私の為を思って黙ってたんだって、ちゃんと分かってるから」

「……なんかカッコ良い。瑠奈が急に大人っぽく見える」

「そんなんじゃないよ」

「そんなことあるよ。瑠奈が真実を知った時、瑠奈がどうなるかって考えるだけで永は怖かった」

 またあの頃の瑠奈に戻ってしまうのではないか。その恐怖が、永の口を固く閉ざした根源でもあった。

「でも永が考えてたよりも、瑠奈は冷静に物事を捉えてた。だから大人っぽくなったなって」

 永の言葉に瑠奈は微笑む。そして眼下の自分の影を眺めながら言った。

「私だって最初に聞いた時は驚いたし、怒りもした。でも、それから色んな人と話して、色んなことに気付いた。私が見てなかった、知らなかった世界に気付かせてくれた。だから私も変わることができたんだと思う」

「そういえば仕事の方も前向きに考えられるようになったって……」

「うん。今回のことがあったから、私はもう一度真剣に向き合って、私の答えを導き出すことができた。だから――」

 夕焼けを背負った瑠奈の瞳には、決意の炎が燃えていた。

「私はもう一度お母さんと話し合わなきゃならない。しっかり向き合って、お母さんの気持ちを確かめたい。それで、私たちの答えを出したい」

 欄干に置かれた瑠奈の右手に、永は左手を重ねた。

「瑠奈ならきっと良い答えを出せるよ」

 ビルに沈む直前の夕陽が、刹那に閃光を発する。それを合図に、影はその輪郭を溶解させた。耳を澄ますと、優雅に流れる川のせせらぎが微かに聞こえた。

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