第36話 約束の意味-1
開け放された窓から、柔らかな日差しと甘い花々の香りが運ばれてくる。
全身をすっぽりと包み込むような上等な椅子に体を埋め、シアはうとうとと春の心地いい空気に微睡んでいた。
ぺら、ぺら、と一定のペースで紙を捲る音も。軍備や騎士団の鍛錬、任務について話し合う声も。この八年間ですっかり馴染んでしまった、子守歌のようだ。
と、そのとき「まったく。猫のようにお気楽な小娘め」と、野太い嫌味が聞こえ、シアはゆっくりと長い睫毛を持ち上げた。
「若いのにのんべんだらりと時間を無駄に過ごしおって。少しは殿下のためにだな……」
「羨ましいのですか、アイガス殿?」
ぶつぶつと低くつぶやく声を遮ったのは、穏やかで笑いを含んだ優しい声だ。
「なんだと、リフ!? 羨ましいのではなく、嫌味に決まっておるだろう!」
「そうだろうか。先ほどからあくびを噛み殺しているようだが」
「こ、これは……っ、脳が酸欠を起こしているだけだぞ、ザノックス。めったなことを言うでない」
「そうか。わたしは誰かに明け方まで晩酌に付き合わされて、眠いがな」
「うぐ」
「あはは、これは墓穴を掘りましたね。シア殿もそう思いませんか?」
微睡みの余韻を引きずりつつも、気安い雰囲気で交わされる会話にシアは小さく微笑まずにはいられなかった。
彼らは相変わらず騒がしい。
その言葉に同調するように、隣から小さなため息が聞こえてくる。
その後には、まるで夜を紡いだように、淡々として落ち着きを払った美声が続く。
「騒がしいぞ。演習の項目は決まったのか?」
シアはつられるように整った横顔を見つめ、ふっと目元を和ませた。
(ああ、これは夢だ)
いつかの記憶を脳が反芻し、見せる夢。
穏やかで平和だった頃の夢——。
そう自覚したとたん、ぱっと目が覚めた。
闇の中にぼんやりと浮かび上がるのは、ベルベッドの天蓋だ。しん、と、静かすぎる空気が逆に耳に痛かった。
「……喉、乾いた」
むくりと起き上がり、小さな手で汗ばんだ額に張り付いた髪をかき上げる。
ウィリデ城は空調が保たれているというのに、妙な汗をかいたものだ。
回帰した日から、シアは穏やかな日々を夢に見る。
その中では匂いも音も、会話や感触するも鮮やかで、そのたびに思うのだ。
果たしてどちらが夢で、どちらが現実なのだろう、と。
幸せな記憶の中にいるときは、すべては悪い夢だったと思えるのに。こうして小さな手足と身を潜めてしまった魔力を前にすると、やはりこちらが現実なのだと認めたくない事実を突きつけられる。
「はぁぁぁぁ。…………悪夢より、悪夢だろ」
シアは盛大に恨み言を吐きだし、暖かなベッドから抜け出した。
一瞬、ベッドサイドに置かれた呼び鈴を鳴らそうかとも思ったが、シアが手にしたのは椅子の背にかけてあったガウンだった。
それから気分転換もかねて、城の一階にある厨房へと向かう。
大きな作業台にぽつんと置かれたランプが、石造りの仰々しい室内を優しく照らしている。橙色の淡い灯の中、厨房の堅い椅子で一人の女中がうつらうつら舟を漕いでいた。
彼女の奥にある釜戸では、ぼんやりと種火が燃えている。
(お父様たちは、まだお帰りになっていないのね)
家族は一度、遅くなる前に全員帰宅していたのだが、夕食前に顔を出した両親は「夜会に行ってくる」と告げて、二人そろって出かけて行ったのだ。
夜会は首都でもここでも、深夜を回ったころが一番の盛りである。
主人が帰宅したときに温かい飲み物を所望することもあるので、待機しながら時間を持て余した女中が居眠りをする光景はどこの屋敷でもお馴染みだ。
(うーん、幸せそうな顔で寝ているところ、起こすのはしのびないけど……)
シアが自分で飲み物を用意してもよかったが、そうすると後で厨房の責任者である料理長と、家政を取り仕切るミセス・エーデにこっぴどく怒られるのは彼女なのである。
シアはそっと名前を呼びながら馴染みの女中の袖を引いた。
「ナタリー」
