第37話 約束の意味-2
「ふふ」
「ほら、熱いから気をつけて飲むんだよ」
「はい」
ベッドの端に腰を下ろした兄から湯気のたつカップを受け取り、シアは上機嫌で頷いた。
それから薄っすら黄色みがかったお茶を一口こくりと飲み込む。
喉を滑り落ちる温かさとともに、爽やかな香りが鼻に抜けていく。遅れてほのかな甘味が優しく舌の上に広かった。
(あ、ラベンダーティーだ)
リラックス効果のあるお茶は、喉の渇きと一緒に波立った心も癒してくれる。
少しずつ表面を冷ましながらお茶を飲んでいる間、セレンは脇に置かれた本を取り上げて、何気なくぱらぱらとページをめくっていた。
「そういえば——」
「うん?」
「どうして兄様がお茶を持ってきてくださったんですか?」
喉の渇きが癒されたところで、シアはこう尋ねた。
いくら公爵家の人間が使用人の領域である厨房へ気軽に立ち寄ったり、主従関係を意識させないほど気さくとはいえ、キッチンメイドのナタリーが主人に用事を頼むことはありえない。
教育の行き届いた公爵家の使用人は、そう言ったところの線引きが厳格なのである。
「ああ、部屋に戻ろうとしていたらナタリーに会ったんだ。ちょうどシアに渡したいものもあったし、ついでにと思って」
「渡したいもの?」
「うん、これだよ」
「?」
そう言って、なにげなくシャツの胸ポケットから取り出されたのは、ルビーのように紅く輝く石だ。
(ルビー……にしては、ちょっと違うような)
あまりにも突然だったので、一瞬それが何かわからなかった。
だが、見た目よりもずっしりと重く、濃い魔力を宿したその鉱物がコロンと右手の上に落とされた瞬間、シアは震える声をあげていた。
「べ、紅結晶!?」
(何でそんなものが、ポケットから!?)
しかもサイズはシアの拳くらいもある。かなりの上物だ。
(いつかのとき、クロヴィス様が倒したインバルのものよりも小さくはあるけれど。これだけの紅結晶もなかなかに希少だわ!?)
「こ、これはどうなさったのですか? しかも私に? 誕生日はまだ先ですし、イリオ兄様のほうが欲しがるんじゃ……」
(紅結晶は爪くらいのサイズで最上級のダイアモンドと同等。闇市場に流せばもっと値は吊り上がる。しかもなんたって、紅結晶には——)
いや。
そこまで考えたところで、シアはぐっと思考にブレーキをかけた。
冷静にならなければならない。
(兄様は渡したいと言っただけで、くれるとは言ってないのよ)
ついつい興奮しそうになる口調を抑え、もう一度「冷静に」と自分に言い聞かせる。
それから、これを手渡したセレンの意図を眼差しでも尋ねる。
「大きいですね。兄様が倒されたのですか?」
「うん。この前雪崩の調査に行ったのは覚えているだろう」
「はい」
シアが回帰した日のことだ。
「そのときちょうど、エクノスとばったり遭遇することがあって、偶然手に入ったんだ」
「え」
にっこりと微笑む兄に、思わず、すん……と興奮の波がひいた。
冷静になりながら、シアは心の中で突っ込んでしまう。
(兄様。紅結晶もエクノスも、ばったり遭遇するものでなければ、偶然手に入るものでもありません)
急にこの結晶石の持ち主であった魔物が、哀れに思えた。
(兄様に会う前までは、こんな片手で虫を払ったみたいにあっさり片づけられるなんて、思ってもみなかっただろうに)
なぜならば、牡鹿にも似たエクノスは、山の王と呼ばれるだけあってインバルより強敵だ。
狡猾で警戒心が強く、餓死寸前まで飢えない限り人里には降りてこないかわりに、狩りがうまいのだ。
そのうえ額から突き出た二本の角は鋭く、皮膚は強靭。
ましてや体内で紅結晶を生み出すほど長く生きた個体ともなれば、訓練された騎士団でも手を焼くほどである。
(それなのに、本能も殺意もむき出しになったエクノスを、十六歳のお兄様が仕留めたって?)
