14.4章 新型戦闘機2

 川西航空機は十五試水上戦闘機(N1K1)の開発を昭和15年(1940年)に受注した。正式受注の前から打診されていたので、川西は1年前から菊原技師を設計主任に任命して検討を開始していた。このため、十五試でありながら十四試艦戦(A7M1)とほぼ同じ日程で開発が進展することになった。十五試水戦は、三菱のMK6(後の新星)を搭載する予定だったので、期せずして単発機として開発時期も搭載したエンジンも十四試艦戦と同じになった。昭和16年(1941年)2月に試作機が完成すると、1年後の正式化を目指して試験が開始された。


 このまま順調に試験を消化できれば、遠からず十五試水戦は制式化されて量産が開始されるだろう。しかし、十五試水戦の初飛行前から、川西の経営陣は会社の将来をかなり悲観していた。当時、川西の工場で量産していたのは九七式飛行艇だけであり、十三試大艇(後の二式大艇)はまだ試験中だった。これに、十五試水戦の生産が加わっても水上機の生産数は知れている。要するに、大量生産する機体を保有していない川西が、いつまでも水上機に固執していては、経営不振に陥るのは自明だった。


 そこで、会社が生き残るために陸上機として爆撃機を開発するか、戦闘機にするかの検討が行われた。最終的には、主任技師である菊原技師の発言が決め手になった。彼は、十五試水戦の開発資産を生かせば、短期間で陸上戦闘機を実現できると主張したのだ。


 社内で開発方針が決まると、副社長の前原元中将が航空本部に開発計画をねじ込んだ。当時の航空本部の技術部長は多田少将だったが、かつては前原元中将の部下だった。短時間で航空本部が川西の戦闘機開発を承認したのは、元中将の人脈と無関係ではないだろう。昭和16年(1941年)9月には海軍内部で川西の戦闘機の開発可否に関する審議会が開催された。さっそく、翌月には航空本部から川西に試作許可が発出された。


 海軍の試作要求番号を付与されていないこの戦闘機は関係者の間では、仮称一号局戦(N1K1-J)と呼ばれていた。事前に海軍に説明した変更案に従って、川西は、陸上戦闘機とするために十五試水戦から浮舟を撤去して胴体下面を整形した。更に、主翼下面の構造を変更して主脚を追加すると共に胴体後部形状を変更して、尾輪を取り付けた。


 菊原技師は、エンジンについては、この時点でまだ試験が続いていた中島のNK9(後の誉)に変更することを決めていた。NK9は、確実に実用化できると決まってはいなかったので、表向きは、先々エンジンを十五試水戦の新星から変更する予定という表現をしていたが、本音は飛行可能なエンジンが入手できればすぐにも載せ替えるつもりだった。彼は、既存の局地戦闘機の性能を上回るためには、馬力増加が絶対に必要だと判断していた。それに伴って、先行して十五試水戦から機首回りはNK9の外形に合わせて再設計していた。プロペラもエンジンの出力増加に合わせて、4翅に変更する計画で設計を進めた。


 もともと十五試水戦の主翼は、翼表面の境界層をできるだけ長い区間で維持して、乱流状態の比率を減少させる翼断面を採用していた。層流状態の範囲が広くなれば、その部分の摩擦抵抗を小さくできるので、翼全体としての抗力を減少できる。菊原技師は、東京大学の研究成果であるLB翼と名づけられた層流翼を一号局戦でも引き続き採用した。


 更に、水上機は離着水時に飛び散る水しぶきが主翼に当たるのを避けるために、中翼形式を採用していた。胴体断面の中央部に翼を取り付けると、主翼取り付け部の干渉抵抗も減少できるのでその点でも都合がいい。これを、陸上戦闘機として一般的な低翼配置にすると胴体全体に及ぶ変更になってしまう。菊原技師は、再設計の範囲を増やさないために、中翼形式は変えないと決めた。これにより、主脚が長くなって、脚柱の長さを途中で短縮してから内側に引き込むというかなり複雑な機構が必要になったが、やむを得ないと割り切っていた。


