5

 玄関から聞こえる物音で瑠奈は目を覚ます。瞼が薄っすらと開き、ベッドの上に横たわる右手と、壁がぼんやりと見える。

 焦点が定まる前にもう一度玄関から音が聞こえた。ドアが閉まる音だ。

 寝返りを打ってベッドの隣の机に手を伸ばす。置いていた端末を耳に掛けると、掠れぎみの声で命じた。

「カーテン開けて」

 即座に窓からの光が部屋に溢れる。だが眩しいほどではない。瑠奈は時間を確かめた。十一時三分。瑠奈の予想通り、もうすぐ昼がやって来る時間だった。

 何も予定が入っていない日は決まってこの時間帯まで寝ている。もっと休日を有意義に使いたいと、八時に目覚ましをセットするものの、起きなければならない強い動機が無いとどうしても二度寝への誘惑に負けてしまう。そして結局いつも昼前まで眠ってしまうのだった。

 筋肉と関節が硬直している。息を肺一杯に吸い、四肢を伸ばす。限界が来て震えてもまだ力をこめる。

「んッ、ふぅーーー……」

 息と共に力と眠気が体外へ放出される。ようやく瑠奈はベッドから降りた。

 玄関を見ると美姫の靴が消えていた。今日は美姫も休みのはずだった。ただ休日に突然会社から呼び出されるのも珍しくない。また今日も呼び出されたか、あるいは買い物にでも出掛けたのだろう。

 瑠奈は盛大な欠伸をしながら台所へと向かった。見慣れたパックのインスタント食品と、その横に書置きが残されていた。

『ちょっと出掛けてくる。起きたらこれ食べて下さい』

 外出した理由は書かれていなかったが、それよりも用意されたインスタント食品の方が気になっていた。瑠奈は恐る恐る視線を移す。いつものパックご飯と、粉末タイプの豚汁、チルドの鯖の塩焼きだった。

 ――確かにメニュー変わってるけど、ほぼ同じじゃない?

 不満は解消されなかったが、メニューが変わっただけ進歩だろう、と瑠奈は自身を納得させた。

 調理時間も手順も寸分違わず同じだったため、滞りなく準備が完了する。

「いただきます」

 朝食とも昼食ともつかない食事を口に運ぶ。魚の種類と汁の具材が違うのだから味は違うのだが、やはりと言うべきか、目新しさは全く感じなかった。

 片付けを済ませて、顔と歯を洗う。すっきりしてやっと目が覚めたような気分だった。リビングに戻りテレビを点ける。しかしどのチャンネルにも興味が引かれなかったためすぐに消した。

 再び時計を眺める。十二時二十五分。今から誰かを遊びに誘うにしては遅い時間である。一人で出掛けてもいいが、特に出掛ける理由も無い。仕事でも入っていれば良いのだが、次は明日の午後からの予定で、つまり何もすることが無い。

 部屋の掃除でもしようかと思い立って、ソファから立ち上がる。掃除機を取りに行こうとした矢先に、玄関のドアが解錠する音が聞こえた。美姫が帰って来たのだろう。瑠奈はリビングから顔だけを出して玄関の方を向いた。しかしそこにいたのは予想外の人物だった。

