第46話 神との

(ふむ。ウィリデ城の蔵書によると、すべての神々はひな鳥が親を慕うように、アウラコデリスを唯一絶対の存在として崇めているのよね)


 つまりラギメスが介入した大災害は、かの神が地上を管理するために引き起こした可能性もある、ということなのだろうか?


(そうすれば、辻褄は合うわね)


 アストレアが勝利を収めた結果も。文明が滅んだ結末も。

 破壊の後には必ず、なにかが生まれる。

 そしてラギメスの本性は、破壊と混沌だ。


(でもまあ、これもただの憶測にしかすぎないか)


 神々の考えることなんて、人間であるシアには想像もつかない。ただ一つわかることは、テネブレ・セルウィーも、しょせんはラギメスの駒の一つに過ぎなかったということだけ。


(アストレア様が勝利を収められたのなら、テネブレも生きてはいないでしょう)


 なぜなら、彼女はシアに約束したのだ。


『女神の代理人として、黒魔法使いは必ず断罪いたします。たとえどれほど巧妙に姿を隠そうと』


 そしてこうも言ったのだ。


『できることなら、あなたともう少し早くお会いしたかった。……これほど切迫した状況下ではなく、もっと前に——』


 優しい黄金色の瞳にわずかな寂しさを込めて、彼女は告げた。


『そうであればきっと、もっと違う関係が築けたでしょう』

『……』


 ほんのひととき。わずかな時間言葉を交わしただけなのに、シアは彼女の気持ちが手に取るように分かった。

 なぜならシアも同じ気持ちだったからだ。

 だからシアは、心からの微笑みを浮かべてこう返した。


『アストレア様。今からでも遅くはありません。この件が片付いたら改めてご挨拶に参ります。そのときは必ず、正面から』


 あの時の約束は結局果たすことが出来なかったけれど、いまも気持ちは変わっていない。


(アストレア様とまた、お話しできるかな。今度はもう少し早く。別の形で……)


 シアが過去の思い出に馳せていると、隣でセレンが起き上がるのを感じた。


「兄様?」


 もうそろそろ帰り支度を始める時間だろうか?

 始まりの森の最奥は常春でも、一歩外に出れば北部はいまだ長い冬の季節だ。

 最近日が伸びてきたとはいえ、時間を読み間違えれば移動魔法陣がある緑の館へ帰りつくまでに、あっという間に暗くなってしまう。


「もう戻る時間ですか?」

「いや、神話時代の話が出たついでに、あのことも教えてあげようかと思って」

「あのこと?」

「おいで」


 立ち上がって敷物を片付けると、セレンはシアの手を引いて例の石碑が鎮座する大樹の元まで導いた。

 苔むした石碑は、シアが両手を広げても届かないほど大きく、かなりの年代を感じさせる。


 おそらく千年。

 それだけの月日がたっているのに、風化せず原形を保っているのが不思議だ。


(なんて書かれているんだろう)


 刻まれているのは神話時代に使われていたとされる、神語である。

 神々の言葉とも呼ばれる神語は、魔法書や歴史書の主流である古語と違って、難解な上に独特。言語に堪能な教会の人間でも、今やそのほとんどは意味を理解できないとまで言われている。

 なのでシアにもたいていのひとにも、解読は不可能だった。


(たしか、アズラの手記に解説があった気がするけど。兄様は内容を覚えていらっしゃるかしら?)


