二章 二度目の幕開け

第29話 取り戻したものは-1

 動かなければと思うのに、体が言うことをきかない。

 絨毯が敷かれた床にそのままぐったりと座り込んでいれば、優しい女性の声と共に扉が開かれる気配がした。


「シア?」


 昼間のように橙色の灯りに煌々と照らされた廊下と、帷の降りた寝室。

 その対比が、現れた人物の姿を黒い影のように浮かび上がらせる。


(だ、れ……?)


 あれは誰だろう。

 あんなふうに自分の名前を呼ぶ女性は……。


 思わず眩しさに目を細めながら、シアは戸口に現れた人物をみやる。


 すると、はっと息を呑む音と共に廊下の明かりよりもやや強い、琥珀色の光がパッと室内を照らす。

 シアは反射的に目を瞑った。


(なに? まぶし……っ)

「アーテミシア!!」


 シアの視界を眩ませたのは、どうやら女性が灯した室内灯の灯りだったようだ。

 こうして目を閉じていても、たしかな光が瞼越しに感じられる。


(そっか、ここでは魔道具が当たり前……)


 熱に浮かされた頭でぼうっとそんなことを考えていると、そばにしゃがんだ女性がシアの体を抱き起こすのが感じられた。


「どうしたの? 具合が悪いのだからベッドで寝ていなくちゃ——」


 その拍子に、ふわりと風が流れ、敏感になった嗅覚が甘やかな香りを拾う。


(この匂い……)


 どことなく覚えのある香りだ。

 たとえるなら、初夏の庭園を彩る、瑞々しい薔薇の香り。

 記憶の扉を叩くその匂いに、シアはぼんやりと目を開けて、自分を包み込む女性を見上げる。


「シア?」


 頬を包む大きな手。

 不安げな灰緑色の瞳。

 室内が明るくなったおかげで、女性の姿がはっきりと検分できる。


 歳の頃は、三十代前半から半ばだろうか。

 輝くような金髪を緩やかに結い上げた姿は上品で、少しだけ色調を落とした同じ色のドレスが、象牙色の肌を一層美しく見せている。


 灰緑色の瞳を不安で陰らせていても、百人が百人『花の盛りが過ぎても十分可憐で美しい』と評するような、咲き初めの薔薇のように美しいひとだ。

 冷静に考えればその女性が誰であるのか、すぐに答えは出ただろう。


「……」


 だが、シアは唇が勝手に紡ぐまで、なぜかその答えにたどり着くことが出来なかった。

 だからこう口にしたのは無意識だ。


「おかあ、さま……?」


 その瞬間、パチンとなにかがはじけるような感覚と共に、様々な記憶が堰を切ったように脳裏へと蘇る。


「っ」

「シア?」


 ——ああ、そうだ。


(どうして、忘れてしまえたんだろう)


 サーシャ・フエゴ・ベルデ。

 このひとのことを。


(鏡を見れば、いつだって、そこにお母様の面影を探せたのに)


 色こそ違うけれど少したれ目がちな瞳。微笑めばたちまち甘やになる面立ち。

 毛先へ行くにしたがって緩やかなカールを描く髪質まで、シアの外見はすべて母親譲りだった。


「……っ、お母様」

「そうよ、大丈夫? また熱が上がってきたのかしら……」


 もう一度呼び掛けると、母は縋り付くシアの体を抱きしめ直し、少しひんやりとした手で額の熱を測った。

 たったそれだけのことなのに、体からふっと力が抜け、おまけにじわっと目頭が熱くなってしまう。


(ああ、だめ。泣いたらだめ。変に思われる)


「あらあら、どうしちゃったのかしら」


 潤んだ目元を誤魔化すように、懐かしい母の胸元へ顔を埋めれば、少しだけ笑みを含んだ声が落ちてくる。


「ねえ、シア? ここは寒いわ。欲しいものがあればお母様が用意してあげるから、温かいベッドに戻りましょうか?」


 その言葉にシアが小さくこくんと頷くと、母は軽々と彼女を持ち上げた。

 ああ、そうだ。


(お母様は華奢に見えて、意外と力持ちだった)


 そして最期のその時まで、とても美しく、とても強いひとだった。

 ふっとそんなことを思い出し、シアは唐突に、とてつもない罪悪感に襲われた。


 だから気がつけば、こぼれるように贖罪の言葉が口から滑り出ていた。


「……ごめんなさい。お母様」


 すぐには気づくことが出来なくて。

 八年もの間、その思い出から目を背けて。


(薄情で、恩知らずな娘で……ごめんなさい)


 原因は、蘇った記憶と共にはじけ飛んだ魔法の気配にある。

 そう、あれは忘却の魔法だ。


(そうだ……幸せな記憶が苦しくて、自分で自分にかけたんだ)


 十五歳の自分がかけた魔法はまだまだ未熟で、ときどきふと、感情が揺さぶられると綻びかけた魔法の隙間から、懐かしい記憶のかけらが蘇ることはたしかにあった。


(だからこんな魔法、いつでも破ることが出来たのに)