 ……


 昭和16年(1941年)12月までは、一号局戦の設計は順調に進んでいた。搭載を決めていたNK9も、試験が進んでほぼ成功が確実視できるようになった。しかし、大型計算機を用いて、機体の空力特性を確認した結果、大きな問題が発覚した。大迎角になると、水平きりもみに陥る傾向があること、しかも一度その状態になると回復が困難であることがわかってきた。空技廠では、他の機種でも発生したこの現象を不意自転と呼んでいた。例えば、九九式艦爆では試作機でこの悪癖が発生して、解決までに長期間を要した。零戦も初期の設計では、この傾向があると判明して、試作3号機から尾部を再設計して水平尾翼取り付け位置を変更することになった。一号局戦にとっては、試作機を作成する前の設計途中で見つかったのは不幸中の幸いだった。しかし、空戦を主任務とする戦闘機にとっては、機動が大きく制限されるという致命的な欠点なので、根本的に解消しなければならない。


 一号局戦の問題の原因は、仰角を大きくすると、中央部が膨らんだ胴体と中翼配置の主翼により胴体後半部への気流が乱れることにあった。水平尾翼の位置が悪いことも重なって、垂直尾翼への乱流が増加した。乱流により垂直尾翼が失速気味になって、方向安定を維持できなくなると同時に尾部に振動を発生させた。菊原技師は、計算機の演算結果を確認して、水平尾翼の取り付け位置の変更と垂直尾翼の面積を増やすだけでは、完全な問題解決は不可能だと判断した。


 彼は前原副社長にこの問題を解決するための変更を説明していた。再設計により、開発日程も変わるので海軍の了承が必要になるはずだ。前原副社長が交渉すれば、円滑に了解が取れるだろう。

「空力的な特性を根本から改善するために、胴体中央部の再設計も含めて主翼を低翼形式に変更することを決めました。これに伴い主脚も単純な内側への引き込み脚となります。きりもみ特性を更に改善するために、電子計算機の計算と風洞試験の結果に応じて垂直尾翼形状と水平尾翼の取り付け位置も変更します」


「変更については了解した。このまま欠点のある機体を開発しても採用は望めないだろう。私の願いは、欠陥の解消を含めて改良型の設計が進んでいる烈風に性能で負けることがないようにしてくれということだ。あちらは、エンジンを変更した後は、かなり性能が向上したと聞いているぞ」


 これから開発する戦闘機が、先行している性能改善型の烈風よりも劣っていれば、採用の可能性はなくなる。前原副社長の人間関係を活用しても低性能ではどうしようもない。


「2,000馬力超えのエンジンを烈風も搭載するとのことですので、空力的な優劣で勝負が決まります。我々は一回り小さな機体と層流翼の採用により抗力を減少させます」


 ある程度設計が進んでいた一号局戦は、大幅な変更をすることになった。モックアップまで作成して、機体の外形も出来上がっていたが低翼化した機体を再度設計するはめになった。


 後戻りで開発期間は伸びてしまったが、きりもみの悪癖を完全に除去できて、複雑な引き込み脚も単純な形式に修正できた。更に低翼化による胴体の変更に伴って、胴体幅も思い切って細く変えていた。十五試水戦では、胴体の中央部を膨らませて、層流翼同様に形状抵抗を削減することを優先した。しかし、計算機による気流の分析が進むとプロペラ後流は収縮流となっており、胴体の表面積を減少させた方が抗力は減少することがわかってきた。形状抵抗よりも機体表面の摩擦抵抗の削減が必要なことを計算の結果が示していた。


 そこで思い切って、設計変更を機に長楕円系の幅の細い胴体形状に変更したわけだ。再設計に伴って、加工や組み立てが困難な部分に生産容易化の変更も折り込むことができた。今まで小型の単発機の製造経験の少ない川西航空機にとって、最初の機体はまだ生産の容易化までの配慮が足りなかった。設計変更時に、製造に工数を要する部品や組み立て法を改善したのだ。


