6

 美しい姫。美姫は自分の名前が嫌いだった。

 幼少の頃から周りの女子生徒よりも身長の低かった美姫は、その差を縮めることなく二十歳を迎えた。身体つきも両親や友達に心配されるほど華奢だった。

「美しい」という形容詞が自分よりも相応しい子に何人も出会ってきた。「姫」という敬称は、嫁入り前の箱入り娘という意味なら成程合点が行くが、それ以上の成熟した女性にはなり得ないと打ち止めされた気分だった。

 NFの一般販売が発表されたのは、ちょうど美姫が二十歳を迎えた年、これからも身に余る名前と共に生きてゆく覚悟を決めた直後のことだった。

 NFを利用すれば、自分とは違う大人になれる。例えば、高身長で老若男女を魅了するような魅惑的な肉付きの女性にも。

 誘惑が美姫の覚悟を揺らがせた。不意に目の前に漂う希望が、自分の望んだ形をしていなくても掴んでしまうものらしい。美姫はたらればの世界を捨て切れなかった。

 その技術は美姫に新たな輝かしい未来を夢見せた。

 自分であって自分でない。そんな奇妙な距離感で彼女は鏡に映っていた。『新見にいみ未来みく』と名付けられたのは、具現化した美姫の理想の塊だった。

 見える世界がまるで変わった。物理的な視点が高くなったのもあるがそれだけではない。ふとした瞬間にガラスに映る自分の姿を見るたびに、『美姫』は『輝未来』へと変貌していった。歩く姿勢も堂々とし、肩で風を切る爽快感が新鮮だった。

 輝未来の自信は次第に周囲へと波及し、遂にはその後の人生を大きく左右させる出会いと遭遇することになる。


 いつものようにただ気ままに街中をぶらぶらと歩いていた。すると一人の男に声を掛けられた。

 輝未来に話し掛ける男はそれが初めてではなかった。美姫は輝未来の姿で火遊びをするつもりは更々無かったため、その度に丁重に断っていた。輝未来は美姫の理想像であり、それを汚す行為はしたくなかったからだ。

 今回も用事があると言ってすぐに立ち去ろう。輝未来は億劫に思いながらも振り返った。ところが男が放ったのは予想もしていなかった言葉だった。

「君、モデルとか興味ないですか?」

「え、モデル……ですか」

 返答に窮した。もっと多くの人に見てもらいたい。男の誘いがきっかけで、満ち足りていたいたはずの慎ましやかな願望が、一気に膨れ上がった。

「あ、僕、こういう者なんですけど」

 男は持っていたタブレットを突き出した。男の名前と知らない事務所名が記載してある。

「今若手のモデルを探してて、良さそうな子いないかなーって見てたら、君が目に入って。君ならすぐ人気が出ると思うんですよね」

 胡散臭いと警戒しながらも、立ち去る踏ん切りがつかなかった。輝未来の優柔不断な態度に男は一気に畳み掛けた。

「すぐ近くに事務所兼スタジオがあるんですけど、まずは見学だけでもしてかない?」

 一つの決心で見える世界が一変する。輝未来は知ってしまった。

 ――なら、次に私が見たい世界は何だろう。

「あの、私、アンドロイドなんですけど……」

 もしこの男に下心があるなら、これで諦めるだろう。男は虚を突かれたように一瞬身体を硬直させた。

「そうだったのか。ううん……」

 右手で顎を擦りながら逡巡するように唸り、やがてパッと破顔させた。

「うん。構わないですよ。君がモデルに興味があるなら、是非応援させてほしい」

 男の言葉に偽りがあるようには感じなかった。

「……それなら、見学ぐらいならまあ、はい」

 新見輝未来をもっと多くの人に見てもらいたい。肥大した願望の前に、輝未来は目が眩んだ。

 案内されてやって来たのは二十階ほどのガラス張りのビル。どうやらここが男の言う事務所のようだ。約束通りスタジオに通されると、目鼻立ちの整った女性が複数のカメラを前にポーズを取っていた。