「ん? ……え、お父さん⁉」

 今まさにドアを閉めようとしていたのは、美姫ではなく新夜の姿だった。瑠奈は状況が飲み込めないまま新夜に近寄る。

「今日、来る日だったっけ? でも先々週も来たし、あれ?」

「落ち着いて、瑠奈」

 目を白黒させる瑠奈を優しい口調で鎮める。

「今日来るのは事前に伝えてなかったから、驚かせちゃったね。そんなに動揺するとは思わなかったけど……」

 新夜はいつになく真剣な瞳で瑠奈を捉えた。

「大事な話があるから来たんだ。瑠奈に話さなければいけない事が、ある」

 新夜の改まった態度に、瑠奈は事の重さを悟った。徐々に冷静さを取り戻す。

「えっと、今お母さん居ないけど」

 咄嗟に母を思い浮かべた。家族全員で会す必要がある、と直感しての発言だった。新夜は一瞬喉を詰まらせたが、変わらない口調で返した。

「それも含めての話なんだ」

 先程の動揺が嘘のように、瑠奈の頭は冷ややかだった。


 瑠奈が台所で二人分のお茶の用意をしている間、新夜は食卓に腰掛けていた。何度も繰り返してきた光景だが、流れる沈黙が二人の距離を遠ざけていた。

「今日は何も手土産を買ってないんだ。買う時間が無くて……。ごめん」

 ごめん、という謝罪の言葉を聞いただけで胸中がキュッと締め付けられた。

「ううん、別にいいよ」

 笑おうとしたが上手く表情筋を動かせなかった。鏡を見ずとも崩れた笑顔だと分かる。一度新夜に背を向けて心持ちを整えてから、二人のマグカップを持って瑠奈も席に着いた。

「それで、話って何かな」

 今度こそ瑠奈は笑顔を作った。しかし瑠奈の健闘虚しく、空気が和むことはなかった。新夜はしばらく目を泳がせていたが、やがて決心が付いたようで、口を開いた。

「僕は瑠奈に謝らなければならない。僕は瑠奈にずっと嘘をついていた」

「謝る……」

「そう。僕は……、本当の大木新夜じゃないんだ」

 瑠奈の耳に入った言葉は、咀嚼されることなくずっと頭の中を巡っていた。

「本当の……? どういうこと?」

「これを見てもらいたい」

 新夜は懐に手を入れた。三つ折りの一枚の紙を取り出し、瑠奈の前に広げて置いた。何を意味する紙なのか、紙の上部に印刷された字がありありと示していた。

『死亡診断書(死体検案書)』

 その下の氏名欄には大木新夜の名前が印字されていた。さらにその下には死亡した日時と場所が示されている。

「本当の大木新夜は、十二年前、瑠奈が五歳の時に事故で亡くなってるんだ」

 瑠奈の視界は真っ白に曇った。唯一「死亡」の文字だけが浮かび上がっていた。

 ――お父さんが、亡くなっている……?

