第35話 ただいま、故郷

ウィリデ城と外部とをつなぐ移動魔法陣は、本城の敷地内に隣接する東塔の内部に設置されている。

 緑玉の本拠地『緑の館』へと向かった兄を見送った帰り道、シアはその足で胸壁まで上った。


 流石に、見上げるほど高くそびえる巨大な塔の最上階へ、自力で上るとなると息が切れるし膝が笑う。


(これは、イリオ兄様たちだけじゃなくて、私自身も鍛え直さなきゃダメだ)


「この……貧弱な、体め……」


 永遠と続くかと思われる螺旋階段をぜえはあと上りながら、シアはそんな自分自身に毒づいた。

 もっとも、息を吸うのも大変なほど乱れた呼吸の合間に絞り出したので、ほとんど蚊の鳴くような声だったが。


「いま、何階?」


 道の幅が狭くなってきたから、もう少しのはずなのだが……。

 期待を込めて階段の先を見上げれば、あと数階分はありそうだ。たまらず「はぁぁぁ」と深い息を吐き出し、シアはとうとう根を上げた。


「ああ、もうだめ」


 これ以上は一歩も進めない。


「一人で来たのは、無謀だったかな」


 ペタンと冷たく固い階段に座り、石の壁をくり抜いて作られたアーチ状の窓から晴れ渡った空を見上げる。

 この地上のどこよりも高い場所では、強く輝く太陽が、少しづつ西へと傾き始めていた。


「このまま上っても、戻る頃には真っ暗か」


 今の季節、北部の日暮は早い。とくに暗く傾斜の厳しい塔の内部は、昼間でも灯りを灯してどうにか段差が見えるくらいなので、すぐに足元がおぼつかなくなってしまうだろう。

 今の小さな体では、一歩踏み外しただけでも、渦を巻く螺旋階段を真っ逆さまだ。


「あーあ、てっぺんまでいけると思ったのになあ、残念」


 諦めるか、と呟きつつ、シアは火照った顔を冷ますために、窓から身を乗り出した。

 頬を撫でる冷たい風は、木々と雪の混じった匂いがした。

 忘れかけていた故郷の冬を感じながら、シアは眼下の景色を見晴るかす。


 思っていたよりも高いところまで上れたようで、ここからでも領地の一部が一望できた。


 どこまでも真っ白く覆い尽くす銀世界と、緑の大地のようにも見える針葉樹の森。

 ウィリデ城は小高い丘の上に建っているので、そのさらに下を横切る川の流れと、仰々しい跳ね橋、そして城壁都市・エスメラルダの街並みも、どうにか輪郭が見渡せる。


 空気が凍っているせいか景色は透き通り、日の光に反射した街はキラキラと輝く宝石のように美しかった。


「ただいま、我が故郷エスメラルダ」


 冷たくなった鼻を啜り、シアは白い息を吐いた。


(この景色をもう一度眺めることはないと思っていたから……この気持ちは、言葉じゃ言い表せないわね)


 胸を震わす喜びと感動と、そこへ入り混じる後悔や痛み。

 波打つ心をなだめるように、シアはそっと目をつむる。


 公爵家を襲ったあの事件の後。

 焼失したウィリデ城から都市までの一帯は、魔法によって死に絶えた立ち入り禁止区域「枯れ地」として、教会の保護下に置かれた。


 教会によって厳重に封鎖されたこの地へ、忍び込もうと思えばいつでも忍び込むことはできたけれど、シアがそうしなかった理由はただ一つ。


(この手から奪われたものを、もう一度、見たいとは思わなかったから)


 公爵城の人々も。異変を察知して駆けつけた、緑玉に騎士団も。

 思い出とともに何もかもが奪われてしまった——その事実を受け止める自信が、シアにはなかったのだ。


(でも今回は違う。対策を立てる時間はたっぷりある)


 シアは思考を整理するように、目を開けると自分の考えを声に出してみる。


「襲撃や財産の流出を防ぐ保護魔法では、黒魔法使いの侵入は感知できない。となれば、一定の条件下で発動する探知魔法を仕掛けて、聖魔法で満たせば……いいえ、教会の力を借りるのもありね」


 一回目の人生では、公爵家が滅ぶまで、教会がエスメラルダに関わることはなかった。それは魔法都市という特性上、エスメラルダと教会が対立していたというよりも、教会の役目をすでに公爵家が果たしていたからだ。


 シアが覚えているかぎり、千年続く都市の路傍に、飢えた子供はいなかった。


 家のないものには住む場所を、貧困にあえぐ者には生活の糧を、病気や怪我で救いを求める者には救済を——教会が理想とする社会は、公爵家によってすでに実現されていたのだ。


 教会としても、貴重な人材を派遣するならば、より救いを求める場所へ派遣したい。

 それに本音を言えば、王都から遠く離れた未知の土地で、魔法使いに囲まれて暮らすには不安が残る、というところだろうか。


「もしかしたら、この身を一生捧げたいという献身的な神の僕が、いなかっただけなのかもしれないけれど……」


 一部の利己的な聖職者を思い浮かべ、シアは思わず皮肉を口にする。

 神の僕といえど、その志は十人十色だ。


「でも、これからこの地が人々の関心と羨望を浴びるようになれば、教会にもメリットは生まれる。大司教の一人でも味方に引き込めれば——」




 それからしばらく、休憩と称して階段に座り込み、シアは金色に暮れていく領地を眺めていた。


 東塔は通いの使用人たちを送る馬車の停留所や、駐屯する騎士団の馬房にも近いので、時間とともに塔の足元を多くの人が行きかい始める。

 にわかに賑やかになり始めた足元へ、興味を惹かれて地上へと視線を落とす。


 と、そのとき偶然。馬房から出てきたばかりの騎士団の制服を着た数名がふっと塔を見上げ、シアに気づいて手を振ってきた。


(誰だろう……?)


