第28話 幕間

 光射す新緑の森に、一人の男が立っていた。


 地面につくほど長い銀髪は、光の加減によって薄淡い緑のグラデーションをともない、緑柱石の瞳は周囲の森のように萌えるような輝きを放つ。


 真珠のように色の白い肌を包む衣服は、絵画の神々に描かれるような、どこか古めかしいデザインだ。けれど一見簡素に見える布地は、光を編み込んだように繊細な糸で出来ていて、男の超越的な美貌をより神秘的に見せていた。


 男が裸足の足で一歩、また一歩と踏み出すたび——さく、と草が踏みしめられ、そこから新たな命がふわりと芽吹く。


「……」


 男はただあてもなく森をさ迷っているように見えた。もしくは何かを探すように時々足を止めては、木立の間をぬっていく。

 そして不意に、頭上に影を作る大樹の張り出した枝から、ぷらんと一組の足が垂れ下がっているのを見つけ歩みを止める。


 そのまま頭上を仰ぎ見て、男はぎゅっと眉根を寄せた。


「ここでなにをしている?」

「おや、久方ぶりに会えた僕に対して、それって随分な挨拶じゃない?」


 枝に腰かけ高い場所から男性を見下ろしていたのは、どことなく愛嬌のある青年だった。

 垂れた目じりと微笑みを湛えた唇。

 男と同じ人間離れした面立ちに、少年のような無邪気さを残した紅玉ルビーの瞳。

 彼がぷらぷらと足を揺らすたび、三つ編みにされた長い黒髪が、動きに合わせて尻尾のように踊る。


「実に千年ぶりだ、兄弟。女神の懲罰おしおきからようやく解放された気分はどう?」


 そう告げて、青年は八重歯を見せてにっと笑う。

 一方の男は一層眉を顰めて、渋い表情だ。


「最悪だ。とくにお前に出くわすとは」


 言葉通り、表情にも口調にも苦いものが滲んでいる。

 彼はそばの幹によりかかり憮然と腕を組むと、頭上の青年をじろりとねめつけた。


「まさかあれほどのことを起こしておいて、堂々とわたしのまえに現れられるとはな、ラギメス」

「んー? あれほどのことって、なんのこと?」

「は、空っとぼけるか、白々しい」

「はは。だってさ、ほんとうに心当たりがないもの」


 男の眼差しには明らかに抑えきれない苛立ちが滲んでいた。が、青年――混沌の神ラギメスは、どこ吹く風とそれをいなす。


「だって、人間を玩具にして遊んだこと? 前みたいに文明を崩壊させたこと? それとも……キミの大事な子供たちを残らず生け贄に食べちゃったこと?」


 上げ連ねたどれもが、男を不機嫌にさせている元凶だとわかっているからこそ、ラギメスは形のいい唇を、にいっ、と酷薄に歪める。


「でもぜんぶ、僕が直接手を下したわけじゃないでしょ。神々は唯一絶対の母を除いて、人間に直接権能を振るうことを禁止されているもの」

「物は言いようだ。直接力を振るわずとも、お前は人間を唆し弄んで楽しむ。そうして規律を保ったまま、運命を捻じ曲げる」


 ラギメスに踊らされた人間がもたらした結果、それを憂い、男は切れ長の双眸へ剣を纏わす。

 愛らしい顔で無邪気に笑うこの神は、どこまでも残酷で残虐だ。


「お前はいつもやりすぎだ。そのたびに我らが母上を悲しませている」

「でもそのおかげで君は生まれた。そうでしょ、アウラの涙から生まれた妖精さん?」

「……」


 そのおちょくった言い方に、男はぴくっと肩を揺らした。

 それからおもむろに。何をしたかと思えば無言で身を起こし、手ごろに転がっていた腰高の岩を片手で持ち上げ、ラギメス目掛けて投げつけたのである。


 ――ばきっ!


「ちょ、あぶなっ!」

「ちっ。よけるな」

「いや! よけるでしょ!」


 残念ながら、音を立てて砕けたのはラギメスの憎たらしい顔面ではなく、空中で透明な壁に阻まれた岩の方だった。

 わかっていたことだが、実際に避けられると腹立たしさが一層募る。

 しかも普段はおちょくった言動ばかりのくせに、こんなときだけ真っ当なことを言うものだから、ますます忌々しい。


「いやいや、物理攻撃とか神の所業じゃなくない!?」

「ちっ、うるさい。黙れこの悪たれめ。おとなしく撃ち落とされろ」

「がら悪っ」


 腹立たしい指摘に淡々と返し、男は再び「ちっ」と舌打ちすると、青々と茂った地面をびしっと指さした。


「見下ろされるのは気に食わん。いまから五つ数えるうちに、その減らず口を閉じて降りてこい。いち、に……」

「相変わらず、見た目といい態度といい、尊大だよね、キミ」


 ラギメスはそんな彼に呆れたように口を曲げ、そらから「ふーん」と考えるように足をぶらつかせ、突然口角を持ち上げた。


「ははん。なるほどなるほど」

「なんだ、気色悪い」

「キミ、実は懲罰の影響で力が使えないんでしょ」

「……」

「はは! あたり? なぁんだ、僕になんやかんや言うくせに、結局自分だってアウラを悲しませているじゃん。人間なんかに惚れこんでうまく利用されちゃってさ」

「利用されてはいない」

「へぇ? 『人の身で時の法則から解放される方法はない』。『神は直接人の宿命を変えてはいけない』。その二つを知っていながら、あの魔女はキミに泣きついたっていうのに?」


