第24話 駆け引き-2

 またがったシアに見降ろされ、背中にシーツとふかふかなマットレスの感触を覚えて初めて、クロヴィスはベッドの上へ転移し転がされたのだと気づいたようだ。

 呆気にとられた無防備なその表情は、初めて目にするものだった。


「おやおや。クロヴィス様こそ、迫られることに慣れていらっしゃらないご様子」


 シアは思わず興が乗り、ついつい軽口をたたいてしまう。


「ふふふ。そういえばお忘れではありませんよね? 例の支払いがまだだということを」

「……」

「非を認めないと後悔すると、忠告は致しましたし……いっそこの機会に、支払っていただくのもいいかもしれませんね」


 微笑み、意味ありげにつうっと爪で彼の唇の縁をなぞる。

 その誘うような仕草に、寛げた首元から覗くクロヴィスの喉が上下に動く。

 シアはそれを緊張と受け取った。これはやばいと、貞操の危機をようやく肌で感じ取ったのだろう。


(私が本気かどうかなんてクロヴィス様にはわからないわけだし、なめられたままじゃ癪だもの)


 もうちょっとその澄ました表情から、余裕を奪ってやりたい。

 挑発的にそう思う一方で、少しだけ物悲しくこうも思う。


(まあ、結局は「ふざけるのは終わりだ」と、振り落とされちゃうんだけどね)


 これまでも散々、シアはこのネタで彼を揶揄ってきた。そのたびに、むすっとした表情で撥ね退けられ、追い払われたものだった。

 だから……。


「それもいいかもしれないな」

「え……」


 穏やかな声でそう告げられたとき、シアは完全に虚を突かれた。


「わわっ」


 ほんのわずかな隙を突かれ、視界がくるっと反転する。


「——!?」


 たったその一瞬で、シアは簡単にシーツへ両手を縫い付けられてしまう。


「形成、逆転だな?」


 そして何よりもシアの動きを奪ったのは、視界に広がったクロヴィスの偽りのない笑顔だ。

 やはり少しだけ意地の悪いその笑みは、美しくて眩しくて、にじみ出る優しさを宿している。

 いつか見てみたいと思っていた、彼の心からの笑顔に、シアは喜びよりも驚きを感じてしまう。


「どうして……」

「ん?」


 これまでの日々で、二人の距離が次第に近づいていたのには気付いていた。けっして穏やかとはいえないときもあったけれど、確かに着実に、変化していた。


 軽蔑する存在ではなく。

 警戒しあう主従ではなく。

 恋人というほど甘くはないけれど……微かな信頼の上に成り立った友情へと。

 が、どうして。

 彼が微笑むとは思ってもみなかった。


(ましてやあれほど軽蔑していた条件を、笑って「それもいいかもしれないな」だなんて……)


「どうして心変わりなさったんですか。クロヴィス様は……」

「シア」


 クロヴィスはシアの名を穏やかに呼ぶと、水色の瞳を細めシアの耳元でそっと言葉を紡ぐ。


「あのとき提示された報酬は『一晩この俺を自由にしたい』だったな?」

「っ」


 吐息と少し掠れたその声に、シアは思わず、は……と息を洩らした。遅れてさざ波のような興奮が肌の上を滑り、くたりと体から力が抜ける。


「別に心変わりしたわけではない」

「……?」

「いまも一方的に好き勝手されることには抵抗がある」

「それ、は……」


 シーツに押し付けられた手をほどかれ、指を絡めるように繋ぎなおされて、シアの鼓動が跳ねる。

 それは大切なものに触れるように、優しすぎる手つきのせいだけでもなかった。

 己の頼りない姿が写り込むほど、間近から見下ろしてくる淡いブルーの虹彩に、紛れもない、慈しみにも似た柔らかな感情を読み取ったからだった。


「だから条件を変える」


 彼が更に顔を寄せる。

 その拍子にさらりと零れ落ちた黒髪が額を掠め、体がじわりと熱くなる。

 クロヴィスの髪か、それとも香水をつけているのか。バーベナの爽やかな香りが、逞しい体から発せられる熱と共に、シアを捕らえるように包み込む。


「条件?」

「ああ」


 掠れたシアの問いかけに、クロヴィスが物憂げに瞳を細める。


「お互い平等に」


(それは、つまり……)


