1.6章 パラメトロン計算機

 翌週になって五反田の電気試験所を訪問すると、数人の科学者が出迎えてくれた。フェライトの見学時に会っている武井武博士もその中の一人だ。真田大佐がさっそく出迎えの人々に挨拶をする。


「今日は、新型の計算機を見学させてもらいにやってきました。我軍にとっても高速の計算機は利用価値が大いにあります。まずはどのような装置なのか、ご説明願います」


「間違いなく、新型計算機は皆さんのお仕事に役立てられると確信していますよ。我々はこの電子式の計算機をパラメトロン計算機と呼んでいます」


 武井博士が指さした先には、大きな本棚のような電子機器の棚が2つ立っていた。棚の中には、本の代わりに多数の基板を垂直に立てて差し込んでいた。各々のベークライト基板には多数の電子部品が取り付けられているようだ。前回、武井博士に見せてもらったのと同じような基板だとすると、数十程度の部品が搭載されているのだろう。電子棚の裏側へと回って背面を見てみると、蜘蛛の巣というよりももっと糸の密度の高い配線がびっしりと覆っていた。まるできめの粗い全面刺繍のようだ。よく見ると2種類の配線がある。回路接続の一部を構成する糸のような細線が大部分だが、もっと太い電線をコネクタにより接続した配線がある。太めの電線も細線よりも桁違いに少ないとはいえ数百本以上はある。


 通信分野の機器開発にも携わってたことのある望月少佐は、これに似た機器を見たことがあった。

「一見すると、電話の自動交換機のように見えますが、それよりももっと高密度に部品が搭載されていますね。回路接続をしている二種類の配線は、何か理由があるのですね」


「さすがですね。構造的には電話交換機に似ている部分があります。但し、交換機では機械式のリレーにより信号路の開閉を行いますが、この装置ではフェライト磁石を利用したパラメトロン素子が電気的に信号処理をしています。実は後面のように見える配線がびっしりされている側がこの装置の前面なのです。二種類の配線の理由は、細線は回路間の接続ですが、太い線はコネクタ接続で着脱可能にして変更を可能とする配線です。計算式を変更する場合にはどうしても一部の配線を変える必要が出てくるので、配線側を前面にして演算回路間の接続変更が容易となるようにしているのです」


 20代の若い技師が説明を始めた。名前を聞くと、海野陸郎という帝大理学部を卒業したばかりの若い技術者とのことだ。驚くべきことに、もともとこの計算機の基本となっているパラメトロン素子は海野技師が一人で発案したとのことだ。


 ……


 海野技師からは、パラメトロン素子の原理とそれを利用した計算についての説明が行われた。資料も準備してくれていて、パラメトロン素子の原理も含めて以下の様なことを説明してくれた。


 パラメトロンは1つの素子が、中央に穴の開いたリング形状に成型した強磁性体のフェライトに複数本の電線を巻き付けた構造となっている。この素子は巻き付けた第一の電線に回路的に決められた周波数の交流電流を流すと、その2分の1の周波数で共振状態となる。しかも入力がなくなった後もその状態を保持できる。加えて、この共振状態には信号の位相が180度反転した2つの状態が存在する。この2つの位相を0と1に定義すると、1桁の2進数を1つのパラメトロン素子が処理できることになる。


 フェライトリングに4本の信号線をコイル状に巻き付けておいて、その3本線から3つの交流信号をパラメトロン素子に入力すると、その素子の共振状態は3つのうちの数の多い位相状態に一致するように変わって残りの1つの信号線からその結果を交流信号として出力できる。すなわち3入力に対して多数決演算が可能となる。


 多数決演算ができると、パラメトロン素子へのA、B、Cの3入力に対して、Cの入力を0固定とすると、AとBの両方が1以外の場合は全て0ということになる。これはAとBの論理積(AND演算)を計算したことになる。同様にCを1に固定するとAとBの両方が0以外は、結果が1となる。これはAとBの倫理和(OR演算)の計算をすることに相当する。


 加えて、0と1の関係は180度位相が異なる交流信号なので、信号の極性を逆転(+と-の反転)させれば、論理否定(NOT)の出力を得られる。


 以上のような基本的な演算が可能になれば、それを組み合わせることにより2進数の四則演算が可能だ。更に、パラメトロン素子は、フェライトリングに巻きつけた信号線への入力信号がなくなっても共振状態を持続できるので、0または1のいずれかの情報を記憶しておくことが可能だ。計算のための入力値や出力値を記憶可能なのだ。


 海野技師に続いて、中年の技師が説明を引き継いだ。

「日本電気の中嶋といいます。パラメトロン素子を利用して計算するためには、まず計算すべき複雑な式を2進の単純な式の組み合わせに展開する必要があります。更に2進数の演算式をパラメトロン素子の回路接続に変換して、配線を式に合わせて変更する必要があります」