 頭よりも先に身体全体が拒絶している。

「嘘……嘘だよ」

 到底受け入れられる事ではなかった。瑠奈は自身に暗示するかの如く、同じ言葉を反復した。

「だって、そんな……」

 だが新夜がこんな悪趣味で手の込んだ妄言で瑠奈を陥れる真似はしない。皮肉にもこれまで積み上げてきた新夜への信頼が、瑠奈の逃げ道を塞ぐ。

「この体は生身の人間じゃなくて、アンドロイドなんだ。ずっと新夜の振りをしていて、ごめんなさい」

 つと瑠奈の両頬に涙が流れる。事実として飲み込んでしまった証のようで、それが堪らなく悔しかった。

「じゃあ、あなたがお父さんじゃないなら、あなたは一体誰だって言うの?」

 一矢報いるため、瑠奈は食って掛かった。『新夜』は再び逡巡した様子だったが、今度は直ぐに答えた。

「美姫よ。私は、あなたの母の美姫」

 瑠奈の放った嚆矢は脆くも撃ち落された。

「……え、? お母さん……?」

 もはや瑠奈の脳が処理できる範疇を超えていた。

「そんなわけ、そんなわけない!」

 駄々をこねる幼児のように、不都合な言葉を否定した。

「あなたがお母さんだって証拠があるの⁉」

「……十月十三日生まれで血液型はA型――」

「そんなのお父さんも、私だって知ってる!」

「……前の中間試験で瑠奈が全教科九十点以上だった――」

「それは先週お父さんに会った時に話した……」

「……今月の初めに私と瑠奈の二人でお寿司を食べに行った――」

「それも話した!」

 瑠奈自身のこと、母のこと、家族のこと、瑠奈は一か月の出来事を全て父に話していた。

 顔を合わせられない両親が、心まで離れてしまわないように。

 いつか三人が揃った時、記憶に空白がないように。

 瑠奈は俯いて涙を拭った。それにより瑠奈の頭に隠れていた台所が『新夜』の視界に入る。

「……瑠奈は私が用意する朝食がいつも同じだって――」

「それも――」

「だから、今日は鯖の塩焼きと、豚汁を買ってきた」

「ッ……」

 瑠奈は目を見開いた。それはまだ新夜には話していない、瑠奈と美姫しか知らない出来事だった。拭けども拭けども涙が止まらなかった。

「なんで、なんでお母さんが、お父さんの振りを……」

 すすり泣く間から声を絞る。未だに認めたくはなかったが、ここで押し問答を再開するのは無為だった。それよりも母の思惑を知りたかった。

「十二年前、日本列島に上陸した大型台風の影響で川が氾濫して、お父さんはその濁流に呑まれて、そのまま……。とにかく酷い大雨と強風で、ここ一帯の住民も全員避難したぐらいだった。私も瑠奈を連れて避難場所に行って、結果的にその日はそこに泊まることになったの。その間お父さんとは連絡が取れなくなってて、このマンションに帰って来た時に報せが届いた」

「そんなの、全然覚えてない」

 当時五歳だったならば記憶に残っていてもおかしくない年齢だが、思い当たる節が全く無かった。

「覚えてないのも無理ない。避難する時に雨で濡れたせいか、避難所に着いた日の夜に瑠奈は熱を出して寝ていたから。その熱は何日経っても引かなくて、お父さんの葬儀の時まで続いていたの」

 新夜がこの部屋から居なくなった前後の記憶が、瑠奈の中で曖昧だった。幼かったせいだと思っていたが、風邪のせいで記憶が曖昧になっていたらしい。

「お父さんの、最後の姿を見せてあげられなかった」

『新夜』は悔いるように項垂れた。当時は新夜が忽然と消えたような感覚に囚われたが、あながち間違いではなかったようだ。瑠奈の前だけでなく、美姫の前からも新夜は突然居なくなっていたのだ。

「体調が回復した瑠奈は、『お父さんはどこ?』って何度も私に尋ねてきて。私は、思わず『お父さんは仕事で遠くに行ったの』って答えてしまった」

 ――なんで。

「それでも瑠奈はずっと意気消沈していて。せめてもう一度お父さんに会わせてあげたい。そう思った。それを叶えてられてしまう環境があった。だから私はお父さんに似せたアンドロイドを創って、瑠奈の前に現れた」

