第弐話
台所で安星のために残り物を貰っていると楼主の声が聞こえてきた。雪白を身請けしたいという客が現れたそうだ。雪白は勝ち気な態度だが、豊満な女らしい体つきで人気の女郎だ。それを身請けするのだから、相手は大店に違いない。
しかし、妹女郎から話を聞いた雪白は仏頂面だった。
「身請けなんて、男が勝手に決めたこと。それで一生籠の鳥。御免さ、そんなのは」
「よきことでござりんす、ここを出て食べるには困りんせん」
「食えさえすりゃあいいのかい。あんたはいつもそう。『この男と一緒になりたい』と、そう思ったことはないのかい」
芳紀の顔がかあっと熱くなる。安星の穏やかな寝顔がまざまざと目の前に立ち上って、胸がはち切れそうに苦しい。
思わず俯いた芳紀を尻目に、雪白は頭に飾っていた椿を花瓶に挿した。白い花がすっくりと立っている。
「長兵衛でありんす?」
「そうさ。愛しい人からさ。身請けなんざまっぴら。どうしてもと言うなら、夜逃げでもするまでさ。
女は花だよ。だったら、己の好きなところで死ぬ瞬間まで咲き誇ってやるさ」
雪白は力強く告げると、煙管に火をつけ、長々と竜のように煙を吐き出すのだった。それは芳紀の目にはまるで抜き身の刃のごとく、強く美しく映った。
安星を匿ってから、客の帰る頃合いを見計らって納屋に飯を運ぶのが芳紀の日課となった。隙間風の入る狭い納屋に閉じ込められているというのに、安星は文句も言わずに観音様のような微笑みを浮かべ続けていた。芳紀はそれを見る度、穏やかな気持ちになり安心できた。
芳紀は幼い頃は食べることに必死で、長じては遊郭から離れられず、世間を知らない。そのことを聞いた安星は旅で見聞きしたことを話してくれ、それが芳紀の楽しみとなった。
「常陸の国では、大きな魚を見た。鯨と言って、府中の天守閣まで届くほど大きいのだ」
「馬鹿なことをおっしぇす。そんなに大きな魚――」
芳紀には信じられない。府中の町で暮らしてきた芳紀にとって、時の将軍家康が居た駿府城は雲つくほどに大きく見えていた。それと同じ大きさの魚などいるとは思えない。
「真だ。並んだ舟が赤子にしか見えぬ。口を開ければ人など丸呑み。これが頭から潮を吹いたりする。滝をひっくり返したような勢いでな。海の化け物よ」
安星の言葉を頼りに必死に「鯨」を思い描こうとするが上手くいかない。
「いつか見てみたいでありんす」
「見られる。必ず」
その時、隣に安星がいて欲しい。芳紀は強く、強くそう思ったが口には出せず顔も見られなかった。
安星は一週間で歩けるまでに癒えた。ぐるりと納屋の内側を歩く壮健な姿に芳紀は嬉しくなると共に、安星が手の届かぬところに行ってしまうのではないかという怖れが胸に澱むようになった。
あまりにも脆く美しい男。目を離していると霞のように消えてしまうのではないかと思い、ついに夜が明けると化粧も落とさず芳紀は納屋へと駆け込んだ。
紅色に咲き乱れる牡丹柄。艶やかな着物姿にほうと安星が感嘆の声を上げる。彼がそこにいたこと、自分に感心したことが嬉しくて頬が緩む。
「お主さん、ここにずっといておくなんし」
「――それはできぬ」
「なぜでござりんす?」
「わたしは信濃の善光寺に参らねばならぬ。殺めた者のために、仏にお願いせねばならぬ」
物騒な言葉に芳紀が固まる中、安星は
彼が侍の家に生まれたこと。父が酒の席で切られ仇討ちをせねばならなかったこと。
「仇はこの手で取った。それはお上も認めた武士の誉れ。しかし、経緯はどうあれ人を殺めたことは気が咎める。そこで奴が往生できるように善光寺参りという次第」