 けれどシアはそうしなかった。

 思い出が蘇るたびに蓋をして、目を逸らし、過去をなかったことにした。


 自分を愛してくれたひとたちの存在を記憶の奥底へ消し去って、『家族の顔なんて、もう覚えてない』そんなふうに平然と考えさえした。


「ごめんなさい」

「ん?」

「ごめんなさい……お母様……」


 もう一度、口にはできない思いを込めてシアは告げる。

 そんな彼女に向かって、母は朗らかに笑ってこう言った。


「ふふ、シア? お母様は『ごめんなさい』よりも、『ありがとう』が聞きたいわ」

「え?」

「もしくは早く元気になって、またお母様のお喋りに付き合ってちょうだい。それがなによりもお母様は嬉しいわ」

「お母様」


 そして母が、マットレスの上にそっとシアをおろすのと同時に、熱を逃がさないようにと、すかさず布団をかけてくれる人物がいた。

 誰だろうと思って見やれば、そこにはシアと同じ緑柱石の瞳があった。


「イリオ、兄様」

「ん、どうした?」


 いつの間に部屋へ入ってきていたのだろう。

 面立ちの似た金髪の少年が、布団の上に両手をつき、ぐっと身を乗り出してシアの顔を覗き込んでくる。


「どうかしら、イリオス? まだ流感の症状が抜けないのかしら」

「んー……」


 シアの五つ上の兄――イリオスは、母親に促されてシアの額へ手を当てた。

 シアと同じ『緑の火』を宿した緑柱石の瞳が示すとおり、彼もまた優れた魔法使いなのである。


(イリオ兄様の治療魔法……)


 触れた手の平から温かい魔力が流れ込んでくるのを感じて、シアはそっと目を閉じる。

 魔力にはその人の性格が反映されるというけれど、イリオスの魔力は荒っぽい言動に反してとても繊細で柔らかい。


(やっぱり、イリオ兄様の魔法は完ぺきで緻密。魔法理論を根本から理解しているひとのなせる業よね)


 シアはどちらかと言うと、頭よりも感覚で魔法を使うタイプなので、思わず流れ込んでくる魔力を味わいながら感嘆してしまう。と、そのときだった。


「んー、風邪ならもう治っていてもいいんだけどなぁ……」


 ぽつりと落ちた呟きに、シアは内心でぎくりと体をこわばらせた。


(ま、まずい)


 懐かしい人たちとの再会に、つい、うっかりしていた。

 ぶつぶつと呟きながら、探るように治療魔法をかけてくるこの兄は、魔力を分析したり流れを呼んだりすることを、なによりも得意とするのである。


 五年後、『白い悪魔』と恐れられるようになるシアには魔力量で及ばないものの、そもそも魔塔をも唸らせたシアの魔法は、彼が改良した魔法陣がもとになっているのだ。


(たしか、この時点でもう、お父様を超える魔法使いになるぞって、言われていたのよね)


「……」

「なんか、おかしいんだよなぁ。手ごたえがないっていうか、魔力を吸い取られる気がするっていうか、んー……」


 案の定、イリオスは鋭い部分をついてきた。


「お前、またむやみに魔法を使って、魔力が空っけつになってたりしないよな」

「まさか、そんなぁ……」


 じっと抜け目ない瞳に見つめられ、シアの背をたらりと冷や汗が滑り落ちる。


 ——魔力が空っけつ。


(正解です、イリオ兄様)


 だが内心とは裏腹に、シアは真逆な答えを口にする。


「イリオ兄様が想像するような、無茶なことはしてませんよぉ」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」


(ああ、やばい。このままじゃ、バレちゃうかも)


 シアが禁忌を犯したことに。

 そして、もう一つの秘密にも。


(でもまだ、だめ。まだちゃんと策が練れてない)


 家族を巻き込むべきなのか、それとも、自分一人で対抗するべきなのか。

 前者であるべきだとわかっていても、まだ、どこまで関わらせるべきなのか、とっさに判断できるほど体調も思考も回復していなかった。


(とりあえず、私がもう彼らの『シア』じゃないってことだけは隠し通さなきゃ)


 アーテミシア・フエゴ・ベルデは天真爛漫なお嬢様だった。

 何の苦労も知らず、家族から無条件の愛を与えられ、穢れなど知らない綺麗な存在。


 でも、いまのシアは違う。


(家族の無実を証明せず、のうのうと生き延び、果ては利己的な願いで時すらも歪めた。そんな私が甘えていいひとたちじゃない)


 裏社会に染まった自分が、穢していい人たちではないのだ。


(このひとたちの『アーテミシア』は、もうどこにも存在しない)