 嘲笑うようなラギメスの言葉に、男はぐっとこぶしを握る。


「利用されたわけではない。わたしがそう望んだのだ」


 男の脳裏によみがえるのは、いつだって追い詰められ運命を嘆く彼女の姿だ。


『――どうしても、どうしても方法が見つからないの!』

『悠久の時を手に入れる方法が……あなたと共にありたいだけなのに。人間である私には、あまりにも時間が足りない……っ』


 悠久の時を生きる「神」である男と、定められた時の中でしか生きられない「人間」の彼女。

 男によって神の権能を与えられ、優秀な魔法使いであった彼女は……それでも、一度の人生でその方法を見つけることは叶わなかった。


 だから男は彼女のために理を犯した。


『あと少し、もう少しの時間さえあれば、きっとその方法を見つけられる』


 それがただの希望的観測に過ぎないと理解していながら、男はその言葉を酌んだ。それが彼女の願いであったから。

「回帰」という方法で時を超えさせ、彼女の宿命を変えたのだ。


 しかし、神の中にも明確なルールは存在する。

 理を破ればたとえ神であろうと、母なるアウラコデリスから罰を受けると、当然彼は知っていた。

 そして時のルールを破った彼の場合、懲罰の内容は「力と自由を取り上げられた状態で、千年もの時間を微睡みの中で見つめて過ごす」というものだった。


 千年という月日は、神であっても計り知れないものである。


 彼は愛した女性が苦悩し、絶望し、再び神の助けなくして禁忌を犯し——やがて、ある意味で時から解放されるのを見届けた。


 そのあとはただ淡々と時の流れに身を任せた。


 たった一度だけ、先祖返りとでもいうべき彼と瞳を共有する子孫が現れたときだけは、わずかな反応を返すこともあったが、男は時が過ぎるのを待っていた。

 そうしてただ無関心に揺蕩い、一つだけ後悔していることがある。


「アズラーニアでさえ、神々の定めた法則から解放されることは叶わなかった。それなのにお前は、無責任にも『見合う対価を払えば、その忌々しい法則から解放してやる』と人間に約束したな?」

「あは。言いがかりはやめてよ。僕はとっても人間びいきな慈悲深い神様だから、その方法をって約束しただけだよ。だって実はひとつだけあるでしょう? その方法が」

「……」


 飄々と言ってのけるラギメスに、男は無言で非難の意を告げる。

 その方法は男も知っている。


「因果律の『懲罰』」


 軽蔑に顰められた緑柱石の瞳を見返し、ラギメスはゆっくりと正解を口にする。


「あれなら、神の法則から解放される。なぜなら因果律の世界には、時間も肉体も存在しないから。ちょっと禁忌を犯したくらいじゃ輪廻の輪に乗って終わりだけど、多くの宿命を歪めた魂は違う。魂がすり減り完全に消滅するまで、永遠に因果律の奴隷だ」

「は、もはやそれを人と呼べるかは甚だ疑問だがな。ずいぶんと神もいたものだ」

「あははは! 人間て本当に可愛いよね。僕らがなんでも叶えてくれると思ってる。僕らはただアウラが望む世界を保つために、人の願いを叶えるふりをするだけなのに」


 声を上げて笑うとラギメスはふわりと男の元へ降り立った。


「ねえ、知ってた? キミの子供の中で、唯一生き残ったあの子が、二度もアウラに懇願していたのを」

「……」

「可愛そうに。アウラは聖女の願いしか叶えられないっていうのにね。あの子、そのときが来たら因果律に連れていかれちゃうよ」

「歪んだ宿命を正せれば、天秤は釣り合う」

「ううん? もしかして、また手助けするつもり?」


 心底不思議そうに首を傾げ、ラギメスは歩き出した男の背を追う。


「あ、ねぇ、どこに行くのさ。もしかしてそんな無力な状態で下界に降りるつもり? 力が使えないんでしょ。人間に捕まってろくなことにならないよ」

「ふん、お前ではあるまいし。そもそも元はと言えば、お前があの身の程知らずを使って、世界の正常化を図ろうとしたことがすべての歪みの原因だ。いくら我らが母上が『世界の軌道修正を』と命じられたからとはいえ、よくもわたしの子供たちの宿命をも歪めてくれたな」