 問うように兄の横顔を見上げると、セレンが理解したように切り出した。


「以前、アズラは女性だって話をしたよね」

「はい」

「この石碑は、彼女が記した物なんだ」

「え? でも……アズラはもっと後の時代の魔法使いではないのですか?」


 アズラ・フエゴ・ベルデの手記は古語で書かれている。少なくとも、神語の時代に古語は存在しない。


「この石碑を刻んだのがアズラだとすると、年代がおかしくなってしまいます」

「うん。でも『アズラの手記』は、後世の研究者が彼女の手記を当時の言語に翻訳したものだとしたら?」

「翻訳したものだとしたら……あ!」


 そうか。

 それならば辻褄があう。


(しかもセレン兄様は、神語もお読みになるのだった)


 地上で最も難解な言葉とされる言語を、だ。

 妹ながら長兄の聡明さは底知れない。


(エスメラルダの各地に散っている碑文や他の文献を読み解き、違和感に気付かれたのなら、間違いない。そもそも兄様が確実性のないことをお話になることはないわね)


「アズラの手記に使用された古語は、神語が失われた時代から数百年ほど後のものです。もしも、翻訳の過程で誤訳が生じたのだとしたら、性別や時代が転じてしまってもおかしくはありません」

「そう。しかも手記の翻訳者は、故意か誤訳のせいか、彼女の名前や背景まで変えてしまったんだ」

「名前や背景まで……? それでは、彼女の本当の名前は?」

「アズラーニア。後にエタムと契り、我々一門の開祖となった女性だよ」

「アズラーニア……」


 シアはその名を舌の上で転がしてみる。

 初めて聞く名前だ。


(そもそも、そうね。エタムと契った女性の名前は、どこにも残ってはいないもの)


 実のところ、フエゴ・ベルデの始まりの記録は、正確には存在していない。

 一門が生まれたのは、王国に統合されるどころか公国が興る前、千年以上も昔のことだ。


(唯一、一門の始まりを言及している家門の書には、『神々が地上をから姿を消し始めた神話時代の終わり、エタムが一人の女性と恋に落ち、後に公国建国の父となる偉大なる王・リカルドを生んだ』とだけ書かれているけれど。そこに学術的な根拠や歴史的な痕跡はないのよね)


 エタムはもともと、人間に好意的な神だった。

 生き神として多くの伝承をこの地に残していたから、その子孫が近隣の豪族を統合してできたエスメラルダ公国を、統治したのも必然だったのだ。


「古代の研究者によると、エスメラルダが建国したころにエタムは地上から姿を消したのでしたよね」

「ああ。ある研究者は、妻である女性つまりアズラーニアが天寿を全うしたために他の神々に続いたという説を唱え。ある研究者は、彼女に唆されたエタムが何らかの禁忌を犯したがために、アウラコデリスによって消滅させられたのだと唱えているね」

「禁忌を犯した……それはやはり、アズラの手記にもあったように、回帰の魔法に関することなのでしょうか」


 アズラ・フエゴ・ベルデ——アズラ―ニアは一門の歴史の中で、唯一禁忌に触れた魔法使いだ。

 人の身で禁忌を成功させるのは困難。となれば、エタムが力を貸していてもおかしくはない。


「アズラーニアは何のために、回帰の魔法を使ったのでしょう?」

「それは」


 セレンがなにかを答えようとした、そのときだった。


「——それは、『永遠』を手に入れるためだ」

「!」


 突然背後から聞こえた第三者の声に、シアとセレンはほとんど反射的に背後を振り返り、各々武器に手をかけた。

 セレンは腰に履いた真剣へ、シアは亜空間から出現させた短剣へ。

 そうして構えて向き合った声の主は、蔦の絡み合った大岩に悠然と寄りかかった、見知らぬ男だった。




 * * *




「ずいぶんと、懐かしい話をしているな」


 まるで世間話をするようなそんな気負いのない口ぶりで、男は警戒した面持ちのふたりに語り掛けてくる。

 自ら輝きを放つような美しい銀髪に、仕立てはいいがどこか悠久の過去から抜け出てきたかのような古めかしい服装。

 薄日の差す新緑の中、泰然とした男はあきらかに人外の存在だと、自ら主張している。


 その人間離れした様子が、シアへ警戒心を抱かせる。

 いや、警戒を抱くのは男の纏う空気のせいばかりでもない。


(なぜ……? ここまで近づかれて、どうして気配を感じなかった?)


