8

 瑠奈はいつもより早い時間に家を出た。あれから二日が経とうとしていたが、未だに美姫とは顔を合わせづらい。部屋に長く閉じ籠っていると、思考まで塞ぎ込んでしまいそうな不安に駆られ、瑠奈は早朝の街に逃避した。

 有明の空にはビルに阻まれた太陽の気配が広がっている。足から伸びた影ですら輪郭が覚束ない。ましてや遠くのまばらな人影は、不確かに揺れていた。

 今ここにある世界と別の世界が混濁したような頼りなさに、瑠奈は見覚えがあった。瑠奈が別のものに変わる狭間、ミドルルームが拡張したような光景だった。

 校門をくぐる。いつもは隣のグラウンドから活気のある運動部員の喚声が響いているが、この時間ではまだ準備運動をしている最中だった。

「あれ、大木さん? 今日は随分と早い登校だね」

 校舎に向かう途中、横から瑠奈を呼び止める声があった。ランニング姿の紫陽である。殊勝にもすでに練習を始めていたのか、瑠奈の前まで走って近づいてきた。

「うん。今日は早く来たい気分だったんだ」

「さすが優等生だ。毎回始業時間ギリギリに来る誰かに爪の垢を煎じて飲ませたい」

「あはは……。あ、義足、直ったんだ」

「ああこれ? 実は新しいやつなんだよね」

 紫陽は義足を前にもたげた。確かに体育の時に見ていたものとデザインが微妙に異なっている。

「前壊れたやつも一応修理できたんだけど、この機会に別のにも挑戦してみようかなって思って、新調したんだ」

「使い心地はどう?」

「前のよりばねの張力が強くなった分、屈曲抵抗が大きいから最初は走りにくかったけど、今はだいぶ慣れたかな。けどまだ使いこなせてないから、もっと練習しないと」

 紫陽にとって苦慮を強いられる要因は素人目には分からない。残念ながら瑠奈には応援することしかできない。

「今度の大会は私も見に行って良い?」

「もちろん。と言っても大会に出るにはまだ調整が必要だから、いつになるかは未定だけど。早く見に来てもらえるように頑張るよ」

 紫陽はソケットの部分を愛おしそうに軽く撫でた。


「そういえば昨日、街中で大木さんを見かけたよ。遠かったから話し掛けなかったけど」

 部室棟へと向かう紫陽に自然と付いて行く形になる。

「そうなの?」

「うん。昨日の夕方、私が銀行の横のNFSから出た時にチラッと」

「え⁉ 矢代さん、NF利用してたの?」

「うん」

 今まで紫陽の口からそのような話題は出て来なかった。

「てっきり矢代さんはアンドロイドに興味無い人だと思ってた」

 根掘り葉掘り尋ねたい所だが、あまり詮索しないのがマナーだ。瑠奈は開いた口を固く結んだ。

「あはは! 大木さんは分かりやすいな。別に話しにくいことじゃないから。にしても顔に出過ぎだよ。あはは」

 そんな瑠奈を見透かした紫陽は、乱れた呼吸を正すと話し始めた。

「実は私もNF使ってるんだ。と言っても、外見とかサイズ、身体能力は完璧に私と同じだけどね。唯一違うのはここだけ」

 紫陽は自分の右脚を指差した。

「大木さんの言う通り、最近まであんまり興味は無かったんだけど、ふと思ったんだ。もう一回自分の足で走りたいなって」

 地面に落ちた視線は、どこか遠くへと続いていた。

「私は事故で片脚を失ったけど、走れなくなるほどの重傷じゃなかったのは幸運だった。私は走るのが好きだから、走れさえすれば良かった。でも義足が壊れて走れなくなった時に、無性に腹立ってさ。五体満足の人は好きな時に好き勝手に走れるのに、私は走りたい時に走れないんだから。そんなこと思ってると、自分の足で地面踏み締めてたころが懐かしくなって」