 いくつかの懸念点を根本的に改善できて、菊原技師は大幅変更が結果的に成功だったと考えていた。昭和17年8月には1号機が完成して試験が始まった。一号局戦にとって幸運だったのは烈風がNK9を搭載して試験を実施していたことだ。飛行試験を開始しても誉エンジンに対する不具合はほとんど発生しなかった。


 順調に試験を消化している途中で、航空本部からの新たな要求を前原副社長が受けてきた。

「技術部長名の要求だ。今後開発する局地戦闘機は全て、高高度での戦闘を可能とせよとのことだ。一号局戦にも中島で開発が進んでいる排気タービン装備のNK9を搭載するように指示されている。まあ、私も高高度戦闘機が我が国に必要なことは同意するが、ちょっと要求が急すぎるな」


「欧州では、ロンドンからドイツ本土に向けて四発爆撃機による大規模な空襲が始まっています。米軍のB-17やB-24は排気タービンを備えて、高高度から爆撃しています。これと無関係ではないでしょう」


「なるほど欧州の戦況が影響しているのか。部長が要求するということは、かなり強い申し入れだと解釈できる。このような状況では、排気タービンを実用化できなければ、この機体は採用されないぞ。逆にそれで高性能になれば、基地航空隊で広く使われることになるだろう」


 海軍航空本部空の要求を受けて、昭和17年9月から、川西では排気タービンを追加した機体の設計を最優先で開発を進めた。菊原技師が参考にしたのは、リパブリック社のP-43ランサーだった。必ずしも高性能な戦闘機ではなかったが、空冷エンジンの単発機でしかも米国外にも輸出されていて、情報の入手が可能だったからだ。


 排気タービンは、P-43の搭載法を参考にして、主翼後端と胴体が交差するあたり胴体下面に設置することにした。エンジンや各種装備が搭載されている防火壁よりも前方の機首には、排気タービンを搭載できる余地がないのも理由の一つだ。胴体下部の配置でも、胴体内の後部燃料タンクを小型化する必要があるが、この部分しか搭載可能なところがない。その代わりに主翼外翼部に燃料タンクを増設して、容量を確保することになった。


 排気タービンの場所が決まると、機首のエンジンから胴体の下面を膨らませて、排気ガスと過給空気の通るパイプを設置した。また排気ガスタービンの前方にタービンで加圧して温度上昇した空気を冷却するための空冷式ラジエターを追加した。ラジエターを冷やすための空気は左右の胴体側面から取り入れて、胴体後部から排気した。排気タービン搭載型の局地戦闘機は一号局戦改(N1K2-J)と飛ばれることになった。


 早期に試験を消化するために、既に完成していた一号局戦の試作5号機を改修して、排気タービン試験機とした。約半年の試験を経て、最終的に昭和18年2月になって排気タービン搭載機の試験が完了した。


 海軍としては排気タービンを搭載しない従来型の一号局戦も制式化して整備を進める一方で、一号局戦改の整備も行う方針とした。


 制式化時の名称は、一号局戦の機体を紫電11型として、排気タービン搭載型の一号局戦改は紫電22型と命名された。しかし、一般には、従来型の一号局戦が紫電と呼ばれたのに対して、排気タービン搭載の一号局戦改は紫電改と呼ばれることになった。


 紫電11型 (N1K1-J)

 ・全幅:12.0m

 ・全長:9.3m

 ・全高:3.96m

 ・翼面積:23.5㎡

 ・自重:2.660kg

 ・正規全備重量:3,980kg

 ・発動機:誉22型、離昇2,150hp(1段2速過給機)

 ・プロペラ:3.3m 4翅プロペラ

 ・最高速度:374ノット(693km/h) 6,300mにて

 ・上昇力:6,000mまで4分59秒

 ・武装:翼内:20mm機銃4挺(携行弾数各250発)

