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ビルの建ち並ぶオフィス街を、制服を着た一人の少女が歩いていた。長袖の黒いカーディガンを羽織り、ネイビーのキャスケットを目深に被っている。ツバの下から覗く俯いた瞳は周囲からの視線に怯えているようだった。一五五センチの身長も相まって、すれ違う通行人は、学校帰りの中学生が見知らぬ街に迷い込んでしまったように見えたかもしれない。
しかしそれは見当違いである。彼女は中学生ではなく、今年高校二年生になった十六歳の女子高生であるということ。そして彼女は道に迷っているのではなく、明確な目的地を目指しているということだ。
一角に聳える十五階建てのビル。そこが少女の目的地だった。道路に面した自動ドアの奥にはエントランスがある。少女は自動ドアの前を通り過ぎると、路地へと身体を滑り込ませた。
周辺の高層ビルに比べると頭二つ分は低いが、そのぶん面積は三倍近かった。それ故に路地も長い。左側に続いていた建物がようやく途切れると、少女も角を曲がってビルの裏手に回り込む。さらに十メートルほど進んだ所に、鈍色を輝かせるドアノブが突き出した裏口があった。
少女は辺りを見回して誰もいないことを確認してから、端末を鞄から取り出し、扉の横の認証装置にかざす。そしてロックが解除された殺風景な扉の中へ姿を消した。
扉をくぐってすぐ脇には部屋が設けられてあり、少女は足早にその部屋へ入る。
薄暗い室内、通路の両脇には無数のドアが並んでいる。ドアの横のランプが赤く灯っている個室は使用中である。誰も使用していない、すなわち緑色のランプが灯る個室を探す。
この時間帯は利用者が多いため中々見つからない。奥から三番目、右側のドアにようやく緑色のランプを見つけ、引手に手を掛けた。
室内は一畳ほどだろうか、通路よりもさらに暗い照明もあって圧迫感を感じる。もっとも、すでに見慣れてしまった少女にとっては狭いと感じることもなくなっていた。
ドアの横には先程と同じ認証装置があり、再び端末をかざすことでドアをロックする。それと同時に入室者の情報も読み取られる。
少女は隅に置かれた収納ボックスに鞄を収める。そしてキャスケット、カーディガン、さらに制服、下着など身に付けていたもの全てを脱いでボックスに仕舞った。
裸の姿で、この小部屋の大部分を占めている、中央に鎮座するシートにもたれ掛かる。「コクーン」と呼ばれるそれは、内蔵された加圧センサーが少女を感知し、リクライニング状態に変形する。目の前に投影されたモニターに暗証番号を入力すれば、あとは身を委ねるだけだった。
頭上で直立していたシェルがゆっくりと倒れる。まるで巨大な魚が獲物を丸呑みするように、少女の全身を覆った。
シートの革が全身に密着し、真空パックのような状態になる。初めは拘束されるような窮屈さを感じていたが、肌に密着する感触が徐々に癖になっていた。
目を開ける。先程よりもさらに半分狭い、半畳ほどの密室。ミドルルームと呼ばれるこの部屋の後方にはドアがあり、三方は姿見となっている。
正面の鏡には『自分』の顔が映っていた。前髪に隠れていた自信無さげの目は、目尻の切れた大きな瞳に変わっている。鼻柱の低かった鼻はツンと上を向いた筋の通ったそれになり、色素の薄い唇は厚みを増して艶やかな桜色を滲ませている。鏡に映る自分の顔には理想的なパーツが端正に並んでいた。
その場で足踏みをしたり両手を握っては解いてを繰り返すなど、鏡も見ながら性能に不備がないことを確認する。大丈夫そうだと納得してからいよいよ服を身に付ける。
股下七十五センチもある長い脚にショーツを通し、肌理から表皮下の血管も忠実に再現されている餅肌の腕にベアトップをくぐらせる。質素な白い下着を付けただけだがスタイルの良さを演出していた。
後方ドアには今日の衣装が吊るしてある。白のノースリーブニットにパステルグリーンのフレアスカート。足元はベージュのベルトサンダルで、夏をイメージさせるコーディネートだ。
専用のメイク道具で化粧を施す。素材が良いため時間はかからない。
かくして
Neo-figure――通称NFという高機能アンドロイドが公表されたのは、今から二十年ほど前のことである。人間の外観に似せて創られたそれは、不気味の谷をも超え、もはや生身の人間と遜色がないほど精巧な容姿をしていた。