「まだ創刊号が出たばっかりなんだけど、うちの事務所と契約してるから、もし君がモデルになるならこの雑誌に載ることになるよ」

 男は一冊の雑誌を手渡した。内容を概見したところ、十代後半から二十代の女性をターゲットとしたファッション雑誌らしい。

「今はまだあんまり周知されてないけど、これからどんどん有名になる。そのために君の力が必要なんだ」

 顔を上げた輝未来は、照明を浴びる女性に目を向けた。

 数日後、美姫はスカウトしてきた男――古橋ふるはしの紙の名刺と、貰った雑誌を両親の前に並べた。『新見輝未来』の存在を認めはするものの好まず思っていた両親は、予想通り難色を示した。それなりの覚悟を決めていた美姫は冷静に説得した。

「私は私の生き方が決まっている。そう思ってた。そうやって叶わないことを諦めて納得するのが大人だと思ってた。でも、違う生き方に出会った。そこでは諦めてた光景が広がっているかもしれない」

 自分は大人びた容姿には恵まれなかった。だからせめて内面は大人になろうと言い聞かせた。それでも掴みかけた希望をこのまま終わりにはできなかった。

「私はその光景が見たい。だからお願い。私にその光景を見させてくれませんか」

 美姫は頭を下げた。

 両親は渋々といった様子だったが、最終的には美姫の背中を押してくれた。


「初仕事だから緊張すると思うけど、気負わずにリラックスしてくれれば良いから」

「は、はい。頑張ります!」

「ハハ、いきなりは難しいか。今日は彼に撮ってもらうからね。うちの専属カメラマンの、大木くんだ」

 古橋はもう一人の男を指差した。このスタジオに初めて見学に来た時、カメラを操作していた、見覚えのある人物だった。

「初めまして。大木新夜と申します。私もこの事務所に転職したばかりなので、新見さんと同じ駆け出しのつもりです。お互いに頑張って有名になりましょう」

「よろしくお願いします」

「じゃあ早速始めようか。僕は別の用事があるから最初の方はいないけど、構わず進めてて」

 そう言い残して古橋はスタジオを出て行った。見送った後に新夜は美姫の顔をじっと眺めた。

「……あの、何か顔に付いてますか?」

「あ、いや、すみません。アンドロイドを間近で拝見するのは初めてだったので、つい……。では始めましょうか」

 二人は慣れない様子で仕事に取り掛かった。


 輝未来がNFであることは認めた上で、事務所は輝未来と正式に契約を結んだ。

 しかし関係者以外にはその事実を隠すように指示されていた。

「誘った僕が言うのもなんだけど、アンドロイドとしてモデルをやるからにはある程度覚悟をしてほしい」

 契約書に署名する直前、古橋はそう切り出した。

「新しいものが出来るたびに、それを毛嫌いする人は必ず現れる。アンドロイドもまだ世の中に浸透しているとは言い難い。きっと非難の声は免れないだろう」

「私がアンドロイドだって言った時、悩んでいたのはそういう理由だったんですか」

「そうだ。僕はアンドロイドだろうが人間だろうが関係ないと思うんだけど、そう思わない人も多い。数年は風当たりが強いかもしれない。だから君がNFであることは事務所の限られた人以外には他言禁止だ」

 真実を隠し通す。それが古橋の言う覚悟だった。

「ただ、行き先が暗いばかりじゃない。でなければ君を誘ってないさ」

 確信を持ったように口角を上げた。

「アンドロイドへの需要はこれから先、高まっていくだろうと僕は予測している。それまでの辛抱だと思ってくれればいいさ。成り行きを見定めてから、改めて方針を考えよう」

 美姫は古橋の言葉を信じ、契約書に名前を書き入れた。嫌いだった、『美姫』の文字を。

 古橋のこの時の判断は、すぐに英断だったと証明された。


 輝未来のようにアンドロイドの姿で芸能界に進出する者が徐々に増えていった。古橋の言う通り、それに伴い嫌悪感を露骨に表す人々も増えていった。特にモデルやアイドルなど、容姿を売りとする分野での批判の声は甚大だった。

「作り物」、「偽物」、「紛い物」、その他多くの罵詈雑言を浴びて芸能界から去っていった同業者は数知れない。

 やがてネット上では魔女狩りのように芸能界に紛れ込んだアンドロイドを特定、糾弾しようとする動きが激化の一途を辿った。芸能関係者はタレントを守るため、アンドロイドか否かの情報が流出しないことに神経を摺り減らした。


