第30話 取り戻したものは-2

 次にシアが目覚めたのは、額に温かい手が添えられた時だった。


「ん……」

「ごめん。起こしてしまったかい?」


 人工的な灯りではなく自然な明るさに瞬きながら目を開ければ、穏やかな灰緑色の瞳が見下ろしていた。


「セ、レン、にいさま……?」

「うん。ただいま」


 柔らかな声でそう言うと、長兄セレンはシアの眦をそっとぬぐった。

 どうやら寝ている間に泣いていたらしい。

 その手つきが記憶以上に優しくて、思わず新たな涙がつんと目頭を熱くする。


(ああ、セレン兄様だ。本物の……)


 父親譲りの絹糸のような銀髪と、母親譲りの柔和な面持ち。


 最後の記憶よりもやはり幼さを宿した長兄の姿は、懐かしくもあり、感慨深くもあり、シアの胸に様々な感情が去来する。


「いつ、お帰りになったんですか」


 だがこみ上げた感傷を誤魔化すように、シアは掠れた声でそう尋ねる。

 それからもぞもぞと身動ぎすれば、セレンが起き上がるのに手を貸してくれた。


 ヘッドボードにクッションを並べ、そこへ寄りかかったシアは、兄が汲んでくれた水でゆっくりと喉を潤す。


「昼頃にね。帰宅してすぐに父上が様子を見に来たけれど、深く寝ているようだったから少し時間をずらしたんだ」

「え……。いま、何時ですか!?」

「四時を回った頃だよ」

(四時……)


 どうりで喉が渇いていたわけだ。ほとんど丸一日寝ていたらしい。

 セレンは空になったグラスを受け取ると、そこへ今度は別の水差しから薄紅色の液体を注いでシアに手渡した。


「ベルディジュース……」

「好きだろう?」

「はい」


 シアは思わず喜びの声を上げ、それから一口含んでふふっと笑み崩れる。


(甘酸っぱくておいしい)


 ベルディジュースは北部でしか味わえない特別な飲み物だ。


 原料となるベルディの実は、雪深い山奥に自生し、凍えるような冬の時期にしか収穫できない。ラズベリーとも似た味と香りだが、それよりも糖度が高く酸味も強い、はっきりした味が特徴なのだ。

 加えて薬効もあるため、風邪を引いた時にだけ出てくる、ちょっとした贅沢品でもある。


 そんなベルディジュースを大切に味わっていると、シアの瞳を覗き込みセレンが告げる。


「うーん、まだ少し熱が体の中に籠っているかな? 目が潤んでる。父上を呼んでくるよ」


 そう言って席を立とうとした兄を、シアはとっさに呼び止めた。


「あっ、セレン兄様……っ」

「うん、どうした?」

「あのぅ……」


(どう、しよう)


 だが、呼び止めたのはいいものの、父を呼ばないでと言う理由が思いつかない。

 グラスをぎゅっと握りしめたまま、シアは途方に暮れてしまった。


(お父様には会いたいけれど、異変を感じ取られたらどうしよう)


 魔力が枯渇した理由は、イリオスにも言った通り風邪のせいだと言い張ればいい。

 信じてくれるかはわからないけれど、完全に否定されることもまた、ないはずだ。


 ——でも、禁忌を犯したことがバレたら?


(きっと、追い出される)


 父ロナンは、険しい外見とは裏腹に情に厚く子煩悩で、特に唯一の娘であるシアを溺愛している。

 しかし、決して甘い人間ではないのだ。


 王国北部の三分の一ほどを占める、公爵領エスメラルダの領主として。また、フエゴ・ベルデを束ねる当主として。父はなによりも掟と道理を順守する。


(お父様は理を軽んじる魔法使いや、人の道に外れた行いを嫌う。でも、追い出されるわけにはいかない。せめて魔力を取り戻すまでは……)


「シア?」

「え? あ……」


 考えに没頭してしまい、兄を呼び止めていたことをすっかり忘れていた。

 案じるような気配に、罪悪感がちくちくと刺激される。


(嘘をついてごめんなさい)


 シアは感情を悟られないようわずかに俯いて、ぎゅっと兄の袖を摘む。

 それは幼いころのアーテミシアの癖でもあった。


「……お父様もお忙しいですし、いまはまだお呼びしなくても平気です」

「でも父上の話では、枯渇した魔力を微量でもいいから回復させないと、その熱は下がらないそうだよ」

「でしたらほら!」


 ぱっと掴んでいた袖を離して、シアは笑顔とともに腕を振り回してみせる。


「昨日よりずっと元気です。きっと回復している証拠です」

「……」


 セレンの灰緑色の瞳がじっとその動きを追う。


(う、疑ってる?)


