7

 目を覚ました瑠奈は朝の習慣を実践する。カーテンを開け、時間を確認し、伸びをする。通常ならばこの時点でベッドから起き上がるだけの気力が芽生えるのだが、今日は身体が重いままだった。

 昨夜は泣き疲れていつの間にか睡眠に逃避していたらしい。半日以上横たわっていたせいもあり、全身の筋肉が強張っている。しかしそれだけではない。昨日のショックがまだ尾を引いている。

 あれから随分と冷静に頭を働かせることができるようになった。気持ちの整理も着くかと期待したが、やはり単純には折り合いを付けることができなかった。同じ思索が堂々巡りするばかりで、精神的疲労の方が大きかった。

 そろそろ準備しなければならない。瑠奈は身体を引き摺るようにベッドから無理矢理降りた。午後から仕事が入っている。外出するために服を着替える。

 気分が沈鬱していても仕事である以上、迷惑を掛けるわけにはいかない。それに何か別のことで頭を一杯にするのも悪くなかった。

 音を立てずに扉を開け、神経を研ぎ澄ます。美姫が起きていても不思議ではない時間だったが、リビングに気配は感じない。美姫もまだ眠っているのだろう。瑠奈は幸いとばかり玄関に急ぐ。

 昨日の怒りは大方鎮まっていたが、美姫を前にすると再燃しかねない。そうでなくともどんな態度で向き合えば良いのか、瑠奈はまだ分からなかった。

「……!」

 後ろで物音が聞こえた。美姫の寝室の方からだ。瑠奈は慌てて家を飛び出した。

 昨日は髪も体も洗洗わないまま寝てしまったため、身体中べた付き、髪もボサボサのままである。おまけに泣き腫らしたせいで目は充血していた。これからモデルの仕事をするなんて誰も思わないだろう。街中で人とすれ違う度に瑠奈は自虐的に鑑みた。

 実際、瑠奈がするわけでもない。アンドロイドで良かったと心から安堵した。

 しかし輝莉を前にした時、瑠奈は気付いてしまった。

 ――私がやってることって、お母さんと同じことなんじゃない?

 美姫が『新夜』に成りすまして瑠奈を騙していたように、瑠奈も『九瀬輝莉』という虚像で読者や仕事仲間を欺いている。輝莉だけではない。『綾名ルナ』という作り物で恒を誑かしている。

 いつも会っていた新夜が本当の父であると信じて止まなかった。その純粋な信頼を裏切られ、悲しみと怒りを美姫にぶつけていた。

 ところが、自分も他人の信頼を否定し傷付ける立場にあると気付いた。

 ――私にお母さんを責める権利なんて無いんじゃ……。

 美姫に向けた悲憤が反射して瑠奈に突き刺さる。鏡の中の輝莉が執拗に瑠奈を責め立てているようで、瑠奈は足元に視線を落とした。

 ――私は一体、どうすれば良いの……。

 瑠奈はますます混迷を深めていった。


 第一スタジオの扉を開くと、広い部屋の一角に崎下と白石霞と一人の女性が座っていた。顔を突き合わせて話し込んでいるため輝莉に気付いていない。声を掛けるべきか躊躇しながらそろりと近づく。

 目が合う位置に座っていた霞が先に気付く。

「お疲れ様です」

 霞はコクリと首を折った。霞の挨拶をきっかけに崎下と女性も後ろを振り返った。

「ああ、九瀬さん。おはようございます。本日もよろしくお願いします」

「輝莉さん、久しぶり。今日はよろしくね」

 雑誌編集者の川嶋かわしまは気さくに手を振った。

「はい、よろしくお願いします」

「たった今白石さんと打ち合わせを始めたところだったので、ちょうど良かったです」

 瑠奈は遠慮がちに霞の隣に座った。

 今回の企画立案者である川嶋が、二人に企画書を提示しながら説明を始める。

「事前に大枠は連絡してあったんだけど、今日は『仲良し姉妹でお出掛け』がテーマになってるの。時期的に夏休みは始まったばっかりだと思うから、姉妹揃って夏の勝負服を買いに出掛けるって感じかな。服を買いに行くための服って感じだから、カメラはあんまり意識せずに自然体でいてくれるといいわ。輝莉さんと霞さんは『姉』役をお願い。『妹』役の二人ももうすぐ来る……んですかね」