 2進演算の数学的な理論については、中嶋技師が世界に先駆けて1935年から研究していたとのことだ。海外では、ブール代数と呼ばれている数学の分野だ。


「2進数の数学的理論を進歩させて、代数表現された計算式から2進の演算回路への変換方法も最近になって確立してきました。これによりパラメトロン素子を利用した演算回路の実現が容易になったのです」


 ……


 一通り説明が終わったので、見学の引率役のようになっていた真田大佐は最も気になっていた演算性能について質問した。

「それでこの装置の、計算性能はどの程度なのですか? 機械式計算機よりもかなり高速だというのは容易に想像ができますが、どこまで速くなっているのか教えてください」


 発明者の海野技師が答える。

「この試作機は2進数表現で16桁(16ビット)の数字を計算するように設計されています。乗算であれば毎秒10回以上の計算が可能です。加減算であれば、その10倍の計算ができます」


「加減算で3ミリ秒程度、乗除算で数十ミリから百ミリ秒で演算できるということですか。機械式の計算機に比べれば桁違いですね」


「現状は実験機なので、計算機としての演算部分の回路規模が不十分で、動作速度も安定性を優先しています。しかし、この試作機の10倍くらいの速度で計算をする装置はすぐにでも実現できますよ。それに装置は大きくなりますが、演算の桁数も計算の目的に合わせて、2進の32桁のようにもっと多くすることも簡単にできます。この実験機から2倍以上の規模に拡大すれば、いろいろな用途に使えると思います」


 望月少佐が続けて質問する。

「この計算機はかなり多くのリング状のフェライトを使っているようですね。見たところ一つの基板上に数十個は搭載しているように見えます。このような小型の部品を多数生産することは可能になっているのですか?」


 フェライトについては、武井博士から解説があった。

「パラメトロンで使用するフェライトは、皆さんが見学した東京電気化学工業で生産をすることになります。パラメトロン素子が共振を維持するためには亜鉛を含むフェライトが適しているとわかっています。東京電気化学で生産準備中のフェライトの中に亜鉛を含有するフェライトも含まれています。今の工場の設備にもう少し金をかければ、もっと直径の小さな数ミリのフェライトも充分製造可能です。そうなれば、この計算機はもっと高密度で小型、高速にすることができますよ」


 我々は、実際の計算動作を確認すると、間違いなく計算が実行されることがわかった。見学が終わると、私たちはわき目も振らずに技術研究所に戻ってきた。

「望月君、あれはとんでもなく重要な発明だぞ。今の手回し計算機を使っているような分野では、すべての計算時間が桁違いに短くなるはずだ。今まで何日もかかっていたような計算が1時間以下で終わるようになる。海軍が時間をかけてやっている弾道計算の大幅な時間短縮が可能だ。しかも、弾道などとケチなことは言わず、もっと広い分野で使える計算機になるはずだ」


 ……


 研究所に戻ると真田大佐は一服することもなく、パラメトロン計算機の構成と有効性を説明する資料の作成にとりかかった。もちろん望月少佐と私も資料作成を手伝うように指示された。

「筧君、計算機の構成については理解できたかね? 想像が含まれていても構わないから計算機全体の構造を説明する部分を記載してくれ。望月君はパラメトロン素子の説明だ」


 出来上がった書類を持参して、電気研究部長の向山少将にパラメトロン計算機の開発にすぐにも着手すべきとの強い要求を行った。すぐに所長の日高中将のところにも出向いて要求する。気迫に押されて中将は計算機開発に使える予算を認めてくれた。電気部長は、電探開発のように計算機専門の組織を作るとまでは言わなかったが、試作機を海軍で購入することは許可してくれた。


 部長から肯定的な返事をもらうと、望月少佐は、まだ予算を充当する手続きも完了していないうちから、武井博士や海野技師に連絡して、パラメトロン計算機の試作機を購入することを打診した。真田大佐は自分の裁量の範囲で、機器の購入額に加えて開発に必要となる費用も査定して発注した。海軍から資金が出たということで、逓信省や民間企業の援助だけで開発してきた計算機の短期での改良が可能になった。既に雛形となる第1号機が動作していたので、昭和13年(1938年)10月には数値演算が2進数で32桁(32ビット)まで実行できる改良型計算機が完成して、そのうちの1台が海軍技術研究所に納入された。


 性能改善したパラメトロン計算機が半年程度で完成したのだ。この改良型は、回路の改善と基板へのフェライトリングの搭載密度の増加により、収納棚の大きさは1号機とほぼ同一なのに計算の桁数と情報の記憶容量が倍増している。動作周波数も増加して、計算時間については乗算が5ミリ秒まで短縮されていた。


 計算機を使った評価については、行きがかり上、計算機の推進役になってしまった望月少佐が面倒を見ることになった。担当士官が決まっても、技研内では圧倒的にそれを動かす人員が不足していた。そこで、パラメトロン計算機の見学時から関係していた私も評価を手伝う羽目になった。