 ――なんで。

「本当は一回だけのつもりだったの。一回会って、その後で真実を話そうって決めてた。けど、もう一回だけ、もう一回だけ……繰り返す内に今日まで来てしまってた」

「なんで!」

 瑠奈は美姫の話を遮るように両手でテーブルを叩いた。

「なんで、お父さんの振りなんて……したの……」

「……ごめんなさい」

「なんで嘘ついたの!」

「……ごめんなさい」

「なんで本当のことを打ち明けたの! 嘘つくなら、最後までつき通してよ!」

「……ごめんなさい」

「知りたくなかった。会いたくなかった」

 瑠奈の中の何かが警鐘を鳴らした。それ以上無闇に振りかざしてはならないと。だが瑠奈はその警告音を無視した。

「こんな辛い思いするくらいなら、初めからお父さんになんて会いたくなかった!」

『新夜』は目元を覆った。アンドロイドは涙を流さない。ただ、虚ろな幻影が卓上を濡らした。

「…………ごめん、なさい」

 口調こそ悲痛だったが、嫌味なほどはっきりとした声量だった。涙も無く、声も泣かず、あるのはポーズだけ。

 その姿は滑稽そのものだった。

「そうか。お父さんじゃなかったね。お母さん」

 失意のまま椅子から立ち上がるが、バランスを崩して床に片肘を付いた。

「瑠奈!」

『新夜』は即座に飛び上がって瑠奈に走り寄った。腰に手を回して顔を覗き込む。

「瑠奈、大丈夫?」

 軽い立ち眩みを起こしただけで、今は意識もはっきりしていた。それでも瑠奈は『新夜』の胸に寄り掛かった。

 振り返れば、九瀬輝莉や綾名ルナの姿で生身の人間や他のアンドロイドに触れる機会は幾度となくあった。しかし大木瑠奈が、相手はアンドロイドだと意識して触れる機会は滅多になかった。大木瑠奈の周りにはアンドロイドは居ないと勝手に思い込んでいたからかもしれない。

 新夜とも対面して話すばかりで、触れ合いを瑠奈から求めていたのは、まだアンドロイドが如何なるものかを十分に理解できていなかった低学年のころまでだった。

 こうして『新夜』の腕に抱かれ、胸に手を当てたことでようやく気付いた。

 ――アンドロイドって、こんなに冷たいんだ。

 およそ人肌には及ばない僅かな熱だった。額を胸に当てる。内から聞こえる自分の鼓動ばかりが騒がしく、もう一つの、聞こえるはずの心音は全く聞こえなかった。

「ッ!」

 瑠奈は『新夜』を突き離した。新夜だったものが、美姫でもない、人ならざる不気味な存在に成り果てている。ただただ恐怖だった。

 互いに手を差し伸べれば指先が触れる距離だろう。だが涙で歪んだ像は、不確かで矮小だった。

 ――違う。お父さんはこんなのじゃない。

 涙が新夜との思い出に混ざり合い、記憶の中の新夜が醜く捻じ曲がる。

 ――違う。違う。

 侵食を免れようと瑠奈は『不気味な存在』に背を向けた。そしてそのまま駆ける。

「るなっ」

 制止する声を振り切り、瑠奈は自室に逃げ果せた。またしても脚の力が抜け、膝からくずおれる。今度は誰も瑠奈を支えてはくれなかった。

「……お父さん」

 紛れもなく本当の父との、たった二つの記憶を瑠奈は抱き締めた。


 カーテンも閉め切ったぬるい闇に瑠奈は浸っていた。思案に耽ろうにも頭の中が混乱していて潜れない。

 喚こうにも怒りか、悲しみか、憎しみか、恨みか、あるいはそれらが混ざったものか、あるいは別のなにかなのか、どの感情を表出すればいいのか分からない。

 昏迷を極めているのに、瑠奈は空っぽだった。

 扉の奥から声が掛かる。

「瑠奈。私、もう行くね。すぐ帰ってくるから」

 新夜の声、と思っていた音が瑠奈の耳を舐める。

「……本当に、ごめんなさい」

 扉の前から気配が遠ざかる。

 ――本当にいいの?

 聴く度に瑠奈へ安寧をもたらしていたあの声の最後が、「ごめんなさい」で良いのだろうか。

 ――違う。あれはお父さんの声じゃない。あれはお父さんじゃない。私を騙し続けていた雑音なんだ。

 ドアが開く音が聞こえた。何度も見送って来た背中が瞼に蘇る。

 ――私は、私は……。

 ドアが閉じる音が聞こえた。否、それは、瑠奈と『新夜』の繋がりを切断する音だった。


「瑠奈。夕ご飯できたよ」

 瑠奈は部屋に閉じ籠ったまま無言で返す。美姫は一度だけ告げると、それ以上は何も言わずに退いた。当然、瑠奈が塞ぎ込んでいる理由は尋ねない。その事実が更に瑠奈の上に重く圧し掛かった。

 部屋を支配する静寂には身に覚えがあった。十二年前、父が消えたあの時と同じ、無辺際な恐怖を纏っている。

 静寂には慣れたつもりでいたが、瑠奈は思わず身震いをした。

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