「はい。そろそろ来ると思うんですけど――」

 タブレットに目を落としていた崎下の言葉通り、スタジオの扉が開いて三つの人影が現れる。

「遅れてすみません。本日はよろしくお願いします」

 先頭の佐々木ささきが何度も平謝りしながら歩いて来る。

「集合時間が前倒しになったのを二人に伝え忘れてて……。本当に申し訳ないです」

 佐々木がマネージメントを担当している久遠くおんゆう水戸みずと織明おりあも、佐々木に合わせるように頭を下げた。

「いえ、問題ないですよ。先にこちらの二人を別で撮るので、その間に説明を済ませましょうか」

「分かりました」

「じゃあ二人は早速移動しましょうか」

 崎下促され、輝莉と霞の二人はそれぞれ設置されたカメラの前に移動する。


『はい、OKです。一旦休憩挟みましょうか』

「ありがとうございます」

 輝莉単体での撮影が終了する。霞も終わったらしく、同じタイミングでテーブルの方に向かう。

「あの……ど、どうぞ」

 帰って来た霞に、織明はタオルと水を差し出した。

「ありがとう」

 霞は微笑みかけて受け取った。一方で輝莉の下には悠がやって来た。輝莉は汗も掻かないし水分も必要ないため、代わりに賛辞を届ける。

「輝莉さん、めちゃくちゃ綺麗でした! 思わず見惚れてしまいました。なんて言うか……カッコ良かったです!」

 その誉め言葉を言われたのは久しぶりだった。

「そう? ありがとう」

『次に悠ちゃんと織明ちゃん、スタンバイお願いします』

「分かりました」

「二人とも頑張ってね」

「はい!」

 輝莉の応援に二人は素直に答えて、カメラの前に移動していった。

 悠と織明は共に十五歳と、瑠奈と二歳しか変わらない。しかし輝莉が二十一歳の見た目であるためか、二人は大人に対する憧憬の眼差しを向けて、姉のように慕ってくれている。

 照明に焚かれた二人は無邪気な笑顔を咲かせている。その笑顔をみていると、輝莉は胸が痛んだ。

 ――そんな慕ってくれてる子に、私は嘘をついているんだよね。

 理想で塗り固めた偽りの姿を盾としているに過ぎず、本性は決して晒さない。それを嘘と呼ばずに何と言うだろうか。

 隣に座る霞もまた、輝莉が欺いている一人に入っている。輝莉は霞の方を盗み見た。

 柳眉の下の涼しい目許には、見る者を惹き付ける眼光が常に輝いている。丹花のような唇はまさしく錦上に花を添えていた。ノースリーブトップスとスキニーパンツからはしなやかで透き通った四肢を覗かせている。小股が切れ上がったその姿は、瑠奈が憧れた大人像に似ていた。

 霞は正真正銘、生身の人間であると公言していた。輝莉のようにデビューした時点で人間かアンドロイドかが明白な場合を除いて、公表を避ける風潮にある芸能界では珍しい。

 この端麗な容姿も生まれ持った素質であると思うと、輝莉は殊更自分が恥ずかしくなった。

 ――この美しさに近づくためには、自分を偽るしかないなんて……。

 嘘をついてまで手に入れた美しさは、霞の前では無様だった。

「……何か?」

 目線に気付いた霞が輝莉を射抜く。その眼に動揺を隠せない。

「あ、いや、別に……何でもないです」

 そう、とだけ言って霞は首を戻した。

「……白石さんは、何でモデルになろうと思ったんですか?」

 今までは踏み込ませない圧力に屈していたが、どうしても霞について知りたくなった。輝莉は勇気を振り絞って尋ねた。

「そうね……。綺麗になりたかった、から?」

 やや疑問形で霞は答えた。

「小学生の頃に綺麗なモデルの方を偶然目にして、それ以来こんな人になりたい……いや、その人以上に綺麗になってみせるって思ったの。普通の理由でごめんなさい」

「ううん、全然謝ることじゃないです。私も似たような理由ですから。……私も、格好良いモデルさんを見つけて、それからこの仕事に興味を持ち始めました」

「あなたとは年齢が近いから、もしかしたら私も知っている人かも」

 意外にも霞が食い付いてきた。他人に食指が動く性格ではないと思っていたが、輝莉の思い違いだったかもしれない。

「あー……それが、名前覚えてなくて……。小学生だった時に、たまたま見た雑誌に載ってたんですけど、その雑誌がどっかに行っちゃって……。名前に『輝』の一文字があったのは覚えてるんですけどね。あ、『輝莉』って私の名前もその人にあやかって名付けたんです。一応調べてみたんですけど、流石に一文字だけでは該当する人が多くて。おまけに、憧れるきっかけになったくせに顔もうろ覚えで、結局どの人か、分からないままなんです」

「……そう」

「すみません……」

 霞の焦点が横に流れた。折角開きかけていた扉がまた閉じてしまう。輝莉は必死に次の話題を探した。

「し、白石さんはアンドロイドのこと、どう思いますか」

 直後に輝莉は激しく後悔した。今一番質問したいことではあったが、急に訊くようなことではなかった。

「……どう、とは?」

 案の定、霞も困惑している様子だった。

「いや、その、急に変なこと訊いてすみません。ただ、白石さんみたいに元々綺麗な人から見て、私みたいなアンドロイドは技術の力を借りて、外見だけ誂えて、悪足掻きしてるみたいに映ってるのかなって……」

