こころはただ一つ
渡海
プロローグ
梅雨入りしてから一週間、ほぼ毎日、断続的に雨が振っていた。
『台風八号は現在、南の海上を北上しており、今日の午後七時には本州に上陸することが予想されています。気象庁によりますと、今日午前九時の時点で中心気圧は九一〇ヘクトパスカル、最大風速は五〇メートル、最大瞬間風速は六十八メートルで、北北西に向かって時速二十三キロで進んでいます。九州、四国、東海、関東では今朝から大雨、洪水警報が発令されており、一部地域では警戒レベル4が発令されています』
美姫の住む地域にも警戒レベル3が発令されており、朝から緊急速報メールが絶えず届いていた。
「
「きたー」
瑠奈はバサバサと音を立てて両手を振る。
普段なら瑠奈を保育園に送り届けている時間だが、今日は早々に休園が通達されていた。そのため美姫も今日は仕事を休んだ。どうせ交通機関も機能しなくなるだろうし会社も休みになるだろうが、一応電話を入れておいた。予想通り、出勤が難しい人が多いようで、会社全体の休みが告げられた。
テーブルの上に置いていた端末が振動する。また緊急速報メールかと思い端末を取り上げたが、今度は夫の
「もしもし、お父さん?」
「うん、そっちはどんな様子?」
電話口の新夜は少し声を張っていた。
「今、避難勧告が出てる。台風のルートを考えると、警戒レベル4が発令するのも時間の問題かも。ここ一帯の人たちも殆ど避難するらしいから、私も瑠奈を連れてもうすぐ出るつもり」
「それが良いと思う。こっちはまだ注意報しか出てないけど、予定を切り上げて早めに撤収することになった。午後には電車も止まる見込みらしくて足止めされるだろうから、明日中に帰るのは難しいかも」
新夜の後ろでは、誰かの大声や物がぶつかる音が聞こえ、慌ただしさが伝わってきた。
「分かった。気を付けてね」
「お母さんもね。瑠奈をよろしく」
新夜との通話を切ると、美姫はリュックを持ち上げた。
「瑠奈ー、傘持った?」
「もってるっ」
玄関にいた瑠奈は合羽のフードをすっぽりと被り、買ったばかりのオレンジ色の長靴を履いて準備万端の装備で待っていた。美姫も準備を整えると、瑠奈の手を取って家を出た。
家を出て間もなく降り出した雨は、移動中にもその勢いが増し、傘を打ち付ける雨粒の感触が両手に伝わるほどだった。風も強く、何度も傘の骨が嫌なしなりを見せた。瑠奈に至っては強風に煽られた傘に身体を持っていかれ、今にも吹き飛ばされそうだった。仕方なく瑠奈に傘を閉じさせ、美姫の傘に入れて身を寄せ合って歩を進めた。
からくも避難所である小学校に到着すると、すでに瑠奈と同じくらいの子を持つ親が大勢避難していた。
「大木さん、大丈夫だった? 今タオル持って来るね」
保育園の送迎でよく顔を合わせるサキちゃんのママが、体育館の入り口で水滴を落としている二人に気付いた。
「あ……ありがとうございます」
受け取ったタオルで瑠奈の顔を拭く。合羽のおかげで服はそこまで濡れていなかった。
「これからもっと雨足が強くなるそうよ」
「台風、近づいてますもんね」
美姫の言葉が合図になったように、体育館の窓ガラスが一斉に振動した。
大方の予報通り、台風は午後六時半頃に上陸した。外に聞こえるのはもはや雨の降る音ではなく、水が流れ落ちる音だった。
正午を回ったあたりで大雨特別警報が発令されていた。新夜の出張先付近にも警報に変わったと知った美姫は新夜に電話を掛けた。しかし呼び出し音が繰り返されるばかりだった。忙しそうにしていたし、落ち着いたら向こうからまた掛けてくるだろう。そう願って美姫は電話を切った。