だがNFの真骨頂はその外観ではない。このアンドロイドは専用のコントロールパネルを使用せず、人間の脳で操作することが可能である点だ。
ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)は当初、介護用ロボットや義手などに利用されていた。この技術が汎用化したことで、徐々に娯楽品として商業化していった。その最たるものがNFである。
頭部にプローブを装着し血中ヘモグロビンの増減を測定することで、間接的に脳活動を測定している。近赤外線分光法(NIRS)と呼ばれるこの計測法は、手術を伴わない非侵襲的技術であるため、安全に測定することが可能である。
コクーンの上部からプローブが勝手に装着され、操縦者の頭部に合わせて変形するため、操縦者は実質的に身を委ねるだけで準備が完了する。
さらにシートの表面に内蔵された電極が皮膚に接着することで、筋電位も同時に測定される。この電極もまた操縦者の体形に即して適切に貼付してくれる。頭部と皮膚からのコードを電気信号に変換しアンドロイド本体に送信することで、遠隔からでも意のままに操作することが出来る。
例えば操縦者が右腕を上げようとすると、脳の関連部位でヘモグロビンが増加し、右腕の筋線維から活動電位が測定される。この二つの情報を統合し、アンドロイドが右腕を上げる。実際に右腕を上げる必要は無いため、操縦者の身体的疲労はほぼ皆無といっても過言ではない。
行動を念じてアンドロイドが動作に移すまでの差は約〇・三秒。これは人間が行動を念じて動作に移すまでの時間をほぼ変わらない。
またNFはインプットとアウトプットの双方を実現したBMIである。NFに搭載されたカメラや人工受容器からの情報は同じく電気信号に変換され、脳組織内に電流を発生させることで神経活動を恣意的に誘発する。すなわちアンドロイドの感覚を疑似的に体験することが可能である。触覚に関してはさらに、加圧器がシート内の電極に併置されているため、身体に甚大なダメージを及ぼす衝撃でない限り同等の感覚を体験できる。
例えばNFが右手でボールを掴んだとすると、操縦者の右手の掌に同等の圧力が負荷され、あたかも実際の手がボールを掴んだかのような感覚を味わえる。
BMIを応用したアンドロイド製品を売り出す企業は、日本では数社のみである。その中でも先駆けとなった
利用者はネットから専用ソフトを購入し、デフォルトの3Dモデルをカスタマイズ、そのデザイン情報を企業に発注することで、個別のNFを所有することができる。そして都市部の各所に設置されたNeo-figure Storeroom――通称NFSと呼ばれる完全個室型の施設からオリジナルのNFを遠隔操作し、自在に街中を闊歩できるようになった。NFの管理もNFSが代行し、場所と時間を予約すれば、たとえ遠く離れた外国だろうと使用できる。
要するに、年齢・性別・出身地、果ては容姿の美醜などのあらゆる垣根を超え、好ましい人物を模して生活することが可能となったのだ。
少女が入ったこの建物は芸能事務所の本社である。そして九瀬輝莉とは、一人の少女が創り出したNFであり、この芸能事務所に所属する雑誌モデルだった。
廊下に出た瞬間、人影とぶつかりそうになる。
「ぅわっ」
「きゃあ!」
両者とも大袈裟に仰け反った。一歩で踏み止まったところで輝莉は相手に目をやる。女性は帽子とマスクで目元しか視認できないが、見知った人物ではなかった。裏口から入って来たということは輝莉と同様にこれから仕事なのだろう。しかし女性は裏口の扉付近でおどおどしたまま動こうとしない。
「すみません。お疲れ様です」
輝莉は女性に軽く会釈をしてその場から逃げるように立ち去った。
九瀬輝莉がNFであることはデビューしたきっかけもありすでに周知の事実となっているが、それを公表せず、生身の人間として芸能界を生きる人は一定数存在している。そもそもアンドロイドとして芸能界を目指す人は、何かしらの劣等感を抱いている人も少なくない。よほど深い関係にならない限り、素性を明かされたくない人を執拗に詮索するような真似はしない。
