第27話 『回帰』

 シアが目を覚ますと、そこは寝台の中だった。


(シーツも枕もふかふかで、石鹸と私の好きなバーベナの香りがする……)


 カエルレウス宮に用意された寝室の、最高級のベッドのようにふかふかで、一瞬すべては悪い夢だったのではないかという思いが、シアの胸をよぎった。


 もしかしたらあれは、フエゴ・ベルデの血筋に時々現れるという、予知夢の力だったのではないだろうか。

 そんな現実逃避めいたことすら考えた。


 だが、そんなものは甘い考えだとすぐにわかる。


「っ」


 体が異様に熱くて、怠い。

 遅れて訪れた、ずっしりとのしかかるような倦怠感。肌に触れるすべてが熱いような、ざわざわした不快感。

 この感覚には身に覚えがある。


(まるで風邪か、魔力の制御に失敗した時のような……)


 ——失敗、したのだろうか。


 打って変わって、一抹の不安がシアの胸に押し寄せる。だが次第に目が慣れて、ぼやけていた視界がはっきりしてくると、またもや予想が外れたことを悟った。

 回帰の魔法を失敗したわけではない。

 すべてが夢だったわけでもない。

 なぜなら——。


(手……小さい)


 持ち上げた手はどう見ても幼く、慣れ親しんだ自分のものではない。

 レースの寝間着の袖がめくれ、現れた腕は枯れ木のように細く頼りなかった。けれど自分のものだという感覚は、確かにある。

 つまり回帰には成功したが、戻る時間軸までは選べなかったということか。


(とりあえず、状況を把握しないと)


 シアは熱のせいで思うようにいかない手足を叱咤しながら、ベッドの上へ身を起こした。


「っ」


 マットレスが弾んだ瞬間、芯を失った身体がふらりとよろけたものの、どうにかこらえて薄暗い部屋の中に鏡を探す。

 と、幸いなことに。全身鏡がカーテンの隙間から洩れる月明かりを反射して、淡くその存在を主張していた。

 ベッドからのそのそと這い下り、足を引きずるようにして、シアは壁面へ置かれた全身鏡まで歩いていく。


「は、……くそっ」


 たったこれだけの動作なのに、息が上がってしまう。貧弱な体力に舌打ちを零し、シアはようやくたどり着いた鏡の前で、どさっと膝をつく。


「はぁ……」


 支えを求めて突き出した手の平が、ひんやりとした鏡面を捕らえた。思わず深いため息が漏れてしまう。


(冷たくて、気持ちいい)


 おかげで朦朧としかけた意識が、幾分かましになった気がする。

 シアは目を瞑って呼吸を整えると、パッと目を開けて鏡に映った自分を見つめた。


「……」


 薄暗い寝室の中、白いネグリジェを着た少女が絨毯にへたり込み、ぼんやりとこちらを見つめ返している。

 高熱のせいで林檎のように赤く上気した頬。とろんとして潤んだ緑柱石エメラルドの瞳。

 柔らかそうな白金の髪も、レースがあしらわれた絹のネグリジェも、くしゃくしゃにもつれ、いかにも病人らしい様相を呈している。


(病人……)


 そう思ったところで、シアははたと思い至った。


(確か……十歳の時に流感が領内で流行して、酷く患った記憶がある。つまり、十歳に回帰したってこと……?)


「は、はは……っ」


 おおよその事情が呑み込めたことで、思わず皮肉めいた笑いが飛び出した。


 ——十歳。


 喜んでいいのか、嘆けばいいのかわからない。

 シアはこみ上げた感情を呑み込むように、ぎゅっと唇を引き結ぶ。


(ことが動き出すまでに、六年。クロヴィス様に会っていいのは、もっと先)


「……長すぎるよ」


 本当なら、いますぐにでも飛んでいきたかった。

 目を閉じればいまでも生々しく、脳裏にクロヴィスの最後が蘇る。

 苦痛に歪んだあの声も。

 だんだんと命が流れ出ていく感覚も。


「……っ」


 ——会って、抱きしめて。その無事を確かめたい。

 ——あのひとを取り戻せたことを、確信したい。


(それなのに)