 彼らの可愛い娘や妹を奪った事実もまた、シアが犯し償わなければならい罪の一つなのだろう。


「お母様、イリオ兄様。ほんとうにもう大丈夫です。お兄様の魔法のおかげでだいぶ良くなりました」


 かつての自分がどう笑っていたかなんて、もう思い出せもしないけれど。

 シアは精一杯、無邪気に笑ってみせた。


(ごめんなさい。お母様、お兄様。奪ってしまったぶんだけ、いえ……それ以上に、私が頑張ってみせるから)


 アーテミシア・フエゴ・ベルデを。

 彼らが愛するシアという人間を。


「確かに少し熱は下がったみたいだけれど、油断は禁物よ」

「母様の言うとおりだぞ。それに魔力が枯渇した原因もわからないのに、大丈夫なわけないだろ」

「ああ、それはもしかしたら、体力を回復するために自分で治療魔法を使ったのかもしれません」


 だから心配そうなふたりに、シアは飄々と嘘を重ねる。


「ほらよく聞くじゃないですか。山で遭難したひとが、魔道具のおかげでどうにか生き延びられたって」


 その事例は、雪深いここ北部にこそ多い。

 フエゴ・ベルデの血を引く北部の領民が、同じく山で遭難したとき、魔力の有無が生死を分けたという実話も結構あるのだ。


「流感は油断ならない病気ですし、だからきっと魔力を使い果たしちゃったんでしょう」

「んー、でもなぁ」

「やっぱり、お父様や『緑玉』方にも一度よく診てもらった方がいいかしら……」


 ぽつりと、不安げに母がこぼした呟きに、シアは内心でぶんぶんと横に首を振る。


(いいえ! それはもっとまずいです、お母様!?)


 『緑玉』とはフエゴ・ベルデの魔法使いを含めた、公爵家に属する魔法使いの総称――つまり、公爵領エスメラルダにおける魔塔と言うべき存在である。

 議論や解明好きの彼らまで巻き込んだら、事態が余計にややこしくなる。


(ど、どうにかして、話題を変えなきゃ!)


 大いに焦りつつ、シアはキョロキョロと周囲に視線を彷徨らせる。


(子供、子供が言いそうな台詞! なにか話のきっかけになるものは……)


 そして暖炉の飾り棚マントルピースに置かれた家族の肖像画を見つけ、これだ!と閃く。


「あ、の……そういえば、お父様とお兄様はいらっしゃらないのでしょうか」

「え?」

(んん?)


 一瞬の間の後、兄と母が顔を見合わせる。


(ああ、まずった)


 この反応はきっと、アーテミシアも知っているはずの情報だったのだろう。


「あの、なんだか急に……会いたくて……」


 とっさに、熱で弱った子供特有のしゅんとした表情を作る。

 これがなかなかうまくいったようで、母が同情するように眉を下げる。


「そうね。ふたりが出かけたのは、貴女が熱を出したちょうど後だったから。心細くなっちゃったかしら?」


 だが、イリオスの方は……怖くてちょっと見られない。


(後で、ぜえっったい、揶揄われる気がする)


 この兄は優しい長兄と違って、何かとシアを揶揄うのが趣味なのだ。

 が、そうはいっても、今はこの場を切り抜ける必要があるので、羞恥心は置いておく。


「いつ頃お戻りになりますか?」

「そうねぇ……」


 母は灰緑の瞳を柔らかく和ませると、ベッドの端に座り、シアの髪を優しく撫でつけた。


「明日の昼頃には戻られるかしら。三日ほど前に雪崩が街道を塞いでしまったと知らせがあったけれど、幸い被害も少なくて、目途もたったから。シアが会いたがっていると伝えれば、すぐに飛んで帰ってきてくださるわ。安心した?」


 それにシアは子供らしい表情でこくんと頷くにとどめた。

 これ以上はもう何も言わないほうがいい。


(いまはたとえ違和感があっても、体調が悪いからで誤魔化せるはず。そのあとは……反応を見ながら少しずつ変えていこう)


 実際、体調が悪くて本調子ではないのは本当なのだ。

 イリオスの魔力で熱は引き始めていたものの、倦怠感はまだ残っている。

 その証拠に、母の優しい愛撫に身を委ねているうちに、だんだんと瞼が重くなってきた。

 抗いがたい眠気がシアを襲う。


(体が自然と、回復しようとしているのね)


「お母様、イリオ兄様……」


 シアは眠たげな声で二人を呼んだ。

 そこに意味はなかったが、なぜか急にその存在を確認したくなったのだ。


「ん?」

「どうかした?」


 ふたりの優しい声が同時に答え、シアの胸になんだかくすぐったい感情が生まれる。

 だからシアもまた、自分でも驚くほど甘えた声でこう答えていた。


「……なんでもありません。ただ、呼んでみただけ」


 母と兄がまたしても同時に顔を見合わせるのを気配で感じたが、今度は気にせずそっと目を瞑った。

 それから空気が柔らかくなるのを肌で感じた。


「ふふ。お休みなさい、シア。いい夢を」

「ゆっくりやすめよ」


 母の笑み交じりの声と兄の少しぶっきらぼうな声を最後に、シアは再び眠りに落ちた。

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