 幸い輝未来はアンドロイドだと露見せずに、仕事を続けることができた。

「新夜さんはアンドロイドが被写体になるのに抵抗は無いんですか?」

「うーん……。実際に会うまでどんなものか分からないから、最初は構えてたかもしれないね。僕だけじゃなく、今までリアルの人間しか撮影したことなかったから、どんな風に撮って良いのかも分からないし。でも、撮り続ける内に大きな違いは無いかなって思うようになった。だったら美しいものを撮ることに変わりはない。僕の仕事には影響ないなって」

 それに、と新夜は美姫の手に指を絡めた。

「アンドロイドが無かったら、輝未来にも、美姫にも出会えてないわけだから感謝しないとね」

「……そうですね」

 美姫は新夜の肩に寄り掛かった。

 事務所初のアンドロイドによるモデル稼業。ノウハウも少なかったせいか、輝未来の撮影はほぼ新夜に任され、二人三脚で歩んできた。

 同じ境遇の同業者が次々と消えていき、次は私かもしれないと常に不安が付きまとう緊張感のなかで輝未来は仕事をこなしていた。事実を知る数少ない人物だった新夜は、そんな彼女にとって唯一、『美姫』を曝け出して本音で語り合える場所だった。

 共に創刊されたばかりだった雑誌の黎明期を支えた二人の距離が、近づくのは必然だったのかもしれない。

 交際を始めてから二年。美姫が二十三歳、新夜が二十八歳の頃に二人は結婚した。数か月後には早くも美姫の中に新たな命が宿っていた。

 妊娠を機に輝未来は活動を休止し、育児に専念することとなった。

 瑠奈を産んでからの一年はあっと言う間に過ぎ去った。両親の偉大さに敬服しつつ育児に忙殺される日々だった。

 瑠奈が二歳になった頃、両親が面倒を見てくれるお陰で、少しだが輝未来の仕事を再開することができた。

 雑誌のターゲット層は依然十代後半から二十代。アンドロイドだと発覚しないよう年齢相応になるべく容姿を微調整していたため、輝未来にも年齢の壁が迫っていた。今後の活動が厳しくなることが予想されていた。それに美姫自身も限界を感じていた。

 他雑誌からの仕事で続ける道もあったが、新夜と一緒に仕事をする機会は減るだろう。そこまでして続けるほどモデル業に未練は無かった。三十歳を迎えるまでには引退しようと、美姫は腹を括っていた。

 しかし、美姫が想定していた理由とは異なる形で、輝未来は引退することになる。


 新夜は撮影の仕事でとある廃村に出張していた。だが台風が接近しているとの情報を受け、麓に留まるのは危険と判断し、一行は近くの都市部へと移動することに決めた。

 午後四時には電車が見合わせになるらしく、新夜たちは最終間際の電車に乗ることができた。その時点では雨も小降りで、大雨注意報のままだった。

 しかし災害は地元民すら知らない場所で静かに、着々と進行していた。

 新夜が乗る電車が出発した直後、二十キロ離れた山で大規模な土砂崩れが発生した。一週間近く降り続いた雨が地下に溜まり、滑りやすくなっていたのだ。そこに台風の影響で雨量が更に増し、とうとう崩壊してしまったのだ。

 水を多く含んだ土砂は谷間にあった裾曳川に流れ込み、鉄砲水となって瞬く間に川を下っていった。その裾曳川の下流には電車を渡す橋梁が掛けられていた。

 橋梁に設置していた傾斜計のデータが突如として途絶え、急いで監視カメラのモニターを見た職員は言葉を失った。いつもは穏やかな流れの清流が、随所でうねりを起こす濁流と化していた。桁橋の姿が確認できないほど水位が上がっていた。否、桁橋そのものがすでに喪失していた。

 異変を察知した車掌はすぐさま非常ブレーキを掛け、ギリギリ橋の直前で停止した。だが川が氾濫していたため、先頭車両は濁流に突入していた。横から土石流の衝撃を受けて脱線し、先頭車両と、それに引き摺られて第二車両の前方は激流に呑み込まれた。