 霞の手中にあった水のペットボトルが微かに軋んだ。

「元々綺麗な人は澄ました顔であなたたちを見下していると言いたいの?」

「ッ……いえ、そんなことは……」

 口調が強まった霞に、輝莉は思わず萎縮する。

「私は元々綺麗な人なんかじゃない。あなたが私を綺麗だと言ってくれるなら、それは私が努力の末に得たものよ」

 霞の堂々とした物言いは、輝莉の想像を絶するほどの努力が礎となっているのだろう。

 ――それに、美しさを維持するのだって並大抵じゃないよね。

 今朝の瑠奈の姿を思い出す。本体がいくら不精であろうと、NFは常に万全の状態で臨むことができる。

 輝莉は失言を悔いると同時に、浅慮を恥じた。

「それに悪足掻きはむしろ私の方では? 簡単に理想通りの姿を手に入れることができる時代に、意固地になって生身のままで活躍しようとしている。私の方が滑稽に見えてるのではないの?」

「そんなことありません! 大変な努力をされている人を馬鹿になんてしません」

「ならいいのだけど」

 他人なんて眼中に無いと、涼しい顔をしているようで、霞も人並みに外の目を気にしているのかもしれない。

 やはり話し合ってみないと分からないことだらけである。

 その人の話を聴いてようやくその人を知れる。同じように、他人に自分を知ってほしければ、自分から知らせなければならない。

 輝莉はどうしても霞に伝えなければならないことがあった。輝莉にも、譲れない矜持があった。

「でも、簡単なんかじゃありません」

 霞が夢を叶える為に己を磨いたのなら、瑠奈は夢を叶える為に己を捨てたのだ。

「私だって本当は、ありのままの姿でモデルになりたかったです。でも、甘えた根性だと、安易に逃げたと思われるかもしれませんが、努力して夢に手が掛かるほど、私は恵まれていませんでした」

 自分の容姿のままでは挑戦する勇気が出なかった。自力で埋まる差ではないと現実を突き付けられた。

 諦めたつもりが、いつしかのさばる希望を拾っていた。

「私は外見を偽る選択肢を取りました。私の夢を叶えるためには、夢を捨てるしかありませんでした」

 その手立てしかないと悟った時、瑠奈は悔しさに奥歯を噛んだ。

「自分を偽ると決めるにも覚悟がいるんです。だからこの道は、決して簡単なんかじゃありません」

 不測にも目尻に熱いものが流れた。輝莉は反射的にそれを拭おうとしたが、指は目許を擦っただけだった。

 輝莉が涙を流すはずはない。泣いているのは、瑠奈の方だ。

「どうかしたの?」

 霞は持っていたタオルを差し出そうとするが、あっ、と声を漏らして手を止めた。

「これでは意味ないわね。眼に不具合でもあったの?」

「いえ、大丈夫です。何でもないです」

 なおも心配そうに眺める霞を余所に、輝莉は乾いた人差し指をまじまじと見た。

「……」

「ありがとうございました」

 織明の声でハッと現実に引き戻される。

『十五分後にまた撮影を再開するので、それまで休憩しておいてください』

 各々が返事をし終わると、悠が輝莉の下に駆け寄った。

「輝莉さん。さっきの私、どうでした?」

 純真な双眸を向ける悠に、輝莉は笑顔で答えた。

「うん。とっても可愛かったよ」

「ありがとうございます! ……輝莉さん、なんか元気無いですか?」

 正鵠を射た指摘に、輝莉の心臓がドキリと鳴る。

 ――顔に出ちゃってたのかな。

「そんなことないよ。むしろ悠ちゃんから元気貰っちゃった」

 心配を掛けまいともう一度笑顔を作る。

「なら良かったです」

 悠は恥ずかしそうに微笑んだ。

「そうだ! 『姉妹』のペアを決めなきゃいけないんでした。輝莉さん、私のお姉ちゃんになってくれませんか?」

「あ、あの……私も、霞さんとペアになりたいです」

 二人の申し出に、輝莉と霞は快諾した。


 仕事から帰って来た瑠奈は、美姫と食卓を挟んでいた。流石にほぼ丸一日何も摂取していないと空腹を感じる。

 お互いに黙々と箸を進める中、瑠奈はふと左手の人差し指を眺めた。昨日、『新夜』がしきりに瞬きをしながら目元を覆っていた意味を、瑠奈は今になってようやく理解できた。

 ――多分、お母さんも泣いてたんだろうな。

 瑠奈は美姫を盗み見た。神妙な面持ちで食べ物を口に運んでいる。

「自分を偽ると決めるにも覚悟がいるんです」

 輝莉が放った言葉が瑠奈の頭の中で響いている。

 ――お母さんは、お父さんの振りをするって決めた時、どれくらい覚悟したのかな。

 瑠奈は知りたかった。知らなければならない気がした。話し合わなければ分からないことだらけだと、今日まさに学んだから。

「……」

 しかしどう切り出すべきか分からない。訊きたいことは山ほどある。一方でまだ知りたくないと願う臆病な瑠奈も混在している。

「…………」

「…………」

 一言も言葉を交わさないまま、気まずい沈黙だけが食卓を支配していた。

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