 足を前に出すために太腿を横に回して歩く。紫陽にとっては馴染んだ動作かもしれないが、傍から見れば億劫そうだった。

「――ってなんでそんな深刻そうな顔してんの? 重い話したつもりは無いんだけど。それともつまんなかった?」

「ううん、そんなこと無いよ。ちょっと自分が恥ずかしくなって……」

「恥ずかしい?」

「NFに利用されている技術は、元々は介護だったり、福祉の為に開発されたものでしょ? それを私利私欲で使ってるのが、なんか恥ずかしくなって」

 人を救う為に生まれた技術を、瑠奈は己の欲望を満たす為に手を付けた。そして強烈なしっぺ返しを食らって傷を付けられた。

「私にNFを利用する資格は無いのかも」

 誰かに哀しみを背負わせる可能性を握っているのなら、瑠奈はもう瑠奈以外にはなれない。

 何者にも成れる。

 それは瞳を閉じて見る夢と同じだ。瑠奈は長い夢を見ていたに過ぎないのかもしれない。

 ――なら、もう目覚める時間かな。また長々と眠りに就いてしまったけど、今度こそ起きないと。

 隠れていた朝日がようやく姿を現し、瑠奈の身体を苛烈に燃やす――

「それなら私にだって資格は無いよ」

「……え?」

「私だって私利私欲の為に利用した。だって走りたかっただけだもん」

 子どものような言い草だったが、紫陽は胸を張って断言した。

「世の為人の為に開発されたものでも、それだけの為に利用しなきゃならないってことはないでしょ」

「でも、自分勝手に使ってたら、誰かを傷付けるんじゃないかな」

「確かにそうかもね。でもその可能性と同じく、意図せずに誰かを救うことだってあるかもしれない。大木さんがモデルをすることで読者に夢と希望を与えているようにね」

「それは……、そうかもしれないけど……」

 そうだと信じたかった。九瀬輝莉は必要な存在だったと。

「どんなことがきっかけで運命が左右するかなんて分からないんだから。かく云う私も、NFを使って初めて分かったことがある」

 紫陽は義足に体重を乗せると、持ち上げた左足の裏を思い切り地面に叩き付けた。

「NFの恰好で走ってると、ただ足を動かしてるだけのような徒労感しかなかったよ。久しぶりに、自分の両足が大地を踏み締めてる感触が味わえたのに、期待したほどの充実感は無かった」

 生暖かい風は吹き抜ける。ちょうど良いとばかりに紫陽は両手を広げた。

「私は風を感じるのが好きだったんだ。耳元で風の切れる音を聴いて、一身に風を受ける。すると自分が一陣の風になったような感覚になる。私はそれが好きだったんだなって気付いた。NFじゃ刺激が小さすぎて感知できないのか、あんまり風を感じなかったんだ」

 紫陽はいつもの不器用な笑みを瑠奈に向ける。

「他人の為だとか、自分の為だとか、深く考える必要は無いと思うよ。もちろん、資格云々もね」

 部室棟の前まで辿り着く。紫陽は義足を付け直すために階段に座り込んだ。

「私は少し休憩したらまた走りに行くよ。ここまで付き合ってもらって悪かったね」

「そんな、むしろ矢代さんの話が聞けて良かった」

「昨日見掛けた時は何か悩んでる様子に見えたから、それに関係あるかは分からないけど、参考になったなら話した甲斐があったよ」

 またしても紫陽に見抜かれていたらしい。

「うん。参考にさせてもらう。ありがとう」

「私は私の話をしただけなんだけどね。意図せずに大木さんを救っちゃってたのかな?」

 おどけた口調で俯いた。彼女なりの照れ隠しなのだろうと瑠奈は気付く。

「さっきも言ったけど、深く考える必要は無いさ。なんてったって、大木さんよりも私利私欲で乱用してるやつを私は知ってるからね」

 紫陽は一人の悪友を思い浮かべているのか、どこか嬉しそうに微笑んだ。


 真面目に授業を聞いていた瑠奈だったが、やはりふとした瞬間に意識を持って行かれる。

「――瑠奈、ちゃんと永の話聞いてる?」

「あ、ごめん。何?」

「も~~」

 一緒に昼食を食べていた永にも呆れられる始末だった。

 母に対する怒りが完全に消えたと言えば嘘になる。ただ瑠奈の中で容易に抑え込めるほど小さくなったのは確かだった。

 ――でも、じゃあお母さんを許せるかってなると……微妙なんだよな。

 わだかまりを残さずに終止符を打つのは難しい。


 着地点に迷っている内に、いつの間にか放課後になっていた。今日も永は委員会の仕事があるらしく、瑠奈は一人教室で永を待っていた。何をしようとしても身が入らず、机に突っ伏して教室を照らす落陽をぼんやりと眺めていた。