 ・爆装:6番(60kg)×4または25番(250kg)×2


 紫電22型 (N1K2-J、通称紫電改)

 ・全幅:12.0m

 ・全長:9.4m

 ・全高:4.02m

 ・翼面積:23.5㎡

 ・自重:2.980kg

 ・正規全備重量:4,250kg

 ・発動機:誉32型(ハ45-32ル)、1,820hp(9,500m、2段2速排気タービン過給機)

 ・プロペラ:3.45m 4翅プロペラ

 ・最高速度:382ノット(707km/h) 9,000mにて

 ・上昇力:6,000mまで4分59秒

 ・武装:翼内:20mm機銃4挺(携行弾数各250発)

 ・爆装:6番(60kg)×4または25番(250kg)×2


 ……


 昭和17年になって、排気タービン付きのNK6C(新星32型)が飛行試験を開始すると、当然のように新星を搭載していた雷電に新型エンジンを搭載することになった。排気タービン搭載のために、通常型雷電のカウリング直後の胴体を約20cm延長して場所を確保した。排気タービン過給器は、エンジン後方の胴体右側に取り付けられた。これに伴いエンジン後方の滑油タンクと冷却器は機首下面へと移された。なお、搭載場所に余裕がないことから過給した空気を冷やす中間冷却器は省略された。しかし、過給空気の温度が高いままでは高高度でのエンジンの効率が低下するので、過給器で圧縮された空気に水メタノールを噴射して温度を下げることとした。このため、20分程度の全開運転で、水メタノールタンクが空になると高空でのエンジン出力が著しく低下することになる。それでも、実戦での戦闘時間を考えると有効だとの判断により雷電33型として採用が決まった。


 雷電33型(J2M4) 昭和17年11月

 ・全幅:10.0m

 ・全長:9.05m

 ・全高:3.14m

 ・翼面積:17.00㎡

 ・自重:2,510kg

 ・全備重量:3,250kg

 ・発動機:新星32型 1,550hp(9,000m、2段2速排気タービン過給器)

 ・プロペラ:ハミルトン定速4翅、直径:3.25m

 ・最高速度:362ノット(670m/h) 8,600mにて

 ・武装:固定20mm×4

 ・爆装:爆弾60kg×2(翼下)または、両翼下に増槽


 ……


 雷電とほぼ同時期に排気タービンを備えて、同等の性能向上を達成した戦闘機がある。陸軍の鍾馗だ。機体を雷電と共用化していた鍾馗も同様の変更で性能は向上した。排気タービンを搭載して高高度を飛来する米軍爆撃機は陸軍にとっても大きな懸念だった。そのため、陸軍も即座に一式単座戦闘機鍾馗Ⅲ(キ44-Ⅲ)として採用した。雷電とは細かな艤装品や機銃倉しか違いがないので、当然、性能も海軍機と同程度だった。しかし、キ44-Ⅲが数多く生産されることはなかった。やや遅れて登場した、川崎の開発した機体がより優れた高空性能を発揮したからだ。


 ……


 川崎飛行機は、もともと愛知時計と共にドイツのDB605を国産化したハ40を生産していた。これは海軍ではアツタ20型として、彗星に搭載したエンジンだった。陸軍はこの液冷エンジンの国産化が始まると、昭和15年初頭に液冷エンジンを搭載した重戦と軽戦の2種類の戦闘機を計画した。陸軍航空本部が開発を指示したのは、今までも液冷機を開発してきた川崎航空機だ。


 設計主務の土井技師は似た形状で主翼面積の異なる2種類の戦闘機設計を始めた。試作番号も重戦がキ60、軽戦がキ61と決まって、並行して設計が始まった。これらの2機種が搭載するエンジンは、ハ-40だったが、初期の試作機には輸入したDB601を搭載して試験することを決めていた。馬力が向上したDB605が飛行可能となり次第、エンジンを交換するという計画だ。海軍の十三試艦爆がとったのと同じ手法を川崎も採用した。


