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瑠奈は都内に遍在するNFSの一つに足を踏み入れた。入口をくぐると一畳ほどの小部屋があり、薄暗い奥の通路はコクーンが鎮座する個室スペースへと続いている。無機質な小部屋にはモニターが一つだけ壁に掛けられている。瑠奈は端末に映し出した認証コードをモニターにかざした。承認された音が発せられるとモニターに部屋番号が表示される。指定された部屋に行くべく、瑠奈は奥の通路へと進んで行った。
事務所の専用NFSでは所属する芸能人のNFを全て保管、一括管理しているが、膨大な利用客が訪れる一般NFSではそうはいかない。どこのNFSで、どのNFを、何時から何時まで使用するのか予約しておかなければ利用できないようになっている。
室内の構造は事務所のNFSと変わりない。ただ荷物を収納する箇所が二つある。一つは自分が着て来た衣服や持ってきた手荷物を収納するボックス。もう一つはNFに身に付けさせる衣服や荷物を収納するボックスだ。
不慣れな頃は二つを入れ間違えてしまい、恥ずかしい思いをしたこともあったが、今の瑠奈は流れ作業のようにそれぞれを収める。
シートに埋もれた全身を、上から被さって来たシェルが覆う。
傘の下で時間を確認したり、前髪を整えたり、意味もなく端末を開いたりと、そわそわと落ち着かない様子で待っていた。
「お待たせ」
「わぁっ!」
死角から突如現れた
「遅れてごめん」
「もう、普通に話し掛けてよ!」
「ルナちゃんの反応が面白くて、つい――フフッ」
「笑うなー」
頬を膨らませるルナに、恒は左手を差し出す。
「じゃあ、行こうか」
「……うん」
NFに赤面する機能が搭載されていたならば、ルナは耳まで真っ赤に染めていただろう。触れた二つの手には、しかし生命の温かさは無かった。
二人が出会ったきっかけは、『sheep asleep』というマッチングアプリだった。
NFを含む遠隔操作型アンドロイドが台頭し始めた頃、それまでのマッチングアプリにアンドロイドの姿で、偽造した経歴で登録する例が多発していた。
ほんの遊び心だった。どんな形であれ出会いのきっかけが欲しかった。理由は様々だったが、故意に人を騙す悪質な悪戯や、詐欺犯罪にまで発展する事件が横行したため、とうとう是正勧告が入る事態となった。
当初はアンドロイドによる利用の全面禁止を希望する声が上がり、被害者の会なる団体が発足するまでの事態となった。
『本気で恋をした相手の正体は、似ても似つかぬまったくの別人でした』
涙ながらに訴える人々の姿を、マスコミは連日のように映した。
だが一方でアンドロイドのみを排するのは差別ではないか、という反対意見もあった。そもそもアンドロイドが登場する以前からアプリの登録情報に対する信頼性の欠如が指摘されていた。にも拘わらずアンドロイドであるが故に一律で禁止するのは差別ではないか、と。
両者は水掛け論の様相を呈し、膠着状態となった。
そんな混沌とした状況の中で、堂々とアンドロイドとして登録できる環境をいち早く整備したのが、『sheep asleep』だった。登録者をアンドロイドに限定すると発表したことで、他の類似アプリを押さえて圧倒的な登録者数を誇るに至った。
自分も相手も本当の姿ではない。共通する前提条件によって騙した騙されたと騒ぐ根源を断ち切ったのである。
幅広い世代に支持され、なかでも十代から二十代の利用者が多かった。単純に外見が好みの人物と付き合い、表面上の美形カップルを演じる。遊びの延長のような恋愛形式が、若年層の欲求と期せずして一致したのだ。
『sheep asleep』を利用して出会いを求める。それはもはや若年層の常識と化していた。
瑠奈は恋愛について年齢相応の強い関心があったわけではない。そのためアプリをインストールしたのは、一時の気の迷いだった。
ちょうど、仕事への不信感を募らせ出した時期と重なる。
『sheep asleep』をインストールした瑠奈だったが、その事実を誰にも打ち明けなかった。悪質な悪戯や犯罪行為は抑制されたとはいえ、水面下では小さなトラブルが燻っていた。打ち明けなかったのも、言えば誰かに止められると予期していたからだ。
そのような危険性を孕んだ冒険に賭けたのも、やはり瑠奈が精神的に追い詰められていたからかもしれない。
綾名ルナの容姿は瑠奈には似せなかった。そして輝莉のように美しさには拘らず、平均的な十七歳の女の子をイメージして創造した。大木瑠奈とも九瀬輝莉とも全く関係の無い、ただの普遍的な女子高生になりたかったのだ。
