3

「それじゃあ瑠奈、お母さん出掛けてくるから」

「ん~」

「朝食はキッチンに置いてあるからね」

「分かってるよ」

「行ってきます」

「いってらっしゃ~い」

 瑠奈は片手をひらひらと振って母の美姫を見送った。ドアが閉まると、慣れ親しんだ静寂が辺りを包み込む。

 起床したばかりの瑠奈は、欠伸を噛み殺しながらリビングに向かう。台所の上には予想通りのインスタント食品が置かれていた。パックご飯に粉末タイプの味噌汁、チルドの焼き鮭。美姫が朝食を用意できない日は決まってこの三品だった。たまには別のを買ってきて、と何度も抗議しているが、美姫は頑なに変えようとしない。

 瑠奈は誰に見せるわけでもないが、不満さを表現するために大袈裟に項垂れる。しかし不満に思ったところで用意されている以上はこれを食べるしかない。

 お湯を沸かす横で、白米が入ったパックの蓋を開けて水を注ぐ。再度蓋を被せて電子レンジで温める。次に、お椀に味噌汁の粉末を入れる。その頃合いにお湯が沸騰するため、お椀の中に熱湯を注ぎ込む。箸で少しかき混ぜると、味噌の香りが蒸気に乗って漂い、透明だった汁が茶色に広がる。

 後ろで電子レンジが鳴った。ご飯を取り出し、代わりに鮭の塩焼きを温める。ご飯の蓋を開けると、粒と粒の間の水分がまだグツグツと泡を立てている。通常よりも水気が多く柔らかいお米が好きな、瑠奈好みのご飯だ。と、またしても後ろのレンジが鳴る。開封すると鮭の身がはち切れんばかりに膨らんでいる。

 美姫からは食器に移し替えなさいと口酸っぱく言われているが、瑠奈は面倒くさがって容器に入ったまま食卓に並べる。

「いただきます」

 瑠奈の挨拶と同じ言葉が重なることも、違う言葉が返ってくることもない。しかし忘れてしまわぬよう、一人であっても怠りはしない。

 味噌汁を啜る。火傷しない温度まで下がっている。完璧に考えられた一切の無駄が無い調理工程は、今まで何度も繰り返す内に洗練されていった。それだけ同じ献立が登場した証拠である。

 ――今度は絶対違うもの買ってもらおう。

 食べ慣れた味付けを噛み締めつつ、瑠奈は何度目かの誓いを立てた。

 自室に戻り今日の服を選ぶ。特に今日は瑠奈にとって大事な日であるため、いつもより時間を掛けて選定する。あまり華美なものだと外を歩いている時に目立つため避けたい。それに気合が入っていると相手に気取られるのも癪だ、という反抗心から、黒のブラウスに赤のギャザースカートに決めた。

 服選びに時間を割きすぎたせいで、予定していたよりも余裕が無くなってしまっていた。洗面台の前で口腔を洗浄しながら寝癖を直す。化粧は下地だけに留めておく。これもやはりちょっとした反抗心である。

 ようやく準備が整ったところで時計に目を遣る。時計は九時十分前を示していた。約束の時間にはギリギリ間に合ったようだ。前髪をいじったり、やっぱり後ろは結んだ方がいいかな、などと考えているとインターホンが来訪者を告げる。手で留めていた髪が広がり落ちるのも構わず、瑠奈は小走りでドアの前に移動した。

 思い出したように手櫛で髪を整え、今か今かと待ち受ける。

 ガチャリ、とドアが開く。

「おかえり」

 ドアがまだ数十センチしか開いていない内に、瑠奈は声を掛ける。

「ただいま、瑠奈。久しぶり」

 襟を詰め皺一つ無い服に身を包んで微笑んでいたのは、父親の新夜だった。


 瑠奈が五歳の時、新夜は瑠奈の前から姿を消した。まだ幼かったからか、瑠奈の中では新夜が居なくなった当時の記憶が曖昧である。ただ父がフッと消えてしまったような感覚は鮮明に覚えていた。

