第参話
夜、己を組み敷く男達に彼女は優しくなった。美貌の僧侶を胸に描き、彼に抱かれていることを夢想しながら客に媚態を振りまく。恋が女に色気を纏わせた。
「見送りは良い。お妙さんに話がある」
太鼓腹を揺すった川北屋が着物に袖を通しながら口にしたとき、熱い眼差しで芳紀の肢体を舐め回したのも無理からぬことだった。
芳紀がその視線の意味に気付いていればこれからのことは変わったかもしれない。しかし、彼女の目は恋に塞がれていた。
朝になり芳紀が部屋着に着替えていると空に魚の形の雲が浮かんでいるのが見えた。
「鯨はあれくらい大きいでござんしょうか」
家一軒飲み込めそうな魚。その尾の一振りならば、ここから安星の元まで行けるだろうか、と夢想する。
障子ががらりと開いて背を丸めた老婆が入ってきた。楼主のお妙である。しわしわの顔を傾け、お妙は満足げな声で遊女に告げた。
「川北屋さんがお前を身請けしたいそうだぁ。年季は二年もあるのに
妬みと羨望の混じった言葉に、芳紀は絶望した。それは己が盛りの過ぎた川北屋の女として生きねばならないことを意味する。夢見ていた安星との暮らしは彼女の知らぬところで握りつぶされたのだ。
雪白が部屋に戻ってきたとき、芳紀は堪らず立ち上がった。
「姉さん」
「聞いたよ、芳紀。身請けが決まったんだってね。その年で
思い定めた男を失う恐怖。それを雪白ならば理解してくれると思っていたのに。澄まし顔で褒められると言葉に詰まった。己が振りかざしてきた刃に切られたのだ。
「あたしにとっちゃあ、好都合さ」
「……どういう意味でありんす?」
「あんたの身請けで皆浮かれてるってことさ。逃げるにゃ持って来い」
「逃げるって。いつ? どうやって?」
「今晩さ。客の見送りになら門の外まで出られるだろう? そこから夜に紛れるのさ。着の身着のままだが、身一つでもなんとかしてみせるさ」
煙管をぷかりと吹かすその目は真剣で、芳紀は面倒を見続けてくれた姉との今生の別れを悟った。
雪白は上手く逃げられるだろうか。それだけが気がかりで、その夜頭がぼうっとしてお妙に叱られてばかりだった。遊郭には門番もいれば不届きに目を光らせる不寝番もいる。ずしりと重い花魁姿で逃げ切れるだろうか。
しかし、彼女が見事逃げおおせたなら。きっと芳紀にも同じことができる。安星の元まで駆けていける。
身請けに上機嫌な川北屋を見送りながら、雪白の姿を探す。桔梗の着物が門の外に立っていた。
雪白は客をしどけない仕草で見送った後、裾をからげ走り出した。
虚を突かれた門番が顔を見合わせると猛然と追いかけ始めた。暗がりから影が現れ雪白の手を取る。接ぎの当たった着流し――長兵衛。
掴まっては今生の別れ。歩くにも苦労するはずの高下駄姿で走る雪白に門番は追いつけない。一人が手にしていた棒を投げつけた。雪白の足に当たり、女が地面に転がる。そこにもう一人が飛びかかる。
「放せ! 長兵衛!」
「大人しくしろ!」
華やかな衣は泥に汚れ、伸ばした腕は男に届かない。藻掻く雪白の横に、息を切らせたお妙が白髪を振り乱してやって来た。
「男と逃げようなんて、不義理な真似をするじゃないかぇ。
お妙が乱暴に合図すると、羽交い締めの雪白は為す術も無く引き立てられる。芳紀は髪も着物も崩れた姉の姿をただ見ていることしかできなかった。
「不義理がなんだい。己のものになりもしない
長兵衛。これが雪白の覚悟さ。見ていておくれよ」
雪白は胸元に手を突っ込み、漆塗りの煙草入れを取り出した。そして中身を鷲づかみにすると、口いっぱいにそれを詰め、飲み下してしまった。
「吐け、吐くんだよ!」
「ふん。好いた男と添えない世に未練はないさ。この世で添えぬならあの世で添うまでさ」
狂おしい姿に魅入られるように、長兵衛が短刀を手にする。切っ先が男の喉に触れる。
「雪白」
「長兵衛。先に行っててくれ。すぐに行くからさ」
男が弱々しい笑みを浮かべる。鮮血が寝ぼけた朝を引き裂く。雪白は身体を揺すりながら、愛しい男から生命が抜ける様に泣き、狂ったように笑い続けた。