始めてたった二週間で、三十人近くの男性から連絡を貰った。だが大半は、挨拶も早々に自撮り写真を要求してきた。プロフィール欄には自身の写真を掲載できるのだが、瑠奈はあえて非表示のままにしていた。そのため綾名ルナの容姿が分かる写真を執拗にねだってくるのだ。
外見が最も重要視される出会いの場において、平凡な見た目の綾名ルナは異例の存在だったのだろう。望み通り写真を送ると、如実に返信速度が遅くなった。形式的なお世辞を言ってくれればまだマシで、写真を送ったきり連絡が途絶えたケースもあった。
プロフィール欄にルナの写真を掲載すると、連絡をくれる人の数が激減した。瑠奈が求めていた刺激は、ここには無かった。
ほんの気の迷いで始めた遊びだったが、ひと月も経てばすっかり冷静さを取り戻していた。そろそろアプリをアンインストールしようかと思っていた、その折に知り合ったのが恒だった。
恒の方から「お話しませんか?」と連絡が来たのがきっかけだった。プロフィール欄を覗くと実年齢が一緒で、居住地も近かった。たったそれだけでも親近感を覚え、軽い気持ちで返事を送った。
年齢と行動範囲が重なっているためか、恒とは共通の話題で会話が弾むことが多かった。流行りの音楽や映画の話で盛り上がったり、学校の授業が難しいと愚痴を言い合ったりもした。
恒が写真を要求することはなかった。お互いにファンだと以前から語っていたアーティストのグッズTシャツを手に入れた時、瑠奈は試しに、ルナがTシャツを着た写真を送ってみた。わざと顔も映り込ませ、ルナの容姿を見ざるを得ない状態にした写真をだ。恒からの返信はTシャツを褒める内容ばかりだった。ルナ当人に関する感想はなく、連絡が途絶えることもなかった。
外見ではなく内面を見てくれている。『私』を認めてくれている。瑠奈はそれが何よりも嬉しかった。
ただ、あんなに触れてほしくなかった容姿に全く触れられないというのも残念に思う気持ちがあった。この相反する感情はなんだろうか。瑠奈の中で、恒の存在が次第に大きくなっていった。
今年の二月、遂に最寄り駅の広場で直接逢う約束を交わした。その頃にはすでに恒に逢いたい気持ちが抑えられなくなっていた。
その日は珍しく雪が舞っていた。NFの温冷感覚受容器が反応するほど寒風に震える気温だった。白い息は出ない。
前方五十メートル先にそれらしき人物が目に入る。途端に心臓の鼓動が速さを増す。指先は冷たいのに身体は熱い。初めて経験するちぐはぐな感触に戸惑っていると、恒がルナの前で止まった。
「綾名、ルナ、さん……ですか?」
「は、はい」
アプリ上でのやり取りはすっかり打ち解けていたはずだが、本人を目の前にすると二人とも何故か敬語で改まってしまう。
「寒い中待たせてしまってすみません。まさかこんなに寒くなるとは……」
「いえ、大丈夫です」
『綾名ルナ』として誰かと会うことすら初めてで、緊張を隠せなかった。
「取り敢えず、暖かい場所に移りましょうか」
おどおどするルナとは対照的に、恒は終始、泰然とした姿勢を崩さなかった。ただ決して緊張していないわけではないらしく、所々ぎこちなさが垣間見えた。
強張っていたルナも、不器用ながらにエスコートしようとする恒の傍にいることで、確かな安らぎを感じるようになっていた。
「良かったら僕と、付き合ってください」
別れ際、恒の差し出した手を握ったのは、ルナにとって当然の選択だった。
「あぁー……」
「大丈夫? やっぱり映画館来るのはまだ止めといた方が良かったかな」
恒は映画館が苦手らしく、シアターを出てからずっと口元を押さえていた。ルナは恒の顔を心配そうに覗き込む。
「大丈夫。前に来た時よりはだいぶマシになったから。もう何回か挑戦したら慣れると思う」
「無理しなくてもいいよ。私の友達にも小さい頃から映画館が苦手って子がいるから、大変なのは分かってるし」
そもそも今日、映画館に来たのはルナの発言がきっかけだった。公開されたばかりの映画を見てみたいと、つい恒の前で口走ってしまい、それを聞き逃さなかった恒が苦手克服のためにも一緒に観に行こうと言い出したのだ。
恒が決心したこととはいえ、消沈する彼を目の前にいたたまれない気持ちになっていた。そんな気まずい雰囲気を悟ったのか、恒は口元から手を離して努めて明るく振舞った。
「うん、よし! 完全復活した。新鮮な空気を吸って気分が晴れたよ」
深呼吸をする仕草を見せる。ジョークを言えるようになるくらいには回復したらしい。
「この後どうする?」
時計を眺めながら恒はルナに訊いた。時刻は正午を過ぎたばかりのお昼時だった。