「やだなあ、八つ当たりはやめてよ。あれは人間が勝手に起こしたことであって、僕が意図したことじゃないもの。それに『破壊』は僕の性なのだから、仕方がないじゃない?」


 これでも我慢しているんだよ、そう言ってラギメスが肩を竦める気配を、男は背中越しに感じた。


「破壊と創造は表裏一体だ。世界をアウラが望む姿へ戻すためには、一度滅ぼしゼロから作り替えた方が断然早い」

「ならば大洪水の一つでも起こせば、それでよかっただろう」

「でも天災よりも人災のほうがより効果が高いってわかってるでしょ。文明は人によって滅ぼされ、人によって創られる。アウラの望む方向へ導くためには、あのひとの言葉を伝える人間が、救世主として人間の頂点に立つ必要があった。まあ、創造を司る多情なキミには、理解できないことかもしれないけれどね」


 そう言って結ばれた台詞に、男はふっと足を止め静かに瞑目した。

 それから目を開けて振り返る。


「理解はできるさ、わたしも神なのだから。ただ、共感はできないというだけで」

「へえ、じゃあ見過ごしてくれるの?」

「……いや」


 その瞬間、木々の間に張り巡らされていた荊の蔓が、しゅっと音を立ててラギメスの体を拘束する。


「うわっ、た、痛っ、いたたた!」

「は、油断は大敵だぞ、ラギメス?」


 完全に不意を突かれ悲鳴を上げるラギメスに、男は初めて微笑みを浮かべた。


「見過ごしてくれるかなどと、よくもまあ戯けたことを。もしもあの子が回帰を成功させていなければ、このまま切り刻んで火の川に放り投げてやったところだ」


 ほんとうに運がよかった。そう言うと、男は笑みを消して目を眇める。


「お前に一つだけ忠告してやろう、ラギメス。禁忌の中でも因果律が最も嫌う時の回帰が成されたということは、お前のやり方が間違っていたということだ。だから今度はわたしのやり方でやらせてもらう」

「……へぇ? 世界をアウラの望む形から逸脱させたのは人間なのに、その人間に機会を与えるって? それでこの世界自体が崩壊したら、他の神々も黙ってはいないよ」

「ふん、お前は人間をなめすぎだ。もっとも、破壊しか知らないお子様には、難しい問題だったかな」

「は? いまなんて!?」


 はっと鼻で笑って告げられた台詞に、それまで余裕の表情を崩さなかった青年が初めて、ひくっと口元を引きつらせる。生まれた順で言えば、ラギメスのほうが男よりも遥かに先なのだ。

 けれど男はそれにかまわず先を続けた。


「だから大人しく静観していろ。もし今度もわたしの子供たちに手を出すならば——」

「い、たたた! これって地味に痛いって!」


 じりじりと食い込む無数の棘に、ラギメスはたまらず音を上げた。

 もともと力に差異のない神同士の場合、その空間の属性によって優劣が決定する。つまり生命に満ちたこの場所で、破壊を性とするラギメスが創造の権化たる男に叶うはずがないのだ。


「わかった、わかったよ! 今度はキミの子供たちに手を出さない。約束する。あの人間とも取引しないし、僕がキミの邪魔をすることもない! だから放してぇー」


 降参だ、と叫ぶラギメスに、男は束の間じっと視線を注ぐ。

 舌の根も乾かぬうちに態度を変えるのが、この神の常とう手段なのである。


(だが、まあ……いいか)


 小さく嘆息すると男は手を払って拘束する力を緩めた。

 しかし、まだ解放はしない。


「言質は取ったからな。もしも約束を反故にすることがあれば、たとえ消滅することになろうとも、お前も道連れだ」

「うへぇ。それだけは嫌」

「だったら大人しくしていろ」


 それだけ言うと、男は背を向けて再び歩き出した。

 迷いのない足取りは、あっという間にラギメスを遠くへ置いていく。


「……あーあ」


 ややして、緩んで離れた荊を眼差しだけで燃やし、ラギメスは手の平に滲んだ血をぺろりと舐めた。


「そう言えば、もう人間と契約しちゃった後だって、言い忘れちゃった」


 あはっと悪びれたふうもなく笑う彼の横顔は、幼子のように無邪気でありながら、その赤い瞳は酷薄なまでの光を帯びている。


「でも別に、新しい取引をするつもりはないし飽きちゃったから、まあいいよね」


 誰に聞かせるでもなく男の消えた先を見つめ、彼はそううそぶく。

 静かな森にいまは一人きり。

 不穏な呟きも、さわさわと風に揺れる木立が聞くばかりだ。


「僕がキミの邪魔をすることはないけれど、きっとあの人間はキミの子供たちを苦しめるだろうなぁ。ふふ、それって最高に楽しいね、。――キミの言う人間がどれだけ足掻くか、特等席で見物だ」


 やがてラギメスは猫のようにしなやかに伸びをすると、ふっとかき消えた。

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