 新夜はその先頭車両に乗っていた。

 後に裾曳川土砂災害と呼ばれるこの災害で、乗員乗客合わせて六十七人の死傷者を出した。新夜や同行していた仕事仲間の名は、その内の死亡者として刻まれていた。死亡者の多くは、新夜と同じく先頭車両に乗り合わせていた人々だった。

 新夜はシートの隙間に挟まるかたちで車内に留まっていたため、すぐに発見された。窓を突き破って侵入した土砂や流木が新夜を直撃し、身体は傷だらけで、一目見た瞬間に存命は絶望的だったという。救助隊によって、新夜はその場で死亡が確認された。


「瑠奈ちゃんは私たちが看てるから、美姫は新夜さんに会ってきなさい」

 熱は下がったものの、瑠奈の容態は芳しくなかった。美姫は付きっ切りで看病することも厭わなかったが、新夜の葬儀が始まる前に両親に預かってもらい喪主として出席した。

 新夜の顔には奇麗な死に化粧が施されているが、隠し切れない損傷の跡が凄惨な最期を物語っていた。たとえ瑠奈が元気だったとしても、この顔を見せるのは耐え難い。

 出棺する直前、美姫は新夜に語り掛けた。

「瑠奈は私が立派に育ててみせるから。絶対にお父さんにも見せるから。だから、お父さんも見守っててね」

 涸れたと思っていた涙が、美姫の頬を流れた。

 ほどなくして全快した瑠奈は、やはり新夜の姿を探していた。

「ねーおかあさん。おとうさんはどこ?」

 瑠奈にはどのように説明するか、様々なパターンを考えていた。だが無垢な瞳を向ける瑠奈を前に、シミュレートした言葉が吹き飛んだ。

「お父さんはね、その……遠くに、遠くに行っちゃったんだ」

「いつかえってくるの?」

 もう帰っては来ない。美姫はどうしても言えなかった。

「しばらく、かな」

「しばらくってどれくらい?」

 瑠奈も本能的に不吉な空気を感じ取ったのか、瞳が徐々に潤む。

 一つの選択肢で見える世界は一変する。

 美姫はそれを知ってしまっていた。

「瑠奈。お父さんはね、遠くにお仕事をしに行ったの。でも瑠奈が良い子にしてたら、すぐに戻って来るよ」

 美姫は瑠奈に嘘をついた。もう一度だけ新夜に会わせてあげたい。美姫は用意していたどのパターンでもない選択肢を選び取った。


 美姫が二十九歳の時、輝未来はモデル業界から引退した。

 新しい就職先として古橋に出版社を紹介してもらい、別のファッション雑誌の編集者として新たなスタートを切ることになった。方法は違えど読者に伝える情報は同じ。『新見輝未来』という殻を脱いだ後も、経験を活かせる仕事をできることに美姫は感謝した。

 その幸運の代償とでも言いたいのか、美姫は大きな業を背負うこととなった。


 瑠奈が自分と同じ道を志そうとしているのは、瑠奈自身が何度も口にしていたため早くから知っていた。幸か不幸か、美姫の特徴を色濃く受け継いだ瑠奈が、かつての自分と同じような悩みを抱えているのも分かっていた。だが夢の叶え方まで一緒だと分かった時は、流石に遺伝を憎まざるを得なかった。

「お母さん。私、モデルになりたい」

 繰り返し聞かされた台詞が、いつか真剣さを帯びることを美姫は覚悟していた。しかしいざその日が来ると、美姫は冷静な振りを装うので手一杯だった。

 一つの食卓を介しているだけのはずが、瑠奈の言葉が驚くほど遠くから響いていた。変わろうと希望に手を伸ばしたあの時の自分のように、娘も変わろうと足掻いている。変わって、美姫の下から飛び立とうとしている。親として喜ばしいことなのに、美姫はそれが寂しかった。