年若い安星を朝日が照らす。穏やかな佇まい。己の所業を飾り立てたりしないその実直さが好ましかった。
太平の世で仇討ちは一番の手柄。他の侍ならば、色をつけて吹聴して回るだろうに、安星は淡々と話している。他人に揺るがせられぬ強さを芳紀は感じた。
彼の心意気を快く思いつつ、同時に悲しくも思った。背中に腕を回し、首筋に唇をつける。赤い
「安星様。わっちはお主様が好きでありんす。このまま、ここにいてくれなんし」
一夜の男を悦ばせるためだけに使ってきた媚態。本当に相手をつなぎ止めたいと念じたのは初めてだった。
「すまぬ」
肩に手が置かれ僧服から引き剥がされる。
「それはできぬ」
ほろり。透明な雫が頬を伝っていく。それは熱く、拭っても拭っても溢れ出た。
困り顔の安星が強く手を握る。
芳紀は思う――憎い。
想いを受け取りもしないくせに、優しく慰める安星が憎い。その慰めに未だ喜ぶ己が憎い。
芳紀が泣き止んだ時、安星の手には小さな横笛が握られていた。
「わたしは刀より楽が好きな変わり者だが、会津藩一との藩主からのお褒めを授かったこともある。その方には随分と世話になった。礼と言ってはなんだが、一曲」
安星が口をつけると、横笛が
その物悲しい音色に誘われた芳紀は知らず立ち上がると、帯に差していた扇子を抜く、描かれた鶴が優雅に翼を広げる。
胸に満ちた哀しみのまま鶴が舞う。芳紀がまわる度に大輪の牡丹が咲き、笛の音に溶けてゆく。
芳紀が安星を見る。安星も芳紀を見つめ返す。
女の足さばき。男の指さばき。寄り添い、絡み合い。踊る、踊る。
狭い納屋に二人だけの楽が満ちる。
横笛の胸をかきむしるような高音が虚空に消え、芳紀は恍惚とした吐息を漏らす。
「驚いた。これほどまでに巧みに踊る者は見たことがない」
「姉さんに仕込まれたんでござりんす」
雪白は三味線の名手で、それに合わせるために芳紀は舞踊を学び、今では店一番の踊り子である。
それでも、今このときほど昂ぶった踊りはない。寝起きを共にする雪白とでさえ。
頭にこだまする笛の音に耳を澄ませる。
頭が痺れる。心の臓が一際高く鼓動する。
芳紀は思う。己にはやはり安星しかいないのだと。どうしても彼と共にありたいと。
安星が旅立ったのは踊りの翌日であった。一段と冷えた朝、辺りに立ちこめた靄を見て「今しかない」と安星が言ったのだ。芳紀は引き留めたかったが、少ない荷物がまとめられているのを見て、安星の決意が固いことに気付いてしまった。
渋々塀の割れ目から外へと連れ出したが、こう頼み込むことを忘れなかった。
「お参りが済みましたら、またここに来ておくんなんし」
「必ずそうしよう」
安星の誠実な答えに、芳紀の心は鞠のように弾む。
「必ず。必ず来ておくなんし。ああ、嬉しい。わっちはお主さんに惚れているんでござりんす。共に生きていたいでありんす。
ああ、いつ? いつ戻るでありんす?」
「十日はかかる」
「十日? 十日でありんすね」
安星との別れは辛いが、また出会えるとさえ分かっていれば十日など矢の如く過ぎるに違いない。
芳紀の熱意に押されたか、安星は担い袋から一本の簪を取り出した。漆塗りに赤い球を飾った品。
「旅の道中に見つけた。家への土産にしようと考えていたが、此度の礼にやる」
安星は芳紀の髪に簪を挿すと背を向けた。芳紀は簪を手で撫でながら、彼の姿が靄の中に消えゆくまで目を離さず見つめていた。
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