周囲の環境や対応によって露見してしまわぬよう、いつしか芸能人は総じて人間であるかのように振舞うのが、この業界の暗黙の了解となった。アンドロイドを公言しているタレントへの取材など、例外的にアンドロイドとして接する機会はあるが、本体への不必要な深追いは厳禁となっている。
輝莉の所属する芸能事務所では、在籍するタレントは須らく裏口から出入りするように定められている。
裏口から入ってすぐ脇には扉のない出入口があり、そこを入ると右から輝莉の本体がいるNFS、ミドルルーム、更衣室の順に併設されている。アンドロイド利用者でないタレントはこの更衣室で衣装に着替えることになっている。つまりアンドロイド利用者であろうがなかろうが、必ずあの出入口は通らなければならないのだ。
事務所が所有するNFSと更衣室が併設されているのは、出入りの仕方によってアンドロイド利用者か否か判別されないようにという配慮が背景にある。
輝莉と出合い頭になったあの女性も、もしかしたらNFSに入ろうとしていたのかもしれない。だから輝莉はすぐにあの場から離脱したのだった。
NFSに入る姿、変身する前の姿はできるだけ他者に見られたくない。だから視線に過敏になるのだ。劣等感を抱いている人ならば、それはなおのことである。
「おはようございます」
エントランスを通り過ぎ、エレベーターの前で止まる。タイミング良く降りて来たエレベーターが開く。
「あ、お疲れ様です……」
出てきたのは輝莉と同じくモデルとして活動している
「お疲れ様です」
白石は最低限の挨拶を済ませると、そのまま颯爽とエントランスの方へと向かって歩いて行った。コツコツと心地良いリズムで刻まれる足音が廊下に響く。
白石は他人に干渉せず、他人に踏み込ませない高潔さ持っていた。輝莉と同い年ということもあり一緒に仕事をする機会が多いが、その無言の圧力に屈してしまい、仕事の話以外で交わした言葉は少ない。
五階に到着するとマネージャーの
「あ、九瀬さん。おはようございます」
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。もうすぐいらっしゃる頃だと思ってました。本日は第二スタジオで撮影を、終わり次第そのまま軽いインタビューに答えて頂く予定となっております」
崎下は落ち着き払った足取りで達弁にスケジュールを告げる。年下の輝莉に対しても敬語を使う物腰の柔らかな人だ。だが輝莉を始め多くのモデルのマネージメント業務を一手に引き受け、仕事を見つけてくる敏腕マネージャーである。
「カメラのセッティングが少々遅れているそうなんですが、すぐに開始出来るらしいので、こちらでお待ちください」
「分かりました」
スタジオに通された輝莉は、促されるまま椅子に座る。崎下がスタジオを出て行くと、輝莉一人が取り残される。今日の撮影は輝莉だけらしい。
専用の撮影スタジオをいくつも社内に構えるこの事務所には数多くのタレントが在籍している。雑誌の撮影となると複数人で行うことが当たり前で、今日のように一人だけで占領するのは珍しい。
――私一人だけ、か。
モデル仲間と会うのを楽しみにしていたのだが当てが外れてしまった。輝莉は足をぶらつかせながら、無機質に設置された十数台のカメラを遠巻きに眺めた。
仕事が始まったのはそれから五分後のことだった。
『輝莉ちゃん、遅れてごめんね。それじゃあ始めようか』
スピーカーから今日の撮影を担当するレンリの声が飛ぶ。このカメラマンと仕事が一緒になることが多く、聞きなじみの深い声だ。ただし輝莉が知っているのは彼女の名前と声だけである。写真で顔を見たことはあるが、実際に会ったことは無い。彼女が今どこから輝莉に話し掛けているのかも分からない。
「はい。よろしくお願いします」
椅子から立ち上がりスピーカーに向かって会釈する。スピーカーに会釈しても仕方ないのだが、一応礼儀としてそうする。
カメラは一点を取り囲むようにあらゆる角度に設置されており、ほぼ球体の体を成している。輝莉がその球体の中に潜り込むと、照明が一斉に照射される。
撮影を開始してから一時間。遠隔操作によって撮影された写真は即時カメラマンの元に送られ、ポーズの変更を細かく指示される。
『もうちょっと顔を右に傾けて』
