第26話 始まりの終わり-2

「——っ! あの蛆虫どもが! 一度ならず二度までも……っ」


 魔塔が自らの欲のために魔法使いへ手をかけても、他者の欲を満たすために、王族を害するという禁忌を冒すはずがない——そう高をくくっていた自分の落ち度だ。

 これが魔塔全体の所業でも、ラギメスへ魂を売った黒魔法使いテネブレの仕業でも、シアには最早どちらでも構わない。


「よくも殿下に——」

「シア、か?」


 そのときクロヴィスが声をあげ、ふらりとよろけた。

 手から兵士の物と思しき剣が滑り落ち、固い金属音を響かせる。

 視界が効いていない。そう気付いたのは、彼が手で目元を押さえたからだった。


「っ」

「クロヴィス様!」


 シアは我に返ると弾かれたように駆け寄った。

 崩れ落ちたクロヴィスをその腕に抱き、共に地面へ膝をつく。


「失礼します。苦しいかもしれませんが、少しだけ我慢してください」


 怪我の程度を調べるために、シアは自らの膝の上へ彼の頭を横たえた。

 クロヴィスは意識がもうろうとし始めているのか、「ああ」と短く答えたきりで、あまり反応が良くない。

 嫌な兆候だ。


(呼吸が荒いのは、あばらかろっ骨をやられた? 肺に損傷を受けていないといいけれど)


 いくらクロヴィスがソードマスターであろうと、多勢に無勢。

 ましてや自ら手塩にかけて育てた部下たちともなれば、不覚を取ってもおかしくはない。


(指輪の守護が働かなかった? それとも、守護を破るようななにかが働いた?)


 目まぐるしく思考を巡らせながら、シアは襟元の留め具を外し、固い軍服のボタンを引きちぎる勢いで外していく。そして……。

 見つけたものに、ぴたりと指が止まった。

 代わりに掠れた呟きが零れ落ちる。


「なん、で」


 彼の首に刻まれた、黒い文様。

 それは服にも飛び散っている返り血ではなく、黒魔法の——呪いの痕跡。


「……うそ。そんなはず、ない」


 あのとき笑顔で送り出してくれたのに。

 たった数時間、離れていただけなのに。


「そんなはずない! よりにもよって『刻印』だなんてっ。こんな呪いを、私が解けないはずが——」

「シア」

「っ」


 滲んだ視界の中、死の影を宿したクロヴィスが震える手を伸ばす。頬に触れた指先は氷のように冷たい。

 それが抗いようのない結末をシアに突きつける。


「……クロヴィス、さま」


 いくら治療魔法を施しても。

 呪いに効きそうなあらゆる手段を講じても。

 彼の瞳から力が抜けていくのを止められない。


「なくな……俺は……うっ」


 ごほっと吐き出された黒い血は、やはり呪いに蝕まれた証だ。


(ああ、だめ……このままじゃ)


「クロヴィス様! もう少しだけ耐えてください。お願いですっ。必ず、私が解いて見せますから」


(たとえどんな手を使ってでも)


「だから……」


 必死に声をかけながら、シアの頭の中にいくつもの魔法理論や対抗策が、浮かんでは消えていく。


(聖魔法の応用……あれはだめ、ラギメスも神だから。いや、ラギメスを召喚し、呪いを解かせる方法は……?)


「は……むり、するな」


 それなのに彼は無理をするなという。

 苦痛に強張った口元を、どうにか微笑ませながら。これ以上は無駄なのだと、言外にそう告げてくる。


「自分の体のことは、自分が一番わかってる。だから、そなただけは、逃げろ……王室の、手の届かないところへ……」

「いやです! あきらめないでください!」


 シアは駄々をこねる子供のように、嫌々と首を振る。


「聖女を説得したんです。これからやっと、あなたの夢を叶えられるはずなのに……っ、それなのに……」


 そのとき、とうとう堪えきれなくなった涙が、無力感と共にぽろぽろと目から零れ落ちていく。


「ふ、っ」


 暑い雫が頬を伝い、触れるクロヴィスの手を濡らす。


「……全部うまくいくって、あなたとの約束を叶えて見せるって、そう……約束したのに」


 貴方を幸せにしたかっただけのに——。


「シ、ア……」


 失われていくこの命を留めることが、どうして自分にはできないのだろう。

 どうして、これほどまでに無力なのだろう。


「お願いです。アウラコデリスよ……」


(どうか、この人を連れて行かないで)