 音も気配もなくするりと懐に入ってきた男に、シアの経験が「油断するな」と告げている。

 通常、魔法使いは探知魔法を使って周囲のマナから瞬時に状況を把握することが出来るのだ。だというのに、声をかけられるまでシアは男の存在に気付けなかった。

 そればかりか男を視界に納めてもなお、シアの感覚は彼がそこに存在していることを認識できていない。


(そんなばかなことがある? マナが濃厚なこの森で存在すら認識できないって)


 まるでこの男が、森と一体化しているようではないか。

 神の揺り籠たるこの森と——そこまで思い至って、ふとシアは答えを得たような気がする。


(あれ? つまりそれって……)


 かばうように前に立ったセレン越しにじっと男を見つめていれば、兄も同じ答えに辿り着いたのか、ふいに肩からこわばりがほどけるのを感じた。


「——……エタム?」


 シアがぽつりと漏らした名前は正解だったようだ。

 男は美しいが表情の乏しい顔に僅かに笑みらしきものを浮かべ、尊大に瞳を細めた。


「いかにも」


 よくよく見ればその瞳はシアと同じ、緑の火を抱いた緑柱石のようなグリーンだ。


「そう警戒せずともよい、我が子らよ。もっと近くに来て顔を見せてみろ」


 エタムに招かれ、シアとセレンはなんとも言えない足取りで歩み寄る。

 神との対話など、想像したこともなかったのだ。今度は別の緊張がふたりに走ったが、エタム自身は呑気なものだ。


「ふむ、リカルドに似ているようだが、フリオの面影もあるな。今の当主はサルバトールだったか?」

「いえ、サルバトールの代は四百年ほど前になります。今は彼の子孫のロナンが当主の座についております」

「そうか。サルバトールから四百年……。ダンカンの代まではどうにか数えていたのだがな」


 初代公国王リカルドに、その跡を継いだフリオ。それにエスメラルダに保護魔法を用いて封鎖都市としたサルバトール。

 なんとも、古めかしい名前が続々と出てきたものだ。

 セレンの説明を聞いて、どうにか記憶を整理した様子のエタムに、シアは先ほどの質問の続きを聞いてみた。


「あの、アズラーニアが『永遠』を手に入れるために回帰の魔法を使った、というのはどういう意味なのでしょう。それにあなたは……禁忌を犯して消滅したのではなかったのですか?」


 最後の一言。責めるような響きが宿ってしまうのは、仕方がないことだ。


(だって、消滅していなかったのなら、なぜ私たちを助けてくれなかったの?)


 燃え行く中で、誰もがエタムに願っていた。

 救済を、仲間の無事を。

 けれどその一つとして掬い上げられることはなく、シアはエタムではなく、アウラコデリスへ希ったのだ。


 だからエタムが静かな声でこう答えたとき、シアはこみ上げる感情をぐっと飲みこむしかなかった。


「すまなかった。末の子よ」

「……っ」

「そなたの声はわたしにも届いていた。けれど、懲罰を受けるこの身では、身動きが取れなかったのだ」

「懲罰?」

「ああ。あれはもう千年以上も前になるのか。わたしはアズラーニアが時を超えるのに力を貸した。すべては神と同じ永遠を生きたいと願った彼女のために。けれどそれは、我らが全能なる母と、時を司るクロノーア、そして正義の審判者たるユースティティア以外、決して叶えてはいけない願いだったのだ」


 だから懲罰を受けたのだとエタムは語った。


『神にとっても永劫の千年。自らの犯した罪の結果を、深淵の縁からただ見守り続けること』


 それがエタムに課された懲罰だった。


「ただし、わたしの代理者たるオクルスへの関与は許されていた。ダンカンに対して権能を分け与えられたのがその証拠だ。あの子は未来を共有し、公国を統合する道を選んだ。そしてセレン、お前にも夢を見せた。あまり同調率は高くなかったようだが」

「やはり、あの夢はあなたが」

「ああ。だが、千年近く地上に姿を現さなかったがゆえに、わたしの力は弱まってしまったのだろう」


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