 私は若手技手から数人を試運転のために集めてきた。望月少佐は何度も逓信省の海野技師の所に足を運んで、運転方法の指導を受けてきていた。とりあえず、簡単な計算をさせてみることになった。望月少佐がノートを見ながら、私たちにケーブルを繋いだり、スイッチを投入しろというような指示を始めた。


 一通り準備が完了すると、望月技師がぎこちない手つきで計算機に接続した電動タイプライターから数字を打ち込むと、すぐにもう一台のタイプライターが数字を打ち出した。


 目的とした演算結果が打ち出されたので、周囲から、小さく歓声が上がる。

「お、おーっ」


 続けていろいろ計算させてみると、人間が直接数字を入力していたのでは、計算速度の足を引っ張っていることがすぐにわかった。試作機には計算のための入力と出力のために、それぞれ専用の電動タイプライターが接続されていたが、いちいち数字を入力するには時間がかかる。せっかくの高速計算機も入力が遅くては宝の持ち腐れだ。


 これについては、電信の知識を有していた望月少佐が改善方法を思いついた。

「現状の入力機器は電動タイプライターだが、これをテレックス通信で使用されている、穴あきテープ付きのタイプライターに置き換えればいいんじゃないか。あらかじめ複数人で入力すべき数値を穿孔したテープをいくつか準備しておいて、計算機が稼働したら一気にテープを読み込ませる。この計算機ならば、テープの読み取り速度よりも計算の方が十倍以上は速いはずだ」


 なるほど、私も望月少佐の発想に賛成した。

「いい考えだと思います。穴あけテープから入力ができるならば、計算結果も紙テープで出力することも可能でしょう。紙テープで計算結果を出力できれば、演算が複数回に分割される場合に、出力テープを次の計算に入力として使えます」


 海野技師たちの協力も得て、技研に設置したパラメトロン計算機は、すぐに電動タイプライターを紙テープ付きのタイプライターに変更した。


 実際の計算については徐々に複雑な演算実験へと移行していった。なるほど計算速度が画期的に速いため、従来の手回し式の歯車計算機を使うと1週間を擁した計算が数十分以下で終了する。しかし、海軍が希望していた砲弾の弾道計算に関しては、計算式が複雑なために、偏微分方程式を複数個の計算式に分ける必要があることがわかった。


 私が想定した通り、複数種類の計算式に分割した後に、前の演算で得られた結果を入力として、順送りに計算してゆくことになり、紙テープの入出力装置の効果が証明された。


 しかし、計算式を複数に分割した場合には、分割した式に応じて演算部の接続変えが必要になる。これは計算機の知識を有する技師の人手による変更なので、それなりに時間を要する。しかも配線を間違える可能性もあるので、作業後に計算が目的通りに実行されるか、検証する手順が必要になる。


 それでも、手間はかかるが大きな目標の一つだった、弾道計算にもパラメトロン計算機が実際に使用できることが実証できた。


 真田大佐も結果を認めてくれた。

「想定よりも、早く計算機を完成できたな。あちこちの部門から複雑な計算が可能であれば、使ってみたいとの要望も出始めているぞ。これからは全然違う分野の計算にも対応できる柔軟性が必要になるだろう。それと実用的に使えるとなると、計算を高速化したいという分野はいくつもあるだろう。もっとたくさん計算機を製造することも考える必要があるな」


 すぐに望月技師が、分割した式により弾道計算を実行する場合を想定して答えた。

「まあ、計算性能が向上して応用の範囲が広がるのはいいのですが、複数の種類の計算式への変更に対して、もう少し柔軟に使えないかと考えているのです」


「どういうことかね?」


「例えば、ピアノのような楽器だったら、演奏者と楽譜さえ違うものに変えたらいろいろな楽曲を演奏できますよね。ところがこの計算機は、計算式が変わったら演算部の一部分を専門家が配線を変える必要があります。もう少し簡単にいろいろな仕事をさせるようにできないかなと考えているのです」


「楽器で言えば、自動演奏ということか。確かに自動演奏のオルガンなどは、演奏用のロールさえ準備すればいろいろな曲を演奏できるからな。それは理想形ではあるが、それを実現するには計算機の構造を根本的に見直す必要があるだろう」


 私は生産に関して、逓信省の意見を聞いていた。

「我々と逓信省の間で、民間企業にこの計算機の生産を依頼する件に関して、ちょうど話題になっています。棚のような構造の中に多数のパラメトロンを搭載した基板を格納して、それら相互を複雑に結線するという全体の構成は大型の電話交換機に似ています。更に、リレーの開閉を2進数の処理と考えれば、2進数を扱う電子機器という観点でも交換機の構造と類似性があります。それで、交換機を生産している企業に製造してもらうように声を掛けたいと思っているのですがよろしいでしょうか?」


「私としては、一定程度の機密扱いをするという前提だが、その方向でいいと思う。但し、民間企業に対して生産の依頼をするとなると、我々だけで決めるわけにいかないから、所長に案として上げてみるよ。軍令部や艦政本部にも所長から打診をするだろうが、とりあえず弾道計算機ということにしておけば、異論は出ないだろう」


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