「失ってなんかいないと、この悪夢を消したいのに……っ」


 それは、叶わないのだ。

 掠れた声が喉を震わす。


「……あいたい……」


 けれど敵を出し抜くためには、一度目の人生から大きく逸脱しないようにしなければならない。そうでなければ未来の方向性が変わってしまうから。

 変わってしまえば、一度目の人生で得た経験がまるで役に立たなくなるだろう。


(……それだけは、だめ)


 どれほど会いたくても。どれほど不安に押しつぶされそうになっても。

 クロヴィスには、光の中を歩いてほしいから……。


「はは。それにどうせこんな状態じゃ、ろくな魔法も使えない」


 所在無げに呟くと、シアは己の両手を見下ろした。

 十歳の時点ですでに一般的な魔法は使えた。独自に改良した魔法陣を使えば、移動魔法だって遜色なく発動できる。ただ……。


(この怠さは流感のせいだけじゃない。さっきから魔力が全然感じられない)


 おそらく、魔力を生み出す器官そのものが失われたわけではないのだろう。

 倦怠感や息苦しさはあるものの、他の異常は感じられない。

 胸にぽっかりとあいた喪失感以外は、失われたものは何もない。


「膨大な魔力を有する禁忌の魔法を使ったのだもの。あたりまえだ」


 ありったけの魔力を奪われ、枯渇していてもおかしくはない。むしろ、それだけで成功したことに感謝すべきだ。


「魔力は自然に溜まる。そのための時間はたっぷりある」


 だから『会いたい』だなんて、泣き言を言ってる場合じゃない。


「いまは、やるべきことをやらなきゃ」


 十歳に戻ったということは、家族もまだ生きている。

 あの人たちを、救える。


(公爵家はクロヴィス様にとって、とても大きな力となる)


 因果律は時を歪めることを許さない。

 それと同時に、宿命を歪めることも許さない。


 人はこの世に生れ落ちる時、命の期限や役割を、女神によってあらかじめ定められている。教会はそれを『宿命』や『運命』とそう呼ぶが、思わぬ横やりによって歪み閉ざされたとき、女神の意思とは別に宿命は捻じ曲がる。


(きっと、フエゴ・ベルデの宿命は、あそこで断たれるはずじゃなかった)


「歪められた運命なら、きっと正せる」


(……そう。一度目は出し抜かれたけれど、二度目はない)


 シアはふっと微笑むと、鏡の中の自分に向かって告げた。


「きっとろくな死に方はしないでしょうね」


 自分も、テネブレ・セルウィーも。

 どちらも禁忌を犯し、因果律の天秤を傾けた。

 たとえテネブレがラギメスと契約し因果律の目をすり抜けても、いずれは捉まる。

 そしてシアも。


(一度目で生きた年月と同じ、あの日がくれば、因果律に代償を支払わなければならない)


 因果律は歪みを嫌う。シアが新たな禁忌を犯さなければ、きっとその時までは、同じだけの時間を歩ませるはずだ。


「だから猶予は、あと十二年」


 長いようでいて、きっと短い。

 でも後悔はない。


「私が後悔するのは、この人生でもクロヴィス様との約束を果たせなかった、そのときだけ」


(でもそんなことは絶対に起こらないから)


 シアは胸を締め付ける最後の記憶を追い払うように、いつかの丘で交わした会話を思い出す。


『こんな小さな世界にとどまると仰るのなら、仕方がありません。小さな世界には小さな世界なりに、幸せな未来が待っているのでしょうね。あなたと共にあれば、いずれ素晴らしい景色が眺められる。そう信じておりますよ』


「約束しましたよね、その先の未来を見せてくれるって」


 あのとき、クロヴィスは「約束はできない」とそう口にしたけれど、確かにシアは誓ったのだ。

 幸せな未来を、彼が望む景色を。


(だから私は、この選択を後悔しない)


 たとえどんな代償を払おうとも。

 

「たとえ、すべてが叶ったその先の未来に、私が存在しなくても——……」

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