シャッターを切った合図としてレンズの上部のライトが微かに点滅するのだが、これだけカメラがあると、絶えずどこかしらのライトが点滅している。
『最後、右手を顎の辺りまで持って来て……はいOK。じゃあ確認するから、ちょっと待っててね』
レンリの興奮気味な声が止むと、反動で余計に静閑と感じる。
気温は取り立てて高くないはずだが、照明の突き刺すような熱を皮膚のセンサーが感知しているらしく、暑さを感じる。輝莉はスカートの裾をヒラヒラさせてみるが、あまり意味はない。
『OK、問題ないよ』
「ありがとうございました」
『輝莉ちゃん、今日も良かったよ』
「レンリさんのお陰です」
『またよろしくね。お疲れさま』
「お疲れ様でした」
スピーカー越しの声が途切れ、直後に照明が一斉に落ちる。光が無くなっただけで寒く感じる。
「……」
季節を先取りした夏服が、途端に味気ないもののように見えてしまう。
輝莉は球体のカメラの外に出る。冷たい影がスタジオの四隅を突いていた。
撮影前と同じ椅子に座っていると、崎下と女性二人が入って来た。
「お待たせしました」
崎下が輝莉に仕事用のタブレットを手渡す。
「初めまして。私、
「同じく
渡されたばかりのタブレットが振動し、二人の名刺が表示される。輝莉の名刺も二人のタブレットに送る。崎下は既に交換したのだろうか、その素振りを見せない。崎下に促され、各々席に座る。
「それでは早速インタビューを始めさせて頂きます。九瀬さんは七月でデビューから一年になるということなんですが――」
月刊ROSにインタビューされるのは初めてだったが、十野はかなり下調べをしているらしく、過去のインタビュー記事の内容を絡ませた質問を振ってきた。対照的に乾は聞き役に徹していたが、輝莉の言葉に頷いたり、時折笑顔を見せるなど話しやすい環境を作っていた。
モデルの仕事を始めたばかりの頃は緊張しっぱなしで何を答えたかも覚えていない有様だったが、経験を重ねるごとに徐々に落ち着いて話せるようになっていた。
「――やはり写真で見ると違うなって思いました。その時撮ってもらったカメラマンさんにも後日、『前の輝莉ちゃんはいつもより笑顔が華やかだったよ』って言われたので、プロの目から見てもそうなんだと思いました」
「それ以来ファンデーションは同じ会社の物を使っているんですか?」
「はい。今日も使ってます」
「そうなんですね。では――」
「あ、すみません。そろそろお時間が近づいて参りましたので」
申し訳なさそうに割って入る崎下の言葉に、三人が同時に時刻を確認する。すでに一時間も経過していた。
「あ、もうこんなに経ってたんですね! 話に夢中になっていて気付きませんでした。まだまだ聞き足りないのですが、今日のインタビューは以上とさせていただきます」
「ありがとうございました」
二人は机の上に広げていた仕事道具を手早く仕舞うと、輝莉に深くお辞儀をしてスタジオを出て行った。
「予定していたよりも長丁場になりましたね。時間、大丈夫ですか?」
「あ、はい。日が落ちる前には帰れると思います」
次の仕事の日程などを確認し終えると、輝莉たちはエレベーターの前へと移動する。
「では九瀬さん、お疲れさまでした」
「お疲れ様です」
崎下とはエレベーターで別れ、一階まで降りる。エントランスにも挨拶し、ミドルルームへと向かう。
ミドルルームに入ると衣装を脱いで元のようにドアに掛け直す。保管される際に洗浄されるため化粧は落とさない。
鏡に映った輝莉の無垢な身体を眺めていると、先程の十野の質問が反芻された。
『見事夢を叶えて、モデルの仲間入りを果たして楽しいことばかりだとは思うんですが、その中でも一番楽しいと思うのはどんな時ですか?』
咄嗟に思い浮かばなかった。一番どころか、楽しいと感じた瞬間すら、思い出すのに一呼吸を置いたほどだ。適当な相槌さえ声にならない。一秒足らずの沈黙が輝莉の思考を掻き乱す。
「そう、ですね。楽しいことばかりなので、選ぶのが難しいんですけど……カメラマンさんに褒められた時ですかね。やり甲斐を感じるというか……はい」
その返答に嘘は無かった。ただそれは、ついさっきレンリに『良かった』と言われた出来事をそのまま思い出しただけだ。冷静で冷酷な自分が、手前勝手に口を回す自分に問い掛ける。
――本当にそれが一番?