 父のいない部屋は無辺際で、代わりに得体のしれない何かが居座っているような恐怖は、瑠奈の脳裏に焼き付いている。

 なぜ新夜はいなくなったのか。理由は美姫から聞いたような気もしたが、思い出せなかった。美姫に尋ねれば真相ははっきりするだろうが、瑠奈はそれができなかった。幼心にも、何か不穏な気配を感じ取っていたのかもしれない。訊いてしまえば後戻りできない。躊躇いを抱き、瑠奈は真相を知らないまま過ごしていた。

 保育園で先程まで一緒に遊んでいた友達が、迎えに来た父親と手を繋いで帰って行く様子を見るたびに胸がチクリと痛んだ。

 骨張った手に握られた自分の手を見ながら、どこかの道を父に引っ張られて歩く記憶。そして、常夜灯に照らされた、隣で眠る父の顔を眠り眼で眺めている記憶。瑠奈と新夜との記憶はその二つで全てであり、もうこれ以上増えないのだと思っていた。

 そんな瑠奈の前に、新夜が再び姿を現したのは、瑠奈が小学校に上がった年の冬だった。

 その日はいつものように瑠奈が一人で留守番をしていた。すると突然、ドアの鍵が開く音がした。最初は泥棒が入って来たと恐怖に慄いたが、玄関から聞こえたのは瑠奈の名前を呼ぶ声だった。声の主の顔を見上げると、朧気ながらに記憶していた新夜の顔がそこにあった。

「ただいま、瑠奈」

「うそ……。お父さん、なんで……」

 それから瑠奈は帰ってきた新夜に質問の嵐を浴びせた。仕事の都合で突然、海外支部へ異動することになったこと。まだ瑠奈が小さかったため、美姫は日本に留まる選択をし、新夜単身で赴任したことなど、当時の事情を説明された。

 聴いている内に、理由を語っていた美姫の口からも「仕事」というワードが出ていたようにも思う。勝手に不吉な想像をして何を躊躇していたのだろうか。瑠奈はこの二年間が馬鹿馬鹿しくなって吹き出してしまった。

「僕も携わってるプロジェクトがようやく軌道に乗り始めて、ちょっとだけ余裕ができたんだ。瑠奈にはずっと寂しい思いをさせてたけど、これからはこうやって毎月会いに来るから」

 その言葉に喜びを隠せなくなった瑠奈は新夜の手を固く握り締めた。寒さで冷たくなった手だったが、またこうして新夜との想い出が増えていくことがたまらなく嬉しかった。

 それから新夜は宣言どおり、月に一回は必ず顔を見せに帰ってくるようになった。新夜のいない部屋は相変わらず心細かったが、新夜と会う日が、瑠奈を奮い立たせていた。

 ただ、やはり忙しいのか、あまり長居はできない。ゆっくり腰を下ろして話せるのはせいぜい数時間程度だった。再会を果たした日も、美姫が帰る前に仕事へと戻って行った。

 美姫は出版社に勤める都合上、土日に関係なく多忙だった。加えて瑠奈も仕事を始めたせいで、あまり自分の時間を取れない。家族三人の予定が揃うのはいっそう難しくなった。

 それでもいつか、三人が一緒の時を送る日が来ることを瑠奈は望んでいた。特に両親が顔を合わせる機会はこれまでなかった。自分が二人の間に入って架け橋にならなければ、という使命感に似た決意をいつしか抱くようになっていた。その使命のためにも、瑠奈はこのひとときを大切にしたかった。


 瑠奈は残っていたお湯を再度沸かし直し、二人分のお茶を用意する。新夜は提げていた紙袋からお茶請けを取り出す。傍から見れば家主と客人のような他人行儀な光景だが、瑠奈にとっては普通の振舞いであり、包装紙を破る新夜の姿は紛れもない父の姿だった。

