第1章 日本の電子技術

1.1章 日本の工業化

 現代では中部鉄鉱山で知られる地域において、良質な砂鉄が採れることは既に鎌倉期から知られていた。多くの刀匠が良質な砂鉄を求めて深山に入っていった。限られた刀匠のみにしか加工できないような玉鋼が求められたのは、硬度の高い刃の作成が可能だったからだ。加工が難しいが良質な鋼材を利用して、歴史に残る多くの名刀が作られてきた。


 明治になって、我が国にも近代工業化の波が訪れると、この鉱脈から産出される鉄の含有量が高い鉄鉱石は、世界的にも質が良いことがわかってきた。高品位の鉄鉱石が、我が国の輸出品として外貨の稼ぎ頭になるのにそれほど時間はかからなかった。


 すぐに、明治政府はもうけを増やすために輸出品を鉄鉱石から鋼材へと変えてゆくことを考えた。付加価値のある製品を輸出できれば、それだけ利益も大きくなる。政府の音頭取りで、製鉄所が日本各地に建設された。橋や鉄道、建築物に使用できる各種鉄材が日本の輸出品に加わった。


 鉄材の次は、各種の金属加工品の生産だ。当然だが、鋼材よりも加工すればそれだけ価格は高くできる。もともと刀剣、鉄砲、農具の製造に対して、日本は独自の鉄製品の加工技術を有していた。明治中期までは、輸入に頼っていた機械製品もすぐに国内で生産が可能となった。鉱山の周辺に生まれた機械加工をなりわいとする企業は、その製品をどんどん付加価値の高い製品へと変えていった。


 日本の産業構造の変化に対して、製品を買ってくれるお客も増えていった。特にアジアに植民地を有する国は、現地の近くで安価に調達できるならば、質には多少目をつぶってもよいと考えた。植民地経営のために必要な資材の中には、欧州の本国からはるばる運ぶよりも、距離の近い日本から購入できる物資がかなりあった。しかも日本から買えば、資材自身の価格も安価なのだ。加えて輸送費も格段に安くできる。鉄道や橋梁、建物の建設資材から始まって各種の日用品まで、日本から輸入する物資の種類はどんどん増えていった。あまり細かいことを言わなければ、母国で生産した製品を運ぶくらいならば、日本産で間に合うものはたくさんあった。植民地への様々な物品の輸出が日本の経済を支えることになった。


 明治末期には、日本の輸出産業は、鋼材と金属製品が繊維を追い抜いて首位になった。特に日本人の手先の器用さを生かした精密加工品は、欧米でも徐々に人気が高まってきた。いわゆる東洋のスイスの誕生だ。大正になると、鋼材や圧延鋼の輸出に続いて各種の機械や精密機器が輸出の主力になった。輸出による経済の活性化が更に工業化を早めるという好循環により、文明開化以降の日本の工業化はどんどん加速した。日本の国としての経済の規模に従って、国民の収入も生活もどんどん改善していった。いわゆるイザナミ景気の到来である。この時期から、対外的には、貿易重視で国家間の関係は等距離を原則とした。


 大正期には鉱山の資源にも大きな変化があった。ニッケルが多く含まれている鉱脈が発見されたのだ。既にこの頃には、中部鉱山は太古に落下した鉄ニッケルを主成分とする大隕石を鉱物資源として採掘しているのだとわかっていた。地球への衝突時に一時的に溶けた隕石と地球の地殻の構成物が再度固まるときに、金属成分が抽出して分離した鉄以外の鉱脈が近傍に存在すると考えられていた。宇宙からの飛来物だと判明してからは、そのつもりで探索するとニッケルだけでなく、クロムやマンガンなどの鉱物資源も発掘できた。


 精密機器分野に加えて、この時期に大きく発展した分野がもう一つある。鉱物資源と精密加工技術を活用して真空管が製造されるようになった。真空管は動作原理として熱電子放出現象を利用している。陰極を加熱しなければ真空管は動作しないのだ。真空管製造のために必要となる鉄資源だけでなく、加熱部品に必要なニッケルやクロムが同じ地域の鉱山で産出するのは好都合だった。大正末期に始まったラジオ放送も電子機器の生産に拍車をかけることになった。電子機器の需要が高まれば、装置もどんどん生産され、部品の所用数もうなぎ上りだ。この頃から日本の電子産業は加速度的に発展していった。


 これらの基盤産業の発展に伴って、日本は各種機械、電気、電子機器を中心とした貿易立国としての国際的な位置づけが確立した。


 やがて日本からの輸出品に武器が含まれるようになると、取引先は一気に拡大した。植民地の宗主国は、さすがに武器に限っては母国製を使うので、武器輸出の得意先にはならなかった。しかし、世界には武器の自主開発ができない国家は多数存在した。しかも軍隊の装備でなくても、官憲のための装備や個人が購入する武器にも需要はあった。


 日本からの輸出が拡大してくると、自国の貿易を圧迫していると考える国が現れた。貿易摩擦の始まりである。世界恐慌により経済が低迷すると、自国を優先して他国の行動を問題視する傾向が強くなった。


 1930年代(昭和5年)になると、アジアの植民地では、日本が輸出した武器がまわりまわって、独立運動組織やレジスタンスの手に渡っていることがわかってきた。そうなると宗主国は看過できない。アジアに植民地を有するイギリス、フランス、オランダ、アメリカは日本に対して徐々に反感を抱くようになった。


 一方、1933年にヒトラー政権が成立するとドイツと他国との摩擦が増えてきた。特に国際連盟の脱退と再軍備宣言、1936年(昭和11年)のラインラント進駐により、イギリス、ベルギー、フランス、オランダなどの欧州各国との関係が決定的に悪化した。


 そのような国際環境でも、日本はドイツとも以前と変わりなく貿易を続けた。当然ながら、ドイツと欧米の関係が冷めてゆけば、相対的に日本との関係が強まっているように見える。


 日本がドイツとの関係を継続したことにより、1930年代の後半には日独間で防共協定の締結が話題になったが、それが実現することはなかった。日本側が、特定国家と接近しすぎることにより生起する他国との貿易への影響を懸念したためである。この時点では、日本はどの国とも同盟関係にない中立的な立場を優先したつもりだった。しかし、それでも米英は日本をドイツよりの国家と認定した。ドイツの行動を非難することなく、貿易も含めて各種の関係を継続したためである。日本に対する悪感情は、貿易摩擦に加えて更に増大した。

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