 昭和15年末になると、設計が進捗して、計算機による性能推定が可能になった。


 開発実務を担当していた大和田技師が土井主務のところに計算結果を説明していた。

「計算機の答えは、我々が考えていたほどには、キ60が優速ではありません。現状の計算を信じると、最大速度で10km/hほど速いだけです。もちろん、旋回性能や上昇力は主翼のアスペクト比を大きくとって、面積を増やしたキ61の方が優れています」


「これでは、主翼を多少小さくしても意味がないな。今後はキ60の開発を中止する。その分、キ61に注力して開発を加速するぞ」


「キ60を中断することは賛成ですが、今後は、我が社としては軽戦を選択して開発することになります。良いですか?」


「いいや、私はそもそも戦闘機を翼面荷重で重戦や軽戦に分類する意味はないと考えていた。そんな区分とは関係なく優秀な戦闘機を開発すればよいのだ。軍から聞かれたならば、キ61は重戦でも軽戦でもない中戦だと答えればよい」


 計算機による検証が進展して、大きく手を入れたのが胴体下に設置した、滑油と冷却水のラジエターだった。当初は、主翼後端近くに冷却器を取り付けて、長方形の取り入れ口を主翼の補助桁あたりに開口していた。計算機により冷却機の前後での気流の流れ方や胴体下面の層流の状態が判明した。この結果に基づいて、カバーを含めた冷却器全体の構造と形状を決めていった。


 空気取り入れ口を、数十cm前進させて冷却器までの流路の断面積を連続的に拡大した。それにより、ラジエター前面での空気の流速を低下させ冷却効率を改善させた。更に取り入れ口を胴体下面の境界層を避けるように下面から30mm浮かせた。冷却器後方では再び流路を絞り込んで、温度が上昇して速度が増した空気が後方に吐き出す形態とした。


 大和田技師は、計算機出力を見ながら、冷却器の改善効果を説明していた。

「この冷却器は素晴らしいですよ。ラジエターを冷やして、温度が上昇した空気は熱膨張して、後方での流路の絞り込みにより流速が上がって排気口から吹き出します。エンジン全開時には、温度は結構上昇するはずですから、吹き出す空気は若干ですが推力を生み出すことになります。もちろん、機体を加速させるだけの推力ではありません。しかし、それだけ機体の空気抵抗が減少するとみなせます」


「それが事実ならば、我々は画期的な構成のラジエターを発明したことになるな。計算の結果がどこまで実機と一致するか確認しよう」


 キ61の試作1号機は、ドイツ製のDB601を搭載して、昭和16年1月から試験飛行を開始した。冷却機も含めて、機体の抵抗がかなり小さいことが試作機の試験で明らかになってきた。3機の試作機を使って4カ月間試験を続けてきたが、5月にはキ61に搭載できるハ40が川崎の工場で完成した。


 キ61担当の大和田技師が、土井主務のところにやってきた。

「新型のエンジンが飛行可能になりました。離昇で1,600馬力は出ています」


「これでこの機体本来の性能を評価できるな。今まで機体の旋回性能や失速特性のはかなり試験してきたから、エンジン全開の確認ができたら、速度や上昇力の試験をすぐにも始めよう」


 増加試作として、丁寧に作られたハ40はドイツのエンジンとほとんど同等の性能を発揮した。そのおかげで、キ61の試験も順調に進んだ。なにしろ機体自身の飛行試験はDB601を搭載して実施済みなのだ。最終的に、キ61は二式戦闘機飛燕Ⅰ型として採用された。


 飛燕Ⅰ(キ61-Ⅰ) 昭和17年2月

 ・全幅:12.5m

 ・全長:8.8m

 ・全高:3.7m

 ・翼面積:21.0㎡

 ・自重:2,560kg

 ・全備重量:3,480kg

 ・発動機:ハ40Ⅰ 1,600hp(離昇、1段無段階変速)