 窓際に並んだ机上の液晶ディスプレイが外光を反射している。その眩い光は、輝莉を照らし出す照明の光に似ていた。

「あれ、大木? 今日は随分と遅くまで残ってるんだな」

 今朝の紫陽に似た呼び掛けは、今度は萌陸によるものだった。

「うん。友達を待ってるの」

 瑠奈がこの時間まで残るのは萌陸が驚くほど稀なことではなかった。むしろ――

「榊さんがこの時間まで校舎内にいるのも珍しいね」

 萌陸は授業が終わると同時に下校して友人と遊びに出掛けるか、運動部にちょっかいを出すかが常だった。

「あ、また呼び出されたとか?」

「またってなんだ。さすがにそんな頻繁に呼び出されねーよ。今日は遊んでくれる奴が誰も捕まらなくて、暇してたんだ。仕方ないから紫陽を冷やかしに行こうかと思ってたら教室に大木がいるのを見つけて」

 話ながら萌陸は瑠奈の席にどかっと座った。

「せっかくだし大木の友達が来るまで、話し相手になってもらおうかな」

 相手に不快を感じさせない範疇まで距離を詰める。萌陸の生まれ持った無自覚の慧眼こそ、萌陸が男女問わず支持されている要因となっているのかもしれない。

「大木は何してたんだ?」

「んー……何も? ぼーっとしてた」

「なんだそりゃ」

「あ、そうだ。矢代さんがNFを利用してたって知ってた?」

「ああ、そうらしいな。アイツのことだからどうせすぐ飽きるんだろうけど」

 紫陽の幼馴染は伊達ではなく、彼女の特性を完璧に見抜いていた。その紫陽が『瑠奈よりもNFを私利私欲で使用している』と称したのが萌陸である。

「あの……前から気になってたんだけど、榊さんはなんでNFを利用しようと思ったの?」

 多くの生徒から慕われている彼女が、どんな理由で『神木巡流』という別人を創り上げたのか。瑠奈は思い切って萌陸に尋ねた。

「そりゃあ、遊びたかったからだ」

 萌陸は端的に答えた。純粋な目を向けている。瑠奈をはぐらかそうとしているのではなく、その一言に萌陸の答えが集約されていた。

「自分はずっとこんなガサツな性格だから、女子が話してるようなおしゃれとかには全然興味無いし、男子に混ざって外で走り回ってる方が好きだった。色んな奴と仲良くやってきたけど、本音を話せる女友達っつったら、まぁ……紫陽ぐらいかもな」

 誰の懐だろうと飛び込んで心の扉を開けてきた萌陸だったが、自身の扉を開ける相手は限られているらしい。表のアクティブな行動とは裏腹に、萌陸は案外臆病なのかもしれない。

「そんな感じでずっと男子たちとつるんでたんだけど、中学生になった頃から付き合いが悪くなってきたんだ。自分は最初、特に気にしてなかったんだけどな」

 萌陸は片肘を付いて目線を外に移した。

「サッカーしてて、自分がボール持って相手抜こうとした時、そいつは勝手に身を引いたんだ。その時に何となく分かった。自分が女だからなんだって」

 空いていた右手を萌陸は自身の胸にあてがった。制服の上からでも小さな膨らみが見て取れる。

「あいつらは自分に接触しないように遠慮してやがった。自分は遊びだろうと本気でやり合いたいから、『本気でやれ』って何度も言ったけど、逆効果だった。あいつらはどんどん自分から距離を置いてった」