我が兄ながら末恐ろしい。
だが、恐れ慄くのはまだ早かった。
「やっぱり、シアには小さかったかな」
「へ?」
「本当はもう少し大きいものを用意してあげたかったんだけど、狩りに行く時間がなくて」
「いや、兄様……」
「今度の討伐で領地の北側に向かう予定だから、そのときにもっと状態の良いものを持って帰るよ」
(いやいやいや。そんな出かけた先で「ちょっと良いお土産を買ってくる」みたいに、言うことじゃないです!?)
真剣な顔で頷く兄に、冷や汗が止まらない。
状態の良いものとはすなわち、もっと凶悪でもっと長生きしている個体である。
セレンの意図としては、それをあえて探して
「む、無理はしないでくださいね」
失われたシアの魔力を取り戻すために紅結晶を採り続けていたら、いつしか北部の地から魔物が一掃される日も、そう遠くないかもしれない。
突っ込みがいちどきにあふれてきたものの、表面上は笑顔を保ったまま、シアはしみじみと思った。
(そうだ。そうだった。セレン兄様は、いろいろな意味で『規格外』)
頭脳明晰で穏やかなセレンは「血生臭いこととは無縁です」とその存在自体が物語っているようなのに、実際はクロヴィスを上回る若さで剣気を発現させた、王国屈指のソードマスターなのだった。
緑影でも指折りのノアが、遥かに歳若い彼を主君と仰ぐ理由の一つでもある。
もしもアルトヴァイゼン公爵家が閉鎖的な一門でなかったら、世紀の天才として王国じゅうに名を馳せていたことだろう。
(本人にその自覚がないから周囲も忘れがちだけども。こういうちょっとしたときに、規格外な器を実感するのよね)
しかもセレンは有言実行の人である。
約束したことはどんなことでもやり遂げてしまうひとなので、めったなことは頼めない。
ははは、と胸中で乾いた笑いを浮かべつつ、シアは誓った。
——絶対に、セレン兄様へ無茶なお願いごとはしないようにしよう。
だがそうは言っても、純粋な好意は素直に嬉しいものである。
(ふふ。私を心配して、少しでも早く届けてくれようとしたのね)
「こんな貴重なものをありがとうございます、セレン兄様」
シアは紅結晶をぎゅっと握ると、心からの笑顔を浮かべた。
魔力の波動とは別に、心を満たすような温もりが手の平から広がっていく気がする。
「結晶石から魔力を補充する方法は、魔力が枯渇した魔法使いに対する応急処置としても用いられていますから、凄く助けになります」
「うん。それにアズラが言うには、結晶石に宿る魔力は大気中のマナや他人から譲渡された魔力よりも、格段に人の体になじみやすいらしい」
「へえ」
「魔力が枯渇した魔法使いは、マナの吸収速度よりも消費速度が上回るから、一気に蓄積量を増やす方法が効果的だ」
「なるほど。だから普通に生活しているだけでは魔力がほとんど溜まらないのですね」
ということは、魔力を溜めるために策を講じる必要があるのかもしれない。
新たな情報に、シアは手の上で紅結晶をころころと転がした。
「それはアズラの手記に書かれていた情報ですか?」
「ああ、そうだよ。さすが魔法の鬼才というべきかな。千年経とうと、彼女の残した知識はいまだに多くの謎を紐解く指標になっているからね」
「彼女?」
そのとき、兄が何気なく口にした単語に、シアは首を傾げた。
「アズラ・フエゴ・ベルデは男性ではないのですか?」
「おっと」
シアの興味を引いたと気づいたセレンは、あっと口を押さえて視線をそらす。
「まずいことを言っちゃったかな」
その視線の先にあるのはドレッサーの上の飾り時計だ。彼がここにきてから三十分は過ぎていた。
「うーん。この話をするには長くなるし……続きはまた今度かな」
「あ……」
そう言って、セレンがシアの手からカップを取り上げる。
切り上げようとする気配を察して、シアは慌てて兄のシャツを引いた。
「ま、待ってください。もう一つだけ。もう一つだけ質問です」
「うん?」
(これは絶対に聞いておかなきゃ)
サイドテーブルへカップを置き振り返った兄に向かって、シアは単刀直入に告げた。
「セレン兄様、なにか悩み事がありますよね」
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