 ずいぶん親し気な様子に、手を振り返しながらもシアは首を傾げる。


(アーノルドとマーカス、コーレルあたりかな)


 三名とも、代々ヴォルクス騎士団の幹部に名を連ねる武家の出身だ。

 年若く気さくな彼らは、護衛というよりもむしろ遊び相手として有能だったのを覚えている。

 懐かしさを覚えたシアは、よく顔を見ようと塔の窓から身を乗り出した、そのときだった。


「ひゃっ」

「危ないですよ、公女様」


 突然、何者かにぐいっと後ろに引っ張られ、バランスを崩してしまう。

 手を振り回してたたらを踏んだシアを抱えるように抱き留めた壁は、低い声でシアを叱った。


「身を乗り出されては危険です」


 感情の乏しいその声にシアは一瞬だけ固まり、寄りかかったまま頭をのけぞらせる。


「……、ノア?」

「はい」


 そこにいたのは声と同じく彫像のように固い表情の、精悍な男だ。

 ノア・クローレンス。

 エスメラルダが誇るヴォルクス騎士団、その中でも十人といない精鋭中の精鋭、『緑影』のひとりである。


「どうしたの、こんなところで?」

「マーサから公女様のお迎えを仰せつかりまして」

「ああ」


 多くの人々から畏れられる彼らを顎で使えるのは、マーサくらいしかいない。シアが小さく頷くと、寡黙な騎士は膝をつき「どうぞ」とその両腕を差し出してくる。

 足がわりにどうぞ、ということだろう。


 シアは一瞬だけためらったものの、素直に甘えることにした。

 太い首へ抱き着くようにして腕を回せば、軽々と抱き上げられる。そのまま「胸壁に上られられますか?」と問われたが、首を横に振って断った。


「ううん。大丈夫。次は絶対に自分の足でてっぺんまでのぼってみせるから」


 頂上からの景色は自分の力で掴みたい。小さな主人の意図を察したノアは、「そうですか」と短く頷いて階段を降り始める。

 カツン、カツン、と。ブーツの底が石の階段を叩く反響音を聞きながら、シアは心地よい揺れを感じていた。


 ノアは緑影の中でもとくに寡黙な性格だから、お喋りは期待していない。

 だから彼の方から口を開いたとき、珍しいこともあるものだと思った。


「お嬢様はどうしてこちらへ? なにか、嫌なことでもありましたか」

「どうして?」


 きょとんとしてその横顔を見上げれば、榛色の瞳が一瞬だけ注がれる。


「ご兄弟ともに、なにか悩み事や考え事があるときはこちらへ上られるようなので。先日も、主君がおひとりでいらっしゃっておりました」

「セレン兄様が?」


 ノアの忠誠の証である剣は、公爵ではなく次期後継者であるセレンに捧げられた。だからは彼は兄のことを剣の主という意味を込めて、こう呼んでいる。


「ええ。数カ月前からでしょうか。珍しくなにかに気を取られていらっしゃるご様子で、塔に上って領地を一望されたり、頻繁に『始まりの森』にも出入りしていらっしゃいます」


 と、いうことは、自分のことで悩ませてしまったわけではないらしい。

 数カ月前であるなら、シアはまだ純粋なアーテミシアのままである。


(そういえば、イリオ兄様もそんなことをおっしゃっていたような)


 あれはシアが回帰したことをイリオスに打ち明けた後だった。


『なあ、兄貴が家門の書を読み直してたんだけど、なんか心当たりあるか?』


 そう聞かれたときはピンとこなかったが、改めて考えてみると、違和感がある。

 家門の書とは長い一門の歴史の中で、時代を変えるほどの偉業を成し遂げた当主や変革者、そして、エタムと通じる『オクルス』の名が記されている、いわば人物名鑑である。

 なんの役に立つかと言えば、祖先の自慢話をするときのネタくらいにしか、役に立たない。


(ただでさえお忙しいあのお兄様が、そんなものをわざわざ暇つぶしに読むとは考えにくい)


 何か領内に起きた問題の解決の糸口を探しているのなら、別の棚にある記録を読むだろうし、魔法関連は父や緑玉、もしくは書庫の主であるイリオスに聞けばすむ話だ。


(それにそもそも、セレン兄様はクロヴィス様と同じ天才型。一度読んだ本の内容はほとんど諳んじてしまうのよね)


 加えて『始まりの森』——その単語を聞いて、シアは話の内容とは別に胸がざわめくのを感じた。


「公女様?」


 ぎゅっとしがみつく力を込めれば、訝しげな声音で問われる。

 始まりの森。そこには忘れがたい記憶が眠っている。


(でも、ノアには話せないよね)


「……ちょっと、疲れちゃったな」


 秘密を打ち明けることもできず、そう言って誤魔化せば、腿の裏に添えられていた手の片方が、そっと背中に移動した。


「ではお眠りください。このままベッドまでお運び致します」

「うん」


 そのままあやすようにとんとんと撫でる力は、とても優しい。岩のようにゴツゴツして武骨な手なのに意外な特技だ。


 ふふっと忍び笑いをこぼして寝たふりをしようとしたつもりだったのに、シアはいつしか本物の眠りに落ちていた。

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