第15話 『禁忌』と『因果律』-2

「四年前、レモラ・エヴァンズという者もラギメスと契約を試みましたが、因果律に飲み込まれたところを見ると、失敗に終わったようです。魔道の神ラギメスと契約した魔法使いのことを『黒魔法使い』とそう呼びますが、そもそもラギメスとの契約は、人が想像するよりもずっと困難なのですよ」

 

 ラギメスは魔道の神として身近な存在ではある。が、神であることに違いはない。

 この世界の創造主であるアウラコデリスと、意思の疎通が図れるのは聖女ただ一人であるように、ラギメスにたどり着ける者もまた、稀有な存在なのである。

 

「ただラギメスは混沌と争いを好み、気まぐれに人間の前に現れます。対等な契約が交わされるかは別として、因果律を出し抜いて禁忌を犯す方法を、欲深き人間の耳に囁くのです」

「つまり、悪魔のような存在というわけか……」

 

 納得したように呟くと、クロヴィスは何やら考え込むそぶりを見せた。

 一方で、アイガスやリフたち側近は、理解が追い付かないようで渋い表情だ。

 

「うむむ。ちょっとまて。黒魔法は単に、教会が禁じている魔法の一種ではないのか? そもそもその、因果律とか禁忌と言うのは、いったいなんなのだ」

「ゲッシュのような、魔法に関するものでしょうか?」

「……」


(そっか)


 これが普通の反応だ。

 困惑のにじんだ呟きを受けて、シアはようやくあることに思い至る。


(クロヴィス様が普通に話についてくるから、ついついそうだとばかり思っていたけれど)


 魔法使いの家門に生まれたシアや、王国の知識と呼ばれる王族専用の書庫を利用できるクロヴィスはともかく。

 彼らにとって魔法とは、限られた人々が生み出す奇跡に過ぎないのである。


(理論やタブーを理解したところで魔法が使えるわけでもなく、人の身で神が定めた『禁忌』を犯すことなど不可能だもの)


 便利な力、もしくは奇跡のような力だと理解していれば事足りる。


(それに王都では魔法使いの価値を高めるために、永い年月をかけて魔法に関する物を、魔塔が制御してきたんだっけ)


 すっかり忘れていた。

 魔塔は魔法に関するあらゆる書物を買い上げ、市井の人々から触れる機会を奪ってきたのだ。

 その理由を『貴重な資料を保護し、後世へ残すため』だとしているが、実際は実益のためだろう。

 人々が魔法に対して無知であればあるほど、魔法使いへの尊敬と価値が高まるのだから。


 さて、どうしたものか……。


(あれはちょっとやそっとで説明できるものじゃないし)


「うーん……」


 シアは悩んだ末に、アイガスたちでも一度はその内容を耳にしたことがある、教会の教本『神聖録』を元に、要点をかいつまんで説明することにした。


「ゲッシュとは、簡単に言えば『言葉の力を利用した女神への誓い』。誓う内容がより困難であったり崇高であれば、女神の加護はより強固なものになります。一方禁忌は、人の身でありながら女神の権能に似た異能を持ってしまった魔法使いへ、神々が課した犯すことの許されないタブーをさします。どちらも破れば大いなる災いが降りかかる」


 そしてラギメスが混沌と争いを好む魔道の神ならば、因果律は世界を正しく構築する秩序の神。


 因果律は右手に天秤を、左手に剣を掲げ、両の目を布で覆った女神の姿で描かれることが多い。

 これは視覚を失うことで感覚を高め、公平な裁きと情のない懲罰を行うことを意味する。

 因果律に意思はなく、ただ世界の均衡を保ち、均衡を崩すものを排除する存在、というわけだ。


「教会に伝わる『神聖録』によれば、因果律は秩序の監視者。右手に掲げる天秤が均衡を失った時、この世界の崩壊が始まるとされています。そして、その均衡を崩す一端がすなわち、魔法による『禁忌』であると」


 ――残虐な悪意を持て、魔法を行使してはならない。

 ――死者を蘇らせてはならない。

 ――魂を操ってはならない。

 ――時を超えてはならない。


「四つの禁忌の内、特に『魂』と『時』は神の領域。そこへ人が手を出せば、均衡は揺らぎ因果律は歪みを正そうと元凶を排除する。そこで、ある魔法使いはラギメスを召喚し、教えを請いました」

「禁忌を犯しても因果律から逃れる方法を……?」

「ええ」


 小さく呟いたジュノーへ、シアは頷きかける。


「『因果律の掲げる天秤の受け皿に、禁忌と同じだけの代償を乗せろ』」


 それがラギメスの提示した方法だった。


「ただし人の身で、神の采配を理解するなど不可能です。だから禁忌を犯すために、人はラギメスと最初に取引をする。『禁忌の代償を代わりに捧げてもらう対価に、神が望むものを支払う』とね」