 二つのマグカップを食卓に並べ、二人は席に着く。

「道中に立ち寄った洋菓子店で買って来たんだ」

「あ! これ前にテレビでやってたやつだ。食べたかったんだよね」

 言い終わる頃にはすでに外装のビニールを取っ払っていた。そして間髪を入れずに齧りつく。

「ん、ん~!」

 表面のパイ生地がミルフィーユ状になっていたため、ボロボロと口元から落ちる。

「あーあー、相変わらず瑠奈はそそっかしいんだから」

 新夜は席を立ち、積み置きされている紙の雑誌の山に埋もれていたティッシュの箱を掴んで、瑠奈に突き出した。

「ありがと、こんなにこぼれるとは……これは一口で食べた方がいいね」

 言うが早いか、瑠奈は残りを口の中に放り込んだ。

「ん!」

「って言ってる端からお父さんもじゃん。もー、そそっかしいんだからー」

 瑠奈はティッシュを一枚抜き取り、新夜に差し出す。

 一か月の間に起こった取り留めもない出来事の顛末が、瑠奈の口から淀みなく流れる。本当は新夜の話も聴きたいのだが、いざ目の前にするとどうしても自分の話を聴いてほしくなってしまい、歯止めが掛からなくなってしまう。

 新夜はというと時折、相槌を打ちながら終始話に耳を傾けている。

「そしたらトワちゃんがね――」

 クライマックスを迎えようとしたところで、正午を知らせるメロディーが町内に流れる。それを合図に瑠奈はハッと時計に目を遣る。

「嘘! もうこんな時間?」

「これから仕事なんだっけ」

「うん、そうなんだ……。もー、今からが面白いのに!」

「じゃあ続きは次までの楽しみにしておこうかな」

 それが新夜の常套句であり、親子水入らずのひとときの終わりを告げる合図でもあった。

「今度はちゃんと覚えててよ。今日も前の話すっかり忘れてたんだから」

 瑠奈はマグカップを片付け、新夜は手荷物を確認する。先程までのゆったりとした時間とは打って変わって、二人とも忙しなく出掛ける準備をする。

「仕事もいいけど、勉強が疎かにならないようにな」

「さっき成績表見せたでしょ、大丈夫大丈夫」

 洗い終わったマグカップを水切りカゴに置き、鼻高々に両手を腰に当てる。

「それならいいけど。モデルの仕事は上手くいってるのか?」

 バランスを崩したマグカップがぶつかり合って不快な音を鳴らす。瑠奈の動揺が伝播したかのようだった。

 わざと避けていたのに、なぜ痛い所を突いてくるのだろうか。それが親というものなのだろうか。

「……うん。上手くいってるよ」

 濡れた手をタオルで拭く。必要以上に俯いたのは顔を見られないためだった。

「なら良かった。――あれ、まだ何個か個残ってるけど食べないのか?」

 新夜は自分が持ってきたお菓子の箱の中を指差す。

「いいの。それ、お母さんのだから」

「……そうか、そうだな」

 もしこの時、瑠奈が顔を上げていたら、寂しさ混じりに微笑む新夜を見逃すことはなかっただろう。


 身支度を整えた瑠奈を新夜が見送る。今までは瑠奈が新夜を見送っていたため、両者とも逆の立場に慣れていない。妙な緊張感が漂っている。靴を履くにも足を入れるだけなのだが、今日は何故か手間取ってしまった。

「じゃあまたね、お父さん」

 ドアノブに手を掛け、あとはドアを開けるだけの姿勢になってホッと胸を撫で下ろす。

「またな、気を付けて」

「うん、行ってきます」

 軽く手を振ってドアを開け放した。外に一歩踏み出す。その瞬間、それまでは気まずい雰囲気から早く逃れたいと思っていたのが、後ろ髪を引かれる思いが強さを増した。

 今までは新夜が瑠奈から離れていった。残された側はその事実を受け入れるほかない。そしてまた会う日をただ待つだけだった。

 今は、瑠奈が新夜から離れていく側に立たされている。振り向けば、その人は自分に視線を送っているだろう。踏み出した足を戻せば、その人の胸に抱きつくことができるだろう。

 瑠奈はドアが父の姿を遮るよりも早く駆け出した。

 ――ここで振り返っちゃいけない。振り返ったら、昔の弱い私に戻っちゃう。もう私は、強くなったんだから。

 ドアが自ずとゆっくり閉まっていく。新夜は誰も居なくなった玄関に手を向け続けていた。


 今日も先日と同じく事務所のスタジオでの撮影だった。スタジオに入ると、すでにモデル仲間の一人が撮影を行っていた。今日のカメラマンはレンリのような遠隔での撮影ではなく、カメラを自ら構える従来型のスタンスらしく、威勢の良い声を上げながらシャッターを押していた。休憩スペースにはもう一人のモデル仲間が暇そうに端末をいじっている。