問われるまでもない。恐らく違うはずだ。
では一番とは。
その質問の答えを見出せないまま今に至る。鏡の中の九瀬輝莉はやはり理想的な容姿だ。だから幸せだったはずだ。楽しかったはずだ。
しかしその記憶を取り出そうとすると、遮蔽物が邪魔をする。
――いつから、私は一体いつから……。
記憶の糸を辿る。視界が次第に暗くなっていった。
―
――
―――
私が幼い頃から、母は仕事をする傍ら、ほぼ女手一つで私を育ててくれた。そんな母の姿を目の当たりにしていたためか、早く自立した大人になりたいという意識が同級生の子たちよりも早い段階から芽吹いていた。
モデルに憧憬の念を抱くようになったのは、私が十歳の頃だった。
その日、学校から帰ってきた私は家中を歩き回っていた。仕事が休みで家にいるはずの母を探すためだ。
風呂場やトイレにも姿はなく、最後にやって来たのが母の寝室だった。残念ながら寝室にもいなかったのでそのまま立ち去ろうとした時、クローゼットの扉が僅かに空いていることに気付いた。几帳面な母にしては珍しい光景だった。そしてそんな几帳面な血を受け継いだのか、私はぴったり閉まっていないと気が収まらなくなった。
小走りで棚の前に移動し、扉に手を置く。すると掛けてある服の下に、何かが置かれているのが隙間から見えた。実の母とはいえ勝手に人のクローゼットを開けることに一瞬躊躇した。しかしやはり好奇心には抗えず、私は扉をそっと開けた。
そこに置かれていたのは雑誌だった。裏表紙が上になっていたため発行日が咄嗟に目に入った。五年前に発行された雑誌と分かる。手に取って表紙を確認する。母は女性向けの雑誌の編集者をしているが、その雑誌は母が手掛けているものとは違うタイトルだった。
雑誌はそれだけでなく、その下に十冊以上は積み重なっていた。下に潜るほど発行年も遡っている。
雑誌を元に戻し、一番上にあったものを捲ると、着飾った女性の写真が続いていた。どうやらファッション雑誌らしかった。母が他社の雑誌を買ってくることはよくあることだったが、電子書籍で買うことが多く、わざわざ紙媒体で買うのは特別な理由があるときだけだった。しかもそれらでさえ半年もすれば大半は捨ててしまう。五年以上も捨てずに残しているのは、よほどの思い入れがあって保存しているのだろう。。
しかもこれらの雑誌は私の視界から隠そうとする意図が明確にあった。母の秘密がこの中に隠れているかもしれない。その背徳感が私のページを捲る指を止めなかった。
しばらくパラパラと流し見していた。ごく一般的な、普通のファッション雑誌に違いなかった。見当違いだったのだろうかと、私の興味は殆ど削がれていた。
私は指を止めた。一人の女性がポーズを取っている一ページ。清楚な衣装に身を包まれているモデルが多い中、その女性だけ異彩を放っていた。
凛とした空気感を身に纏い、堂々とした佇まいで腰に手を当てている。掻き上げた前髪から露わになった顔は白く、挑発的な視線を私に向けている。真一文字に結んだ口は無愛想というよりこの女性の芯の強さを思い知らされた。
衣装のテイストが他のモデルと大きくかけ離れている訳でもないのに、誰よりも大人びた印象だった。自立した格好いい大人の女性。
その印象は、当時十歳だった私が憧れていた大人のイメージに一致していた。
「勝手に棚を開けてる悪い子は誰かな~?」
いつの間にか買い物袋を手にした母が出入り口を塞いでいた。
「悪い子にはお仕置きだ!」
母は私の脇腹に飛び掛かった。指を高速でわしゃわしゃする。
「あはは、ごめ、あはははは、ごめんなさい! あははは」
「まだまだー」