 聡明な兄の事、もしかしたら空元気を見透かしているのかもしれない。

 だがやがて、セレンはシアの手からそっとグラスを受け取ると、ぽつりと呟いたのだ。


「俺が魔力を分けて上げられたらよかったのにね」

(あ……)


 どこか悲し気な笑顔を受けて、シアは言葉を詰まらせる。

 セレンはその瞳が示す通り、魔力をほとんど保有していない。通信具を使ったり、魔力を感知する程度がせいぜいで、他人に分け与えることは不可能なのだ。


(私のばか! ばか、ばか、ばか! セレン兄様を悲しませるなんて)


「あ、あの、兄様……私……」

「シア」


 静かに名前を呼ばれて、細い肩がびくりと跳ねる。


「困らせちゃったかな?」

「兄様……」

「大丈夫だから。そうやって無理に笑わなくていいんだよ」

「……」 

「ごめんな。具合が悪いのに気を使わせて。そうだね、シアがそういうのなら、父上にも当分は大丈夫そうだと伝えておくよ」


 優しい笑顔と共に頭を撫でられて、シアは思わずぎゅっと唇をひき結ぶ。


『大丈夫』


 セレンはいつだってそう言ってシアの心を汲んでくれる。

 たとえ理由が明らかにされない時であっても、言葉にできない思いを汲み取ってくれるのだ。


「ただし何か異変を感じたらすぐに——わっと」

「あ、甘すぎです」

「え?」

「セレン兄様は、私に甘すぎですよ」


 そう言ってシアは、力一杯セレンに抱き着いた。

 ぐりぐりと犬がじゃれるようにその胸に頭をこすりつければ、胸が震える感覚とともに、優しい腕がそっと抱きしめてくれる。


「うん、そうかもしれない。今度からは気を付けるよ」

「むぅ」

「ほら、夕飯までもう少し時間があるから、ベッドでおとなしく寝ていなさい。それともいま、軽食を持ってこさせようか」


 手際よく布団にもぐらされ、シアは小さく首を振る。


「後でで大丈夫です」

「そう。じゃあ、もう少しお休み」

「はい。あ、セレン兄様」

「ん?」


 去っていくセレンの後ろ姿に呼びかければ、肩越しに彼が振り返る。


「元気になったら、私に剣を教えてくださいませんか?」

「……」


 一瞬、セレンはなにかを考えるようにシアを見つめた。断ろうとしたのかもしれない。

 けれどやがて、彼は微笑みとともにシアが欲しかった言葉を返す。


「ああ。元気になったらね」


 そうして、カーテンの隙間から橙色の光が差し始めた部屋にひとり、シアを残して扉が閉まる。

  


 * * *



 後ろ手に扉を閉めると、セレンはコツンと扉に寄りかかり、天井を見上げた。


「……」


 彫細工が成された真っ白な漆喰の天井。大きくくりとられた窓から差し込む赤い、夕暮れの光。

 しかしその瞳に映るのは、目の前の現実ではない。

 燃え盛る炎と悪意に包まれた、悪夢のような景色。あるいは、迫りくる混沌と災禍。


 ——いつからだっただろうか。

 視界にかぶるその光景を見始めたのは。

 そして『それ』がなんであるのか、理解し始めたのは。


「……失われた、オクルスの力」


 夕日に赤く染まった己の手を見下ろし、セレンはあえて疑問を声に出してみる。


「どうしてシアの中にも、同じ光景が……?」


 だが当然、答えるものはない。

 一方で、聡明な彼の中ではすでに、一つの可能性が像をなしていた。


 セレンはぎゅっと手を握り、目を伏せる。


「エタム、あなたは——……」


 やがて姿の見えない神に疑問を残し、セレンはその場を静かに離れたのだった。


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