第25話 始まりの終わり-1
『貴女の道に、光あらんことを——』
あれほどまでに警戒していたというのに、目的を達成してみると拍子抜けするほどに、聖女アストレアは快くシアを受け入れた。
とはいえそれは、彼女曰く『女神の神託』があったおかげでもあったが。
忍び込んだ時と同じ。
張り巡らされた神聖力の罠にかからないよう、魔法は使わず慎重に大門へと急ぎながら、シアは聖女とのやり取りを思い返す。
シアの来訪を待っていたという聖女は、静謐に満ちた大聖堂の祈りの間で、一人祈りを捧げていた。
本来護衛として扉の外で控えている聖騎士の姿もなく。人払いをした最奥の部屋で、ひっそりとその時を待っていたのだ。
女神像の前に跪き祈りを捧げる姿は、噂に聞く『聖女』そのものだった。
穢れなき白き衣を纏った天使。
敬虔なる女神の代理人。
シアがわざと音を立てて背後から歩み寄ったとき、聖女は静かに立ち上がり、微笑みを浮かべてこちらを振り返った。
「『真実を正せ』という女神様のお言葉の意味が、いまわかりました」
シアと同じ年頃のその女性は、『女神の代理人』というにはどこか愛らしく、けれど『聖女』と呼ぶにふさわしき清廉さを湛えていた。
東部人に多い平凡な榛色の髪。健康美で知られるベージュ色の肌。
ありふれたその中にあって、唯一異彩を放つのは『神の目』ともいうべき、金色の瞳か。
女神像の左右に灯された大きな蝋燭が、ゆらりと風に揺れる。
それに合わせて、自ら輝きを放つように揺らめく黄金の瞳は、息を飲むほどに美しかった。
すべてを見透かすような澄んだ色合いと視線が交差した瞬間、シアは不覚にも言葉を失ってしまったほどだ。
清濁を知る思慮深さに、好感と、憧憬すら抱いたかもしれない。
ともかく、虚栄で固めたタリア・モルゲナーダとは明らかに違う。
彼女は本物の慧眼と正義を宿した、その呼称の通り『聖女』であった。
だからこそシアの説明を的確に理解し、王宮で起きている異変を察知することが出来た。
(聖女、いえ……アストレア様から言質は貰った)
「必ずや教皇庁を説得し、二日後に開かれる第一王子殿下の審問会へ出席いたしましょう」
アストレアからそう告げられた時、シアはよほど奇妙な表情をしていたのだろう。彼女は穏やかに笑うと、こう告げた。
「貴女の道に、光あらんことを——」
それと共に体の芯が温かくなり、朧げに感じていた疲労がふっと消えてなくなるのがわかる。
「これは……」
「わたしの力をほんの少しだけ、シア様の中に注がせていただきました。お話を伺うに黒魔法使いと対峙する機会があるのなら、少しでもお役に立てるでしょう」
ただ、とアストレアは不意に顔色を曇らせ、どこか遠くを見つめるような眼差しで続ける。
「なにか、不穏な気配を感じます。胸騒ぎのような……もしかしたらすぐにでも、王宮へ戻られたほうがよろしいのかもしれません」
* * *
「雨の匂いがする」
薄闇と静寂に閉ざされた大聖堂の最奥にいた時はわからなかったが、重い湿気を帯びた雲が昼の空を覆っていた。
一般の参拝者にも開放されている、中庭を囲うように張り巡らされた回廊へ出ると、シアは一度空を見上げた。他にもちらほらと、同じように空を眺めている姿がある。
(嵐になるかもしれない)
どこからともなく吹く生暖かい風に、妙に心がざわめく。
「……」
シアは不安に駆り立てられるように再び歩き出した。出来るだけの早歩きで人の波をかき分け、祈りを終えた人々に紛れて出口を目指す。
幸いにして人出の多いこの時間帯は、同じようなローブ姿の参拝者でひしめき合い、急ぐシアに注意を払う者はいない。
そして大聖堂の敷地から抜けるなり、忠告に従い急いで魔法陣を展開させた。目的地は当然、クロヴィスの待つカエルレウス宮だ。
(アストレア様が急げと言ったのだから、きっとなにかが起こるはず)
聖女は常に女神と繋がっている。何かの予兆を察知していてもおかしくはない。
それにシアの胸に居座る不安は、クロヴィスの元を発ってから一層強くなっていた。
(……何事もなければいいけれど)
はたして、戻ってきた王宮内は特に異変はないように思えた。
インクと紙の匂いが満ちた執務室も、いつも通り。
しかし。
——なにかが、どこかが……違う気がする。
はっきりとは掴みきれない違和感に、シアの心臓がドクドクと不穏な鼓動を刻む。
「……クロヴィス様は、どこに?」
いつも見慣れた場所に彼の姿はなかった。そればかりか、ジュノーも、アイガスも……リフやザノックスの姿もない。部屋の中はもぬけの殻だ。
(あのすこし意地悪な口調で「待ちくたびれた」と、出迎えてくれると思っていたのに……いったい、どこへ……?)
足元から這い上がる恐怖に、シアは、はっと息を吐く。
「は、はは」
(恐怖? この私が、恐怖を感じているって?)
それこそが違和感の正体だ。
——誰の気配も感じない。
この宮殿、全体から。
「そんなのあり得ない」
(だって、それは、つまり……っ)
すっかり冷え切った指先を握りしめ、シアは所在なく自らの親指を見下ろす。
対を失った指輪。そこへ、一つの可能性を重ねてしまう。
(……いや)
その先は、まだ言葉にはしたくない。
「クロヴィス様——……」
シアは祈るように、その名を口にのぼらせる。と、その時だった。
慣れ親しんだ気配が、微かに意識の隅へ感知できた。
(でもなぜ、そんなところに?)
「演武場……」
戸惑ったのは一瞬だ。
シアは矢も楯もたまらず、希望にすがるようにその気配をたどる。
そして。
「——っ!」
向けられた氷のように冷たい双眸と紛れもない殺意に、とっさに体が反応する。
引き抜いたナイフで鋭い剣戟を受け流し、シアはふいに、言葉を失った。
「それ、は……っ、それは何です……」
首筋に突き付けられた剣よりも、向けられた感情と血に濡れたクロヴィスの姿が、シアの心臓を締め付けた。
「いったい誰と接触したのです! それに、ジュノー卿は——」
叫んだ声はもはや悲鳴に近かった。
クロヴィスの顔色は青白く、押し寄せる苦痛に耐えるように呼吸が浅い。
指輪の守護があるおかげで、それが返り血なのだとわかっていても、服を濡らすほどの夥しい血の跡に、抑えきれない恐怖がこみ上げる。
(それに纏わりつくように残されたこの臭いは……)
——ラギメスの、あるいは、穢れて歪んだ魔力の臭い。
クロヴィスのそばへ、いつだって影のように付き従っていたジュノーがいない。
皮肉さえなければ頼りになるアイガスも。可愛い顔をして少し容赦がないリフも。冷静で的確な判断が下せる、ザノックスも。
誰一人見当たらない。
その理由はクロヴィスと、その後ろに広がる惨状を目にすれば明らかだった。
青の騎士団員と思しき者たちが、血に濡れた状態で転々と地面に倒れ伏している。昏倒しているだけの者もいるし、鋭い一撃で絶命している者もいる。
だが、皆一様に共通しているのは……。
(クロヴィス様に忠誠を誓った騎士たちが、主君を攻撃した)
それはまるで、『あの日』の再現のようだった。
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