 頬から滑り落ちそうになった手を包み、シアはその手をぎゅっと握る。

 まるでそうすれば、彼の魂を引き留めておけるとでもいうように。

 そんなシアをあやすように、クロヴィスが息を止め、苦痛を押しとどめるように再び名前を呼ぶ。


「シア」

「……?」

「……約束を、守れなくて、すまなかっ……た」

「クロ、ヴィスさま」

「さいごに、もういちどだけ……笑って、くれないか……」


 ——笑って。


 掠れて消え入りそうな声でそう乞われ、シアはぐっと唇を噛む。

 喉が震えて、笑顔なんて作れない。

 それでもどうにかクロヴィスの願いを叶えるために、口角を上げる。


「こう、ですか……?」

「ああ」


 彼と過ごした日々を、この宮殿で得た大切なものを一つ一つ思い出しながら、シアは彼の記憶にありったけの笑顔を刻み込む。


「優しく愛おしいクロヴィス殿下。それがあなたの願いなら私は必ず叶えます。あなたが手の届かない所まで、旅立ってしまうその一瞬まで……」

「シ、ア……」


 やがて、クロヴィスは弱々しく「許せ」と微笑むと、静かに眠った。

 あの日と同じ、兄のように。


「クロヴィス、さま……」


 もう二度と応えてはくれない主の名を呼び、シアは彼の瞼をそっと閉じる。長いまつ毛を伏せた穏やかな表情は、まるでただ眠っているだけのようにも思えた。

 けれど、彼が再びその優しさを宿した声で、シアの名を呼ぶことはない。

 あのまっすぐなアイスブルーの瞳で、自分を見つめることはもうないのだ。


「……」


 シアはそっと、閉じられた瞼へ口づけを落とした。


「どうか、許せだなんて言わないでください」


 最後のキスは、後悔と血の味がした。


「むしろ許しを請うのは私の方——」


 激情が過ぎ去ると、なぜかシアの胸は凪いでいた。

 シアはぽつりぽつりと、クロヴィスへ聞かせるように語り掛ける。


「何のために、自分がこれほどまでの魔力が宿しているのか、ずっと疑問でした。肝心な時に、誰の命も救えないというのに。でも、いまわかった気がします」

 ずっと不幸の原因でしかないとまで思っていたけれど、この力があれば過去を変えられる。


「……たとえどんな手を使ってでも」


(そう、まだ、遅くはない。別れを告げるには早すぎる)


「先に禁忌を破ったのはあいつらだもの。私が犯していけない道理はない」


 涙にぬれた眦から、最後の雫が零れ落ちたその瞬間。

 シアの体から仄白い魔力が解き放たれた。

 強大な魔力を練り上げた魔法陣が描くのは、回帰の魔法。


(禁忌を犯せば因果律に罰せられる。けれど、発動する魔力さえあれば、神の領域を犯せないわけじゃない)


「だから待っていてください殿下。たとえ禁忌に手を染めても、私があなたを幸せにしてみせる」


 複雑な円を描く魔法陣が完成したのを確認すると、シアはすべての魔力を解放した。

 この魔法が成功するかは賭けだった。


「はは、本当にごっそり魔力を持っていかれる」


(でも、失敗してもどうせ死ぬだけだもの。だったらやって死んだほうがいい)


 フエゴ・ベルデは妖精の子孫だ。

 その血と肉と魂だけでも、ただの人より価値がある。


(だから、私のすべてを代償にして——) 


 その瞬間、陣がカッと凄まじい光を放ち、意識が魔力の渦に呑まれはじめる。

 それと同時にようやく王宮の人間が異変を感じたのか、それとも、テネブレが新たな刺客を差し向けたのか。

 どこかで切迫したようなひとの叫ぶ声が聞こえた。


 けれど、もはやシアにはどうでもよかった。


(あとはただ流れに身をゆだねるだけ)


 混濁していく意識の中でなにか優しい腕に抱かれたような、そんな心地よさを覚えながら、やがてシアはすべてを光に手放した。

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