「……お、お嬢様!? いかがいたしました、こんな遅くに!」
女中・ナタリーはシアの存在を見とがめると、そばかすの散った顔をぎょっとこわばらせ、あわてて椅子から立ち上がった。
「喉が渇いて、お茶を淹れてほしいのだけれど」
「まあ! メイドをお呼びになればよろしかったのに、夜の廊下は恐ろしかったでしょう?」
「ううん。でも夢見が悪くて、ちょっと眠れなかったから」
「あらまあ。では良くお眠りになれるよう、ハーブティーをご用意しますね。火は残してあるので、出来上がったらお部屋までお持ちしますよ」
「うん、でも……」
シアはここで飲んでいくと言ったのだが、結局押し切られてしまい部屋で待つことにした。
* * *
それからしばらくして、コンコンと部屋の扉が叩かれた。
読んでいた本を脇に置き、「どうぞ」と許可をだす。すると、湯気の立つカップを運んできてくれたのは、意外な人物だった。
「やあシア、眠れないんだって?」
「セレン兄様」
カップを手に入ってきたセレンは、黒のトラウザーズにシャツ一枚というラフな格好だった。
着飾っていなくても、どこか優美で洗練された印象を与えるセレンに、シアは思わずほおっと見惚れてしまう。
(我が兄ながら、将来が楽しみな美青年ね)
麗しい容姿もさることながら、きゅっとすぼまった腰。
シャツ越しにもわかる引き締まった筋肉。
さえない中央貴族の若者とはまるで違う、見ごたえのある体つきだ。
しかも鼻の頭が少しだけ赤くなっているところを見るに、先ほどまで屋外にいたらしい。
時刻はすでに十時を回ったところだから、実に勤勉なことである。
「兄様はいままでお仕事ですか?」
ヘッドボードに立てかけたクッションの山に埋もれながら、シアは後ろ手に扉を閉めるセレンを見上げて尋ねた。
「ああ、昼間にやり残したことがあって……」
セレンはそう言うと、足音もなく歩み寄りシアの額に手を添える。
「熱はないみたいだね」
「この二日間はずっと出ていませんよ」
「そうだけど、夕食のとき怠そうにしていたから。ちょっと心配だったんだ」
「……あはは。それは体力がないのに運動しすぎたせいです」
セレンの指摘通り、無理をして塔を上ったせいで体はずっしりと重怠い。足に溜まった疲労も、すでに筋肉痛になりかけている。
(う~ん。これは明日、イリオ兄様に治療魔法をかけてもらわないと、まともに動けないかも)
シアはそう心の中で呟き、へへっと笑いながら自分の隣をぽんと叩いた。
「それよりも兄様。ここに座っておしゃべりしましょう?」
「……シア。もう遅いから、いい子は寝ないといけないよ」
「むぅ、子ども扱いですか?」
「実際子供だろう。精神年齢はともかく、体はまだまだ成長期だ」
たしかに。
もっともな意見に、シアはぷくっと膨らましていた頬をすぼめる。
(でも、暇を持て余しているイリオ兄様と違って、多忙なセレン兄様とゆっくり話せる機会は少ないし……よし、ここはあの手でいこう!)
胸の中でぽんと手を打ち、シアはお祈りをするときのように、ぎゅっと顔の前で両手を組む。
「ちょっとだけ。ほんのちょっとだけです」
そう言って、はるか昔に置いてきた「あざとさ」を総動員する。鏡がないので自信はないが、なるべく哀れっぽくなるよう声と表情に気を付ける。
「嫌な夢を見て眠れないから、もう少しだけ。気持ちが落ち着くまで一緒にいてくれませんか? ね?」
うるうると潤むつぶらな瞳でセレンを見上げていれば、兄がうっと怯むのがわかった。
(ふふ、セレン兄様がこの顔にも妹のお願いにも弱いことは、実証済みよ)
「……あーもう。まったく」
やがてセレンはあきらめたように溜息を落とすと、「とんでもない手を思いついたな」と、いつものように甘さが垣間見える苦笑を浮かべる。
「仕方がないな。ちょっとだけだからね」
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