灯りが消された避難所の中、不安で眠れない夜を過ごしていた。その横では瑠奈が熟睡している。他の子たちと遊んで疲れたのだろう。そう思っていたが、すぐに瑠奈の異変に気付いた。顔が赤らみ、呼吸が荒くなっていた。額に手を当てる。
「……熱い」
発熱していた。ここに来る道中に濡れたせいで風邪を引いたのかもしれない。着替えるほどではないだろうと、襟元が濡れた服のままで過ごさせていたことを後悔した。
美姫は瑠奈を抱えて急いで保健室に向かった。
風邪薬を服用した瑠奈を、保健室のベッドを借りて寝かせる。美姫も傍で見守っていたが、気付けば瑠奈の眠るベッドに突っ伏していた。
翌朝、ベッドから起き上がった美姫は瑠奈の寝顔を覗き込んだ。昨夜に比べると顔色は良くなっているが、体温を測るとまだ平熱までは下がっていなかった。
保健室の窓から空を仰ぐ。雨雲の色は薄く雨足もかなり弱まっていた。夜の内に台風は通り過ぎたらしい。解熱剤をくれた養護教諭から医者に連れて行った方がいいと助言され、美姫は近くの病院を目指すことにした。
荷物をまとめ、出発する前に端末を確認する。新夜からの着信履歴は無かった。瑠奈が体調を崩したことは昨日の内に連絡していたが、返信どころかその連絡さえ見ていないようだった。端末を確認する暇もないほど大変だったのだろうか。美姫の胸に不安ばかりが去来する。
――いや、今はやるべきことに集中しなきゃ。
美姫は不安を無理矢理振り解いた。何はともあれ、まずは瑠奈を病院に連れて行かなければ。
瑠奈をおんぶする美姫が外に出る頃には、雨はすっかり止んでいた。美姫の他にも荷物を抱えて避難所を後にする人達がまばらにいる。
「川の水位が上昇しているので河川に近づくのは危険です。絶対に近づかないでください」
役場の関係者なのか、ワイシャツにネクタイを締めて透明の合羽を着た男性が、避難所から出てきた人に向かって叫んでいた。
歩いていると、遠くの方から轟々と地鳴りのように響く音が聞こえた。先程の男性が言っていた、川の濁流の音のようだ。瑠奈を抱える両手に、美姫は力を入れ直した。
川に近づかないよう多少迂回したものの、それ以外は道路の冠水などもなく、すぐに病院に到着した。年季の入った建物の正面には、日焼けした文字で「耳鼻科・小児科」と書かれている。一番近い距離にあり、初めて訪れた病院だった。
「多分、夏風邪ですかね」
問診を終えると、白髪交じりの医者はそう呟き、慣れた手付きで検診を進めた。目を覚ました瑠奈は、状況に戸惑いながらも医者の受け答えに応じる。その様子を見て、美姫はようやく一息付けた気分になった。
ひとまず三日分の処方箋を渡されて、一日ぶりの家に帰ってきた。
帰り道では美姫の背中で元気そうに騒いでいた瑠奈だったが、布団に横になるなり、また眠り始めた。
瑠奈を寝かし付けた後、美姫は新夜に電話を掛けた。だがやはり新夜は出ない。呼び出し音が長引くほどに美姫の不安も募っていった。
とうとう、新夜とは繋がらなかった。
美姫は目を開けた。瑠奈の小さい手と、その手を握る自分の手が見えた。またしても眠りに落ちていたらしい。手から伝わるその温もりが、美姫に平穏をもたらす。と、その時、端末が鳴り響いた。心臓が大きく跳ね上がる。慌てて瑠奈の眠る部屋から出る。端末を確認すると新夜からの電話だった。
「もしもしっ」
やっと新夜と繋がった。まだ瑠奈を病院に連れて行ったことを連絡していなかったのを思い出す。
――心配してたかな。大丈夫そうだって伝えてあげないと……。
そう思ったのも束の間、電話口から聞こえてきたのは、新夜の穏やかな声色ではなく、抑揚のない若い女性の声だった。
「私、
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