「おはよう、輝莉さん」

 琴乃ことのは顔を上げると輝莉に笑顔を向けた。公式の年齢は十九歳と輝莉よりも年下だが芸歴は彼女が約二年長い。彼女がアンドロイドであるかは知らない。

「珍しく時間ギリギリだね」

「家出るのにちょっと時間掛かっちゃって」

 瑠奈としては年齢も芸歴も先輩にあたるのだが、琴乃から「タメ口の方が楽だから」と言われ、今では気さくに話し合える関係になっていた。

「なんか今日はもう一人撮影入ってたらしいんだけど、前の仕事が押して遅れるらしいよ」

 言われて辺りを見渡してみれば、確かにマネージャーやスタイリストが落ち着かない様子で意味も無く右往左往としていた。

「そうなんだ……」

「って、なんで笑ってんの?」

「ううん、笑ってないよ!」

 咄嗟に誤魔化したが、本心が表情に現れてしまったようだ。こんなに人も多くて慌ただしい現場なら余計な事を考えなくて済みそうだ、と安堵していたのだった。

 撮影はまだ続いていた。シャッター音が焦げる臭いがする。


 求められる像が違うから。

 想像していた光景と違うから。

 新夜に会う時間が短くなるから。

『こんなことなら、もう辞めてしまいたい』

 その一言だけは軽々しく吐いてはならないと、あの日の帰り道に自身を戒めた。

 ――トワちゃんが言った通り、折角掴んだ夢を容易く手放すことはできない。なら、続けるしかない。モデルをする、それが楽しみだったんだから、続けてたらいつかまたそう思える日が来るはず。

 瑠奈は抱える悩みに折り合いを付けた。

 ――NFが無かったら私の夢は叶えられなかった。それが、私の憧れる姿で実現できてる。それだけで私は恵まれているんだから、これ以上理想を語るなんて罰当たりだよね。

 瑠奈の打ち出した打開策は、詰まるところ今までと何ら変わらない。それでも漫然とした不安を抱えたままでいた時よりも、道筋が定まった手応えを感じていた。

 両腕で抱く必要すら無い。片手に押し固め、握り締めた。

 瑠奈は、不安から目線を逸らした。


 玄関と奥のリビングの灯りが点いているが、新夜はもちろん、美姫の靴も無かった。

「ただいまー」

 声を張るが返事は無い。いつもの通り、鍵を解錠した時に自動で灯りが点いたのだろう。瑠奈はソファに横たわる。

「テレビ点けて」

 瑠奈の言葉に、プロジェクターが壁にテレビ画面を投射する。全くの無音よりも適度に雑音があった方が、余計な思考を邪魔してくれて落ち着く。

 瑠奈はそのまま目を閉じた。雑音が急速に遠ざかって行く。

 どれくらいの時間が経っただろうか。ドアの開く音が響いた。

「ただいま」

 ドアの音で目を覚まし、美姫の声が瑠奈を現実に引き戻す。

「んあ、おかえりー……」

「またソファで寝てる」

「つい」

 美姫は一旦寝室に消える。瑠奈が伸びを済ませると、ジャケットを脱いだラフな格好で出てきた。

「私明日も早く家出るから」

「分かった。あ、朝ご飯たまには別のにしてって言ったじゃん」

「えー? だって好きなんだもの」

「私は別のが良いの」

「じゃあ何が良いの?」

「あれ以外なら何でも」

 美姫は大袈裟に溜め息を吐いた。

「はいはい、じゃあ今度は別の買ってくるから」

「絶対だからね。テーブルの上にあるのはお父さんのお土産だから。私はもう食べたから、あとは全部お母さんの」

「うん、ありがとう。すぐ夕ご飯にするから瑠奈も手伝って」

 キッチンに入りざま、美姫は新夜の土産を一つ摘まみ上げ、口の中に押し込めた。

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