 制服の皺が深く、広がってゆく。

「しょうがねーじゃん。自分だってこんな身体になりたかったんじゃねーんだから」

 その台詞は普段の萌陸からは想像できないほど、弱弱しかった。重たい雰囲気を払拭するように、萌陸は右手をパッと開いてひらひらと振った。

「だから自分は『巡流』を創った。男の身体になりゃ文句ねーだろってな」

「じゃあ今は……」

「ああ。本気でやってくれるから、自分も全力で相手をぶっ潰すことができるぜ」

 すっかりいつもの萌陸の調子に戻っている。

「友達の方は巡流がNFだって知ってるの?」

「最初からつるんでた奴らは知ってる。けどそいつらが連れて来た奴の中には知らないのもいるかもな」

「それって……その人を、その、騙してることにならないかな……」

「あ?」

 眼球だけを動かして瑠奈を貫く。

「いや、あの、アンドロイドであることを隠しながらモデルやってる知り合いがいるから、ちょっとだけそう思って、はは」

 瑠奈は慌てて取り繕おうとするが、自分でも何を言っているのか分からなかった。萌陸は気にする様子もなく、すぐに目線を戻した。

「自分たちはそういうのは関係なしに集まろうってできたグループから、騙されたなんて思う奴はいねーだろうさ。それに自分からしてみれば、どっちもどっちだと思うけどね。本心を語らずに周りに合わせてばっかの奴を何人も見てきたし。そいつらがやってるのだって騙してるって言えるだろ」

 萌陸の言葉は核心を突いていた。生身を曝している時、心も曝け出しているとは限らない。

『九瀬輝莉』がいたから、瑠奈は自信を持って己を売り込むことができた。

『綾名ルナ』がいたから、恒の隣に立つ勇気を持てた。

 アンドロイドの姿であることが、必ずしも悪ではない。

「だからアンドロイドかどうかなんて自分はどうでもいい。本気でぶつかって来る奴とつるみたいだけだ」

「そう……だね」

 外見に惑わされていた瑠奈は、深く考えていたようで、その実固定概念に雁字搦めになっていたらしい。

「榊さんは凄いね。私はまだお子様だったみたい」

「そうか? 自分の方が子供っぽいだろ」

「ううん。榊さんの方が他人をよく見てる。だから榊さんは大人だよ」

「はは、そんなにおだてて自分に何をさせようってんだ?」

 萌陸は顔を背に逸らした。照れ隠しの仕方も紫陽に似ている。

「まぁ、自分はNFを使って良かったって思ってるけどな。マルチカで遊んでると、たまに女子のグループが話し掛けてくるんだけど、鼻の下伸ばした野郎共が勝手に誘ってさ。いつの間にか混合で遊ぶことになってんの。そしたらびっくりよ」

 萌陸は突然、瑠奈の両腕を掴んだ。

「ええ⁉ ちょっ……」

「女子の身体ってあんなに細いのな。体格が違うだけですぐに転ぶし、ホント怪我させそうで冷や冷やするよ」

 すぐに腕を離す。

「悪い悪い。……でも、中学の時のあいつらもこんな気分だったんだなって分かった。そりゃ全力なんて出せねーよなって」

 萌陸は徐に立ち上がると窓際まで移動した。

「眼が増えればその分いろんなものが見えるようになる。巡流になってなけりゃ、自分はあいつらの気持ちを理解できないまま恨み続けてたかもしれん。だから自分はNFを使って良かったって思う」

 逆光に映える背中が大きく見えた。

「お、紫陽が走ってる。ちょっと冷やかしに行こうかな」

 紫陽の姿を捉えた萌陸は意気揚々と鞄を手に取った。

「大木の友達が来るまで待つはずだったのに悪いな」

「いえ、多分もうすぐ来ると思うから」

「そうか。じゃあ自分は先に帰らせてもらう」

 じゃあな、と言い残して萌陸は去って行った。瑠奈は夕焼けの教室にまた独りとなった。


 多くの眼を持つ瑠奈は、それらを通して何を見ただろうか。瑠奈は指折り数える。

 夢。希望。期待。光輝。齟齬。歪。陰。失望。所望。恋心――

 両手の指では足りない。今朝は全てを終わらせる決断を下そうとしていたくせに、まだあの景色を見ていたいと願っている。

「他人の為だとか、自分の為だとか、深く考える必要は無いと思うよ」

 紫陽の言葉が蘇る。

 ――私の為に、私だけの為に続けていいんですか。

 瑠奈は許しを乞うた。

 そしてもう一つ、絶対に数えなければならないものがあった。

 家族。

 ――お母さんは、『お父さん』の眼を通して何を見てたのかな。

 瑠奈は遠い過去に想いを馳せた。

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