「なぜそんな回りくどいことをするのだ? ラギメスも神ならば、願いそのものを叶えてもらえばいいだろうに」

「それは、ラギメスも混沌を愛するとはいえ、神だからですよ」

「どういうことだ?」

「母なるアウラコデリスが見守るこの世界が、崩壊すると知っていて、自らの手で均衡を崩す神はいないということです」

「???」


 シアの説明でさらに混乱を深めたアイガスは、乱暴に短髪をかくと「わけがわからん」と小さくぼやく。

 その一方で、合点がいったようにジュノーがはっとした表情を見せる。

 ひじ掛けに頬杖をつき、静かに耳を傾けている主君へ向ける視線には、確かに理解が現れている。


「……だから、悪魔なのですね。ラギメスは最初から正しく取引をするつもりなどない。ただ甘い蜜をちらつかせ、人間が振り回される様を楽しむ……」

「そう。ただしラギメスは、禁忌のすべてが世界の均衡を壊すわけではないと知っているので、気まぐれに人の願いを叶えることもあります」


 もちろんラギメスと取引をした時点で魔力は穢れ、彼との契約の証としてその魂に印が刻まれる。

 神の中にはラギメスの邪悪さを嫌うものもいるので、下手をしたら因果律に捕まる前に、別の神から天罰を受けることも時にはあるという。


「その対価は?」

「え?」


 不意に問われ、シアは首を傾げる。


「その魔道の神とやらに捧げる対価とはなんなのだ?」

「ああ、ラギメスへの対価は……」


 テネブレが願いを叶えてもらう対価に、ラギメスへのか。

 それをシアは知っている。


 無意識に、左手の親指にはめた二連の指輪をそっと指でなぞる。

 それから淡々と答えを口にした。


「『人』であることが多いですね」

「な、なに?」

「人?」

「ええ、いわゆる生贄というやつです。ほら、物語や演劇の中でも、悪魔に願いを叶えてもらうために、生きた羊や人間を捧げる場面があるでしょう」


 あれと同じです、とシアは皮肉に唇を歪め肩をすくめる。


「……そんなことが本当に」

「本当に起こっているのですよ、アイガス卿。ただし、ラギメスは気まぐれであり、混沌と破壊を好むので、対価は魂や肉体だけにとどまりません」


 人の恐怖や絶望、悲鳴……そういったものも対価になり得る。


「場合によっては戦争や殺戮なども範囲内ですね」

「戦争や殺戮……」 

「要は、ラギメスの気を引いて、彼を満足させられるものであればいいのです」


 シアが話し終えると、あたりはしんと静まり返ってしまった。


「う~ん……そんなにも衝撃的な内容でしたか?」


 あえて明るく聞いてみたものの、答えはあまり期待していない。

 だが、ややあってクロヴィスが口を開いた。


「なんにしろ、黒魔法使いは倫理から外れた異端者だ。これ以上野放しにして犠牲者を出すわけにはいかない。そして犠牲となった者たちが、歴史の闇に葬られることもあってはならない」

「……」

、真実を明るみに出し、報いを受けさせることはできるのだからな」

「!」


(その台詞……)


 淡々とした表情からは相変わらず心情が窺えない。が、凍てついた北部の冬の空のように美しい彼の瞳には、少しだけ――そう、ほんの少しだけ、感情の火が灯っている気がした。


 それに何よりも、いつかのシアのセリフを引用した彼の言葉は、己へ向けられている、そんな気がする。


「テネブレ・セルウィーが魔道の神に何を捧げたのか、いずれすべてが明るみに出て、正しい裁きがくだされるだろう」


(つまり、あなたが……そうするってこと?)


 真実を明らかにし、テネブレへ裁きを下す。

 歴史の闇に葬り去られた犠牲者フエゴ・ベルデの、尊厳を取り戻すことも……。

 公爵家が滅んだあと、人々は聞き知ったことだけを脚色して面白おかしく噂した。


『あのフエゴ・ベルデが、一夜にして炎にのまれ、屋敷ごと何もかも消えてしまったそうだ』

『たった一人の生存者もなく、まるで世界がその存在を消し去ってしまったようだったというじゃないか?』

『ああ、恐ろしや。彼らがただの出火で滅ぶまい』

『教会の教えでも、悪き魂は聖なる火の川によって清められるという。ならばこれは……』


 ——呪いか、天罰か。


 恐れと皮肉の混じった噂の中、公爵家の死を悼んだのは、真相に辿り着いたほんの一握りだけだった。

 しかし彼らでさえも、王后ひいてはルヴォン侯爵家の影響力を恐れて、真実を追求しようとはしなかった。いや、出来なかったと言う方が正しいのか。


 彼らにも守るべき人たちがいる。

 王権すらも掌握しようとしている王后が、反逆者をどんなふうに処理するのか。公爵家に襲いかかった悲劇を知った後となっては、嫌でも、自分たちの未来を重ねずにはいられなかったのだろう。


 つまりあれは、反抗的な姿勢を見せる一部の貴族へ対する、警告でもあったのだ。

 飼い殺せぬ駒はいらない。生き延びたければ己の部をわきまえ、賢く立ち回れ——と。

 だから、もしも王后を追及できる立場の者がいるとすれば、それは……。


(クロヴィス様、ただ一人。……でも)