尚も攻撃の手を止めない。対する私も身をよじって反撃に出る。
「お返しだ!」
「お? でもまだまだ甘いな!」
「あはははは、ごめんなさい、もうしない、もうしませんから! ひゃははははは」
目一杯お仕置きされ、呼吸が整うまで一分近くかかった。
「はぁ……、はぁ……。――ねぇお母さん。この人かっこいいね」
瑠奈は例の女性を指差した。
「ん~? あー……、この人ね。カッコいいでしょ」
「うん! 私も将来はこんな大人になりたい」
「あんたなら、もっと良い女になれるよ」
母は私の両頬を指で突く。私は改めて疑問を投げ掛けた。
「ここにある雑誌って、何でクローゼットに入れてたの?」
「それはね、お母さんが前に関わってた雑誌だから、記念に残してあるんだよ。そこら辺に置いてたら、誰かさんに破られたり汚されたりするかもしれないからね」
「そんなことしないもん! 私きれい好きだから」
あの女性と出会ったのを契機に、私は母が買う雑誌を精力的に読ませてもらうようになった。モデルへの憧れが自身の夢へと替わるのに、そう多くの時間を必要としなかった。
ただ、人々を魅了するような容姿を持っているかと自問すると、私は自信を持てないでいた。
小学五年生になると身長が一気に伸び始めた。第二次性徴期だ。クラスの女子の中で一番早く訪れた私は、一時は男女合わせてクラスで一番身長が高くなったこともある。このまますくすくと伸びていくと、信じてやまなかった。
ただ人よりも時期が早かっただけだった。そして終わるのも早かった。どんどんと追い抜かされるなか、私の身長は平均よりも五センチ低いところで頭打ちとなった。中学二年生から今に至るまでほとんど変わっていない。おそらく今後も伸びることはないだろう。
肉付きも理想に反して控えめだった。体育の着替えの時間では、存在感を発揮する同級生を横目に、私は隅の方で誰にも見られないよう素早く着替えるようになっていた。
ファッションやコスメブランドの勉強には余念が無かった。。流行には常にアンテナを張り、身体作りも根気強く続けていた。しかしいくら努力しても、現実は無情だった。
丸かった顔の輪郭がシャープになっていく同級生たち。周りを見渡せば、それこそモデルと見紛う容姿を持った子が何人もいた。彼女らに接するたび、私は不安を募らせていた。私は本当にモデルになれるのだろうか、と。
NFが一般人にも購入できるアンドロイドでなければ、私は夢見る少女のままで終わっていたかもしれない。
高校生になり、いつものように雑誌を眺めていた。するとある芸能事務所が主催するオーディションの、出場希望者を募集する記事に目が留まった。特に注目したのは募集要項だ。
『出場条件
・遠隔操縦型アンドロイドであること。
・アンドロイドの年齢設定が十五~二十五歳であること。
※操縦者が十八歳未満の場合、保護者の許可が必須。 』
オーディションに応募する機会はこれまでも幾度か目にしてきた。だがどうしても一歩が踏み出せず、それらを見送ってきた。
今回はアンドロイドでの出場が条件となっている。自分の容姿に自信が無いのなら、自分の理想のアンドロイドを創り出せばいいのではないか。私は頭の中に浮かんだ案にハッと息を呑んだ。
数日後、帰宅した母に向かって切り出した。
「お母さん。私、モデルになりたい」
今までも自身の夢について幾度か口にしていた。その度に母は肯定も否定もせず曖昧な言葉を返していた。
しかしその時の私の声には、それまでと一線を画す覚悟が湛えられていた。母も娘の言葉の重きを感じ取ったのだろう。何も言わずにダイニングチェアに腰を下ろした。