生身の身体だったなら昼食を食べながらゆっくりと時間を過ごすのだろうが、NFに栄養補給は必要ない。摂食機能は一応搭載されており、検出された味や匂いなどの情報は操縦者本人に伝達、再現される。しかしあくまで味や匂いを「感じる」だけで、当然お腹は満たされない。食事は幸福感よりも精神的苦痛の方が大きくなる。アンドロイドである事実を秘密にしたい者のために搭載されている機能と言っても過言ではない。
二人のように互いにアンドロイドと知っている仲で、わざわざ食事をするような酔狂な真似はしない。デートでも基本的には外食する選択肢は除外される。
「うーん、どうしようか。……あ、服買いたいんだけど良い?」
「いいよ。どこの店に行く?」
「マルチカの向かいのショッピングモールに行ってみたいお店があるんだけど。ちょっと遠いかな」
「全然大丈夫。ここからだと地下鉄が一番早いかな」
恒はルナの手を取って誘導する。自然な流れで握ったつもりかもしれないが、その不自然な強引さをルナは見抜いていた。不器用なのはまだ治ってないらしい。
ショッピングモールに着くと目的の店に入って服を物色する。仮にもモデルをやっている身として、ファッションの知識は豊富にある。ただ綾名ルナに合わせたコーディネートとなると恒の意見も参考にしたい。目ぼしいものを何点か持って試着室へと移動する。
「ど、どうかな」
ルナは恥じらいながら試着室のカーテンを開ける。
「うん。こっちも似合ってるよ」
「恒君はさっきのとどっちを着てほしい?」
うーん、と熟考する。まじまじと見られると改めて恥ずかしくなる。
「こっちかな。さっきのオフショルダーのはちょっと肌が見え過ぎかなって。それにこっちのは胸元のレースがルナちゃんに似合ってて可愛いよ」
カーテンに隠れてしまいたい衝動と、もっと彼に見てもらいたいという嬉しさがルナの中でせめぎ合う。同じ「可愛い」の言葉が、恒の口から出ただけで何故こんなにも高鳴ってしまうのか。ルナは鼓動の上に手を添えた。
「……あ、いや、深い意味は無いよ! 単純にルナちゃんはレースが似合うって思っただけで、変な意味で言ったんじゃ……」
ルナが胸元に手を当てて俯いていると、勘違いした恒が必死に弁明を始めた。
「う、うん! 分かってるよ! 今のは違うくて……」
正直どれも捨てがたかったが、たった今決まった。ルナはフレアスカートを摘まんで得意のポーズを取る。
「じゃあ、これ買おうかな」
ショッピングモールを出ると、朝から降っていた雨がまだ屑々と降り続いていた。
――止んでくれれば良かったのに。
傘とビニールに包まれた紙袋で手が塞がっている恒を、傘の下から盗み見ながら、ルナは天を恨んだ。
「さっきのルナちゃん、モデルみたいだったね」
「そんなことないよ。言い過ぎだって」
九瀬輝莉の名義でモデル活動を行っていることは秘密にしている。恒とは単なる『綾名ルナ』として関わりたかったからだ。
「そうかな。様になってたと思うけど」
そんな話をしている内に時間がやって来た。この路地を抜けると集合場所にしていた駅前の広場に出る。路地を抜ける直前に立っている電柱の下が、デートの終着点だった。
辺りを確認してから、恒がルナの傘に潜り込む。
――やっぱり、雨降ってて良かった。
人影が無いとはいえ、雨雲で薄暗いとはいえ、初めてではないとはいえ、まだこの刺激には慣れないでいた。二人の逢瀬を探られぬよう、ルナは傘で隠した。
余韻に浸っていると、恒は左手をルナの頭の上に優しく置いた。
「それじゃあ、またね」
「うん……、またね」
ミドルルームの鏡に映った自分の姿を見る。等身大の『大木瑠奈』でも、理想の『九瀬輝莉』でもない。『綾名ルナ』は何のために存在しているのだろうか。
出来心から始まった恒との関係だが、遊びという感覚はすっかり無くなり、真剣に今後の関係性について考えていた。このまま交際が続き、さらに関係を深めていったなら。
正体を明かすのは避けて通れない。
恒に『大木瑠奈』を、そして『九瀬輝莉』のことも告白したとして、彼が態度を一変させたりはしないだろう。おそらく今まで通りに接してくれるだろう。ルナは恒の人柄から確信していた。
しかし自信とは裏腹に、その時が来るのが怖かった。お互い偽りの姿から始まった恋が、ルナに後ろめたさを抱かせていた。
彼は綾名ルナを好いてくれている。ならば『私』は何のためにいるんだろう。『私』ってどれだろう――。
ルナは首を激しく振った。鏡の前で繰り返していたら気が狂いそうだった。本当の『私』でも華やかな『私』でもない、正体不明の『私』を認めてくれる人がいる。それはとても幸運なことだ。
――私は幸せ者だ。だから、幸せでなければならないんだ。
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