 クロヴィスにとって王后は母親だ。

 その母親を、彼は自らの手で絞首台へ送ると言うのだろうか。


(テネブレの犯した罪を暴けば王后の罪もまた暴かれる。そうなればいくら王后といえども教会の裁きからは逃げられない。待っているのは身の破滅……)


 シアは問いかけるように視線を向ける。


 だがやはり、凪いだ湖面のように穏やかなアイスブルーの双眸は、真っ直ぐシアを見据えるばかりで、澄んだ青の中に迷いも葛藤も見られない。

 かえってそれが、彼の答えのような気がした。


 ――いずれすべての真実を白日のもとへ晒し、正しい裁きを下す。たとえ相手が、誰であっても。


 眩しいほどに揺るぎない瞳は、そう告げている気がした。

 それと同時に、シアはあることにも気づいてしまった。彼が頑なに、シアとの契約を拒んでいた理由に。


『俺にとって、そなたは必要ない』


 その後にはきっとこう続く。

 ――これ以上無用な争いに巻き込むつもりはないから。


(……あ、天邪鬼すぎるでしょ!)


 最も、クロヴィスがシアを気遣って、自分を巻き込まないように遠ざけたと、自惚れるつもりはない。

 おそらくその真意の九十九パーセントは、得体の知れないシアに関わって引っ掻き回されても面倒だ、と思ってのことである。


 でも。


(少しは……一パーセントくらいは……私のことを気にかけていたってこと?)


 その可能性に気付いてしまった瞬間、思わずきゅっと唇を引き結んだ。こうでもしないと唇の端がピクピクしてしまう。


(あんなにも澄ました顔をして『お前には興味がない』って、はっきり拒絶していたくせに……そう。ふうん?)


 思えば彼はシアのことをよく知っていた。『白い悪魔』と呼ばれる今の彼女のことだけでなく、その過去すらも。

 それはつまり、歴史の闇に葬り去られた部分まで全部、調べたからではないだろうか。、はずの興味を惹かれて。


「……」

(ああ。なんだかジワジワくるなあ、もう)


 正直ちょっと、反応に困るので、不意打ちはやめてほしい。

 こんなふうに心の内を垣間見せられると、驚くし、どう反応していいかわからない。

 ——この私が、だ。


 にやけているような、それでいて、むっとしているような……。自分が妙な表情を浮かべている自覚はもちろんあるので、さりげなく片手で口元を覆い隠す。

 だが幸いにして、周囲は「黒魔法使いにどう対抗しうるか」に沸いていたので、誰もシアの動揺に気付いてはいないようである。


 だからこっそりと息を吐き出した。

 それから、にっといつもの作り笑いを浮かべて会話に混ざる。


「みなさん、有意義な案が出たところ申し訳ないのですが、黒魔法使いは対策を立てたところで、どうにかなるものではありませんよ」

「なに……?」

「私と同格の魔法使いか、神聖力のある教会関係者ならともかく。オーラを扱えるだけのに魔法は無効化できません」

「なんと! 小娘っ、きさま……」


 わざと凡人と強調して言えば、予想通りアイガスが噛みついた。


「まあ、殿下ほどの実力であれば、察知できるかもしれませんが」


 それを無視して、シアはクロヴィスへ片目をつぶってみせる。

 当然のように呆れたため息が返ってきたが、シアは気にしない。


「では仕方がないな。……対抗しうる手もなく、テネブレが姿をくらませている以上、今回の襲撃との関連性は立証できない。なによりも、魔道具は傭兵が所持していたのだ。ただの事故で片付けられるだろう」


 それでこの話は終わりだとばかりに、クロヴィスは再び書類へと手を伸ばす。


「明日からはまた野営が続く、休める時に休んでおけ」

「うぬぅ……」


 家臣にはこれほどまでに優しい言葉をかけるのに、なぜ自分自身には無関心なのか。

 焦れた思いで主へ異論の声を上げたのは、普段から口うるさいアイガスだけではなかった。


「ですが殿下っ。相手は教会が指定した黒魔法使いですぞ! 殿下も危険にさらされたのに、このまま事故で済ませられるはずがありますまい」

「そうです。それでなくともインバルの首を二つも上げたのです。もはや殿下が王太子に選ばれるのも時間の問題」

「王国の後継者を狙った不届者となれば、陛下も当然魔塔を厳しく追求してくださるはず」


 力強い口調で語る側近たちとは対照的に、クロヴィスはあまりにも無感情だ。

 書類を片手に側近たちを見つめる眼差しは、どこまでも凪いでいる。

 そのそばでは、浮かない顔のジュノーが沈黙を貫いていた。


「……」

「これでもまだ陛下が立太子を先延ばしにされるようであれば、わしらも大人しくはしておられませんぞ! おそらく廷臣たちも、今度こそ黙ってはいないでしょう」

「順調にいけばこの旅もあと二週間ほど。殿下が凱旋し王都が歓喜にわけば、陛下も民の声を無視できますまい」

「……だと、いいがな」


 まるで感情へ蓋をするように。

 瞼を伏せて呟かれたその意味を、シアたちが知るのはもう少し後のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る