 ・プロペラ:ハミルトン定速3翅、直径:3.2m

 ・最高速度:632m/h 5,200mにて

 ・武装:固定13mm×4

 ・爆装:両翼下に増槽、爆弾100kg×2


 中島と三菱の排気タービン付き発動機の開発を川崎航空機も座視していたわけではなかった。昭和16年になると、すぐにハ40の高空性能を向上させるための研究に着手した。もちろん川崎だけで大手の中島や三菱と同程度の研究開発ができるわけではない。


 何とか良い案がないものか、川崎発動機部の小口課長は林技師を呼んで対策について相談していた。

「我々が今から排気タービン付きのエンジンを開発しても、かなり時間がかかるだろう。もう少し開発の難度の低いやり方を選択したい」


「英国のロールスロイスなどは液冷エンジンの過給機として、機械式の2段過給器を開発しているようです。ギヤによる歯車駆動とすれば、構造的に現状の1段過給器の延長上であり、高度な技術を要する排気タービンも不要です。過給器駆動のために離昇馬力は若干減少しますが、高空で出力を増加できるならばそれも許容されるでしょう」


「その機械駆動の過給器を採用するとして、高空性能は十分なのかね?」


「過給により圧縮した空気が高温のままでは、エンジンの熱効率が低下します。高空で出力を低下させないためには、効果的に空気を冷やしてやる必要があります。幸い我々は、温度を下げるためにエンジンの冷却水を使用可能です。エンジン本体に加えて過給した空気も水冷により冷却するのです。合わせて過給器の周囲にも水を循環させて温度を下げます。これらの、過給空気の中間冷却機構はエンジン後部に追加します。我々はドイツ空軍と異なってプロペラ軸内に武装をしませんので、エンジン後方の空間を空けておく必要はありません」


 林技師の提案した方法に従って、改善型のエンジン開発が始まった。ハ140と名づけられたエンジンへの設計変更は、過給器と水冷部分に集中したので短期間で試作機が完成した。エンジンの左型の過給器がやや大きくなって膨らむことになった。機体側で機首を上手く整形するように変更する必要がある。


 ダイムラーベンツエンジンの特徴だった油圧式のトルクコンバータを利用した過給器の無段階変速機構は、設計変更せずに利用することになった。日本では、フルカン継手と呼ばれるこの機構は過給器の効果によりエンジン出力が増加する複数のピークの間をなだらかに結ぶ効果がある。


 昭和17年が明けると、ハ40を改修したハ140の原型機を搭載してキ61Ⅱの試験が始まった。機体としては、機首以外にも改修が必要だった。水冷によりエンジンに加えて過給空気の冷却が必要になったので冷却器の容量増加が必要になった。水冷機が高高度を飛行するためには、高空の薄い空気での冷却が要求される。これも更に冷却器が大型化する要因になった。逆に水冷用のラジエターを大型化すればエンジンを冷やせるので、シリンダの空冷ひれの面積をむやみに増やせない空冷エンジンよりも高空での冷却は有利になるはずだ。


 2段過給器が効果を発するようになると、高高度では従来型キ61から100km/h以上速度が改善していることがわかった。高度10,000m以上では、アップアップだった機体が、高度10,000mでも余裕で編隊空戦が可能になったのだ。


 大きく性能が向上したキ61-Ⅱ型は、昭和18年3月には審査を完了して陸軍で制式化された。


 飛燕Ⅱ(キ61-Ⅱ) 昭和18年3月

 ・全幅:12.5m

 ・全長:8.8m

 ・全高:3.7m

 ・翼面積:21.0㎡

 ・自重:2,760kg

 ・全備重量:3,680kg

 ・発動機:ハ140 1,480hp(離昇、2段無段階変速)

 ・プロペラ:ハミルトン定速4翅、直径:3.3m

 ・最高速度:703m/h 8,900mにて

 ・武装:固定13mm×2、20mm×2

 ・爆装:両翼下に増槽、爆弾100~250kg×2

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