「嫌なら、いま、俺を止めろ」


 シアはその台詞へ頷く代わりにつないだ手を握り返し、けぶった瞳を正面から見つめ返す。


 嫌なはずがない。

 止められる気がしない。


「……」


 それから答えを込めて微笑み、シアは近づいてきた唇へそっと瞼を閉じた。


 * * *

 

「そなたの瞳は、まるで人を惑わすという妖精の瞳みたいだな」


 微睡むような気だるさの中で、優しい声がそう告げる。


「んんん?」


 くしゃくしゃにもつれた髪を撫でる手が心地よく、シアは眠たげな声を上げた後、ふふっと小さく笑み崩れた。


「男性はベッドの上だと口が軽くなると聞いたことがありますが、どうやら本当だったみたいですね」

「なに?」


 その台詞に虚を突かれたように、一瞬だけ手が止まる。それから再び動きだしたとき、笑み交じりに呟く声が聞こえた。


「そうかもしれないな」


 くつくつと喉の奥で笑う姿は、まるで少年のように屈託がなかった。


「不思議だな。エメラルドの中に金の光彩が入って、濃いところもあれば薄いところもある。燃える火のようにいつまででも見つめていたくなる、不思議な色合いだ」

「……」


 できることならシアも、いつまでもそうしていたかった。

 穏やかなアイスブルーの瞳を見つめ、バーベナが優しく香るその腕の中で、いつまででも熱を感じていたかった。


 けれど、時は刻々と迫っている。


「一日と半日だ。それ以上は待てない」


 着替えをすませ彼の前に立ったシアへ、クロヴィスは重い口調でそう告げた。

 本当は行かせたくないと顔に書いてあったが、彼は約束通り、引き留めたりはしなかった。

 だからシアも約束する。


「一日です、クロヴィス様。日付が変わる前には、あなたの元へ戻ってくるとお約束します。たとえ結果がどうであろうと」

「ああ」

「それから、目を瞑っていただけませんか?」

「ん?」


 訝りがりながらも、クロヴィスは言われた通り、目を瞑った。

 シアはその間に、自らの左の親指から対になった指輪を一つ抜き取り、それをクロヴィスの小指へとはめる。

 魔法が込められた金の指輪は、クロヴィスの指のサイズに合わせ、誂えたように形状を変えていく。


「これは?」


 いつの間にか目を開けていたクロヴィスが、興味深げに自分の小指を見下ろしていた。


「我が一族に伝わるお守りです。故郷では子供の健やかな成長と安寧を願って、守護の魔法を込めた指輪を作ります」

「二連あるのは?」

「その子供が大人になり、伴侶ができた時に。遠く離れていても自分の代わりとなり、大切な人を守ってくれるようにと、お守りとして渡すためです」

「……結婚指輪のようなものか」


 ぽつりと落ちた呟きに、シアはきょとんとし、それから声を立てて笑った。


「ははっ、左の薬指にはめればそうなりますね。ともかく、物理的な攻撃からはこの指輪が守ってくれます。しかし、黒魔法使いは例外です。あれは理論を捻じ曲げたものなので、魔道具程度では防げません」


 それから、シアは指輪がはまった方の手を取り、クロヴィスの小指に口づけを落とす。


「小指は約束の指です、クロヴィス様。なによりもご自分を大切にすると、いざとなったら私を呼ぶと、そう約束してください」

「……ああ、必ず。そなたも無茶だけはするな」


 そう言うとクロヴィスは名残惜し気にシアを送り出した。

 



 クロヴィスの寝室から移動魔法で飛んだシアは、一度王宮全体を見通せる城壁の上に降り立ち、カエルレウス宮を振り返った。


 ——まるで牢獄だ。


 王の住まいである宮を右手に、荘厳な佇まい見せるクロヴィスの住まいは、歴代の第一王子が下賜されてきた由緒ある宮殿である。にもかかわらず、シアには豪奢で立派なこの建物が、クロヴィスを捕らえ闇へと呑み込む、牢獄に思えてならなかった。


 それになぜだろう。


(嫌な胸騒ぎがする)


 この王宮全体に、あの夜と同じ、生ぬるくそれで背筋がざわつくような妙な空気が満ちている気がする。

 まだ明けきっていない夜の空気が、そうした錯覚を思わせるのだろうか。


(できるだけ早く戻ろう……)


 シアは最後にクロヴィスの寝室がある二階の窓を一瞥すると、大聖堂へと向かった。

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