「――だからお願い、お母さん」

 一人の子どもを持つ親となり、両親の気苦労が身に染みて理解できた。モデルという仕事の苦楽を味わってきた美姫には尚更、心配事が多かった。

 それでも両親は背中を押してくれた。そのお陰で理想を叶えることができたし、新夜と出会えた。瑠奈に出会えた。

 美姫は瑠奈の顔を確かめた。

 ――きっと、あの時の私もこんな表情してたんだろな。

「……そこまで言うのなら、挑戦してみなさい」

 美姫ができるのは、あの時自分がしてもらったように、瑠奈の背中を押してあげることだった。


 瑠奈の成長を『二人』の眼で見てきたつもりだったが、どうやら捉え切れていなかったらしい。我が子は未だに膝の上に座り、腕の中で眠ってると思っていた。子どもが未来を見据えているのに、親は過去を鑑みてばかりだと痛感する。

 瑠奈はすでに己の足で立っていた。

『新夜』と別れる時間が来ると、瑠奈は決まって腰に抱き着いていた。涙と鼻水を擦り付け、必死に新夜を繋ぎ止めようと、割れんばかりの叫声で泣きじゃくっていた。新夜は瑠奈の頭を撫でた。

「また会いに来るから。ね?」

「……グスッ、ぜったい、ズズッ、ぜったいだよ」

「……うん」

「やくそく」

「約束」

 そう言うと瑠奈は手を解き、涙を湛えた目で新夜を見送った。この甘言の数だけ美姫は罪を重ねた。

 それが今では別れの時間を受け入れて新夜を笑顔で見送るようになった。どころか新夜が瑠奈を送り出す側に回る機会も訪れた。

 美姫が帰宅すると、新夜の手土産を瑠奈が一人で喰らい尽くしていた。

「もー、夕ご飯が食べられなくなるでしょ」

「……ごめんなさい」

 しばらくすると、瑠奈は一度に平らげないようになっていた。美姫の言い付けを守っている。美姫は長年そう思っていた。

 だがそれだけでは無かった。瑠奈は美姫のために取り残していたのだ。誰に教わるでもなく、そのような配慮ができるようになっていたと知る。

 瑠奈にも特別な誰かが居るらしい。本人は隠しているようだが、美姫は雰囲気から感じ取った。

 ――もう瑠奈を支えるものは沢山ある。『新夜』が居なくても、あの子は前を向いて歩いて行ける。

 ずっとつき続けた嘘とようやく決別する時が来た。美姫は一人、長い長い演劇の終幕を悟った。


 鏡に映った新夜の顔を眺める。十二年という月日の老いを想像しながら美姫が思うままに調整していたが、実際はどんな顔だったのだろうか。それを知る術は無い。そしてこの先の年老いた顔を拝見する機会も無いだろう。

 ――あなたの死に顔を二回も見るなんて、私はやっぱり間違ってたんだね。お父さん、私たちの瑠奈は立派に育ったよ。だから、もう少しだけ見守っててね。

 胸に手を当てて最後の決意を固めた。


 ポケットに滑り込ませた手が震えている。そう自覚したことで震えは余計に増大した。それでも美姫は二本の指で摘まんだ紙を瑠奈の前に置いた。

 紛れもない事実を率直に語っているはずなのだが、耳に入って来るそれは、何ともつまらない与太話のようだった。

 瑠奈の吹きこぼれる怒気を前に、美姫は歯痒さを感じていた。

「……ごめんなさい」

 美姫の中では筆舌に尽くし難い後悔と謝罪の念が渦巻いていたが、それらを伝える言葉を美姫は知らなかった。

「……ごめんなさい」

 全貌の片鱗ほどしか伝えられない言葉を繰り返すほかなかった。

「……ごめんなさい」

 稚拙な言葉では奥底に溜まった後悔にまで光を届けることは叶わない。

 洗練された言葉では剥き出しの慚愧を吐露することは叶わない。

 錯綜する感情の前に、言葉は無力だった。

「こんな辛い思いするくらいなら、初めからお父さんになんて会いたくなかった!」

 その言葉を合図に美姫の涙腺は決壊した。涙が目の周りに溢れているのが分かる。しかし、美姫が言葉にならない想いの結晶をいくら流そうと、『新夜』は一滴の雫にも濡れない。アンドロイドは涙を流すことさえ許されない。