母はオーディションの記事が映し出された端末の画面をじっと眺めていた。能面のような顔からはその胸中が察せられない。私は乾いた唇を舐めた。
「私はずっとモデルになりたかった。でも、自分に自信を持てなかった。だからいつも尻込みして、チャンスをふいにしてきた。その後で、やっぱり挑戦すれば良かった、もしかしたらって後悔するって分かってても。どうしても一歩を踏み出すのが怖かった」
自分には向いていないと言い訳して納得させようとした。
「だけど、何回後悔しても夢を諦めることはできなかった」
紙面に映る彼女たちはいつでも輝いて見えた。目を背けるには眩しすぎた。
「そんな時に見つけたのがこのオーディション。これなら、私でも自信を持って出られるんじゃないかって」
抵抗がなかったと言えば嘘になる。モデルになるための身体作りやトレーニングの努力を、自ら否定することになるからだ。それでも何もしないまま悩むのは嫌だった。また自分に言い訳するのが嫌だった。
「チャンスがあるなら、私は挑戦したい。だからお願い、お母さん」
しばらく沈黙が流れた後、母はふーっと長い息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
「そこまで言うのなら、挑戦してみなさい」
「お母さん……、ありがとう!」
私は涙ながらに母に抱き着いた。そんな私の頭を母は優しく撫でた。
母の許可を得た私は、早速オリジナルのNF創りに取り掛かった。具体的な理想像がすでにあったので苦戦することはなかった。むしろ変幻自在に外見を操れる自由度の高さに高揚感を抱いていた。
毎日欠かさず雑誌に目を通していた私が導き出した、衣装映えする顔立ちやスタイル。さらに勉強して蓄えた知識も存分に注いだ。母の助言も参考にしながら試行錯誤を繰り返し、二週間ほどで納得のいくモデルを完成させた。
初めて『九瀬輝莉』と鏡越しに対面した時、感動のあまり泣き出しそうになった。私の思い描いていた理想通りの人物がそこに存在していた。操縦を重ねる内に次第と親和性が高まる。自分で操作しているのだが、憧れの人と向き合っているようで、面映ゆさに襲われた。
現時点で満足してしまいそうになった自分を叱責する。まだ夢を叶えたのではないのだ、と私は気合を入れ直した。
一次審査の書類審査を通過すると、審査員と直接対面する二次審査、三次審査も驚くほど順調に駒を進めていった。次への挑戦権を獲得する度に、私の中にあった不安は自信へと変貌していった。
最終審査から五日後、メールボックスに結果が送られてきた。指が震えすぎて上手くメールが開けなかったのを今でも覚えている。
「……!」
こうして私は、ようやく夢へのスタートラインに立った。
―――
――
―
目を開ける。正真正銘、本物の瞼が上がったのだ。シェルは既に開口しており、肉体が外気に晒されていた。
シートから降りて立ち上がる。床の冷たさが両脚を突き抜けた。横たわっていたせいか軽い立ち眩みが襲う。NFは弊害こそ無いものの脳内に電気を誘発させるため、脳の疲労が著しい。それに今日は精神面でも擦り切れた気分である。
目眩が止むと、収納ボックスの前まで移動する。先程まで輝莉が身に付けていたものよりも小さいサイズの下着を、華奢な四肢に通す。
制服に着替え終えると持参していた手鏡で全身を映す。九瀬輝莉から、大木瑠奈に戻ったことを確かめる。そしてキャスケットを目深に被り、足早に部屋を出て行った。
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