 立ち上がろうとした瑠奈がよろめく。美姫は咄嗟に手を伸ばした。

「瑠奈!」

『新夜』の大きな腕に収まった瑠奈の体躯は、あまりに小さかった。

 振り返れば瑠奈を抱き締めたのはいつ以来だろうか。『新夜』の姿の時は、生身の人間ではないと発覚するのを恐れて極力接触を避けていた。美姫の姿でいる時も、瑠奈が歳を重ねるごとに甘えてくる機会は減っていった。

 こうして瑠奈の体温を感じたことで気付いた。

 ――瑠奈は寂しさを、ずっとこの小さい背中で背負っていたんだ。

 直後、美姫は瑠奈に突き飛ばされた。多少後ろによろける程度の軽い力だった。何度も向けられた瑠奈の泣き顔がそこにあった。

 ただ、これまでは親に縋ろうとする幼子の眼だったのが、今は得体の知れない存在に対する拒絶の眼をしていた。その眼を向けられてしまっては、美姫は先程のように手を伸ばすことが憚られた。

 そうこうしている内に瑠奈は美姫の前から逃亡する。

「るなっ」

 美姫は名前を叫んだが、足は動かなかった。単に声がこぼれただけで、本気で呼び止めようとしていたか疑問だった。

 追い駆けるべきか、一瞬は逡巡したが、結局項垂れることしかできなかった。追ったところで瑠奈に掛ける言葉がまた、繰り返しになることが明らかだったからだ。

 椅子に座り直す。一人、見えない誰かに謝り続けた。

 出がけに声を掛けるが、瑠奈からは何の反応も無かった。

「……本当に、ごめんなさい」

 擦り切れてもはや免罪符としての効力も有していなかった。それが分かっていながら、美姫は虚しく口を動かした。


 ――私はまた、選択肢を間違えたのかな。

 美姫は目の前の新夜に問い掛けた。瑠奈が手元から離れて行ったと勝手に解釈していただけかもしれない。

 瑠奈の抱えていた辛さを推し量れていなかったかもしれない。瑠奈に真実を告げるのは尚早だったかもしれない。

 湧き上がる後悔に、ふと記憶が蘇った。

 『新夜』として初めて瑠奈に会った後の、このミドルルームでの記憶だった。新夜であって新夜でない人影が亡霊のように佇んでいる。それを前に、美姫はようやく己の愚かさに恐怖した。新夜の生死を捻じ曲げたこと。幼い娘を謀ったこと。取り返しの付かないところにやって来て美姫の足は竦み始めた。

 あの時も今と同じように激しい後悔に苛まれていた。だが、もう後戻りはできない。

 ――瑠奈。私はあなたをずっと騙していた、非道い母親だけど、それでもあなたなら乗り越えられるって信じてる。

 美姫はただ祈ることしかできなかった。

 僅かな光が視界の中でキラキラと輝いている。上体を起こした時に、瞳に溜まった涙だと気付く。美姫は端末を起動させ、アンドロイドの管理サイトを開いた。

『このアンドロイドデータを消去しますか?』

 消去を選択すると『新夜』は二度と戻って来ない。指一本で存在が亡き者にされてしまう。美姫の人差し指が止まった。瑠奈が向けた眼を思い返す。

 ――瑠奈はもう『新夜』をお父さんだと見做さないだろうな。

『アンドロイド本体は速やかに破棄され、保存されたデータは完全に消滅します。復元等の対応は一切行っておりません。また完全消去を選択後、この操作に戻ることは出来ません。このアンドロイドデータを完全消去しますか?』


 帰ってから再び瑠奈に声を掛けたが、やはり返事は無かった。夕ご飯を用意したと言ったが、美姫自身も食欲が湧かなかった。代わりに先程まで『新夜』が座っていた椅子に腰掛ける。

 ――私には瑠奈という心の拠り所があった。瑠奈の為なら何でもできた。

 だから寂しいと感じることは、実はあまり無かった。

 ――でも瑠奈は違う。私の想像が及ばないほど、瑠奈は寂しい思いをしてきたんだ。この静寂に、ずっと耐えていたんだ。

 椅子の冷たさと静寂が身に染みる。

 日付が変わっても、瑠奈が部屋から出ることは無かった。美姫の心は、その開かない扉の前に置かれていた。

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