禿が雪白の荷物を運び出すと部屋はがらんと空しくなった。日焼け跡が
「姉さんは」
「住職に埋めて貰ったよ。全く今まで世話して貰った恩を忘れて、色恋に溺れるなんぞ妓女失格だよぉ」
煙管を口にし、お妙は黄ばんだ歯を見せながら煙を吐き出す。遊郭では当たり前のこの仕草が芳紀には恐ろしく見えた。
煙草の葉には毒がある。血染めの長兵衛を前に泣き笑いしていた雪白は往来の真ん中で死んだ。紙のような肌に濁った目。それが恋に命をかけた女の末路だった。
「芳紀。あんた、雪白に懐いてたろぅ。妙なこと吹き込まれていやしないだろうねぇ」
お妙が斜に構えた目でじろりとねめつける。相手をなんとも思わぬ蛇の目。婆の皮を被った鬼。
「そんなことござりんせん。なんにも聞いてござりんせん」
「ふぅん」
必死の芳紀の声を無視して、お妙は煙を吹きかける。安星への思いを見抜かれているのではないかと、芳紀は身体を押さえるので必死だった。
「いいさね。お前は川北屋に行くんだ。お前みたいな小娘にたんまり金を払ってくれるんだぁ。大人しくしてな。愛だ恋だのに溺れちゃ碌なことにならねぇのはよぅく分かったろぉ」
お妙は言いたいことだけ言うと出て行った。ずりずりと足音が遠ざかる。お妙が芳紀の答えを真に受けることはあり得ない、新造にでも見張らせるだろう。
姉女郎を失いながらも、男の相手を続けていた芳紀の支えは安星だけだった。店中に見張られていながらも、一目会いたいと望まずにはいられなかった。共に生きたいと願った男。その夢が叶わなかったとしても、一度で良いから愛して欲しい、その思い出が欲しい。
約束の日、芳紀は門番の目を盗んで遊郭を出た。外出は赦されていないが、今日一日の我儘。
見送った四つ辻、出会った森の腰掛け岩。府中の町を方々歩き回り、鼻緒が切れるまで探し回った。
見つからなかった。
焦りと怖れに女は煽られ、溺れる。日が沈む、人は消える、辺りには野犬が吠えるばかり。重い手足。ぐらつく頭。心の中で湧き上がっては打ち消し続けた答えを払いのける気力も失せた。
芳紀は捨てられたのだ。
思い返せば会う場所も決めていなかった。十日あって何故気付かないのか。己の愚かさを力なく笑う。
町は静まりかえり、遠くから三味線の音が聞こえてきた。遊女の時間が始まる音。芳紀の夢が終わる音。
馴染みの客は店に来ず、冷えた張見世に座りながら煙管を吹かす。雪白の形見としてこっそり荷から抜き取った華のある一品。衣は深紅の牡丹。曇った世界に一輪の花が咲く。
しかし、彼女の煙管を取る男は現れなかった。髪に挿していた赤い飾りの簪を抜き取る――安星が贈ったただ一つ。
小さな納屋で、たった二人身の上を語り合った。誠実で実直な男だった。穏やかで、雅で。芳紀が自分でも気付かなかった心の隙間をぴたりと埋めてくれた、彼女を生まれ変わらせてくれた。
気付くと目頭が濡れていた。化粧を崩すまいと指先で拭うが止まらない。嗚咽が漏れ出した。店の者に見破られまいと唇を噛む。
細い簪をそっと握る。
女の想いを二度までも足蹴にするとは、どうしてか。
それでも、まだ夢を見てしまうのは、どうしてか。
泪が止まらなくなった芳紀を「見苦しい」とお妙は部屋に下がらせた。抜け出しもあり、新造が隣で見張りにつく。無理矢理に布団に押し込まれたが、昼間歩き通しだったにも関わらず、眠れない。考えるのは安星のこと。
「わっちはどうすればいいんでありんすか」
暗闇の中に雪白の姿を思い描く。色恋を語る姉女郎の話をどうして真面目に聞かなかったのか、今更になって後悔する。助言をくれたであろう雪白は土の中。
昏い闇の中に一輪の椿が浮かび上がる。雪白の生けた花。
『己の好きなところで死ぬ瞬間まで咲き誇ってやるさ』
力強い言葉が蘇る。
雪白は長兵衛の傍で鮮烈に死んだ。それはきっと彼女の本望であったろう。
翻って我が身はどうか。 芳紀は己に問いかける――己が最期に咲きたい場所はどこだ。
川北屋に食い物を恵んで貰って、つまらない人生を長々と生きるのか。ぞっとしない、想像するだけで吐き気がする。
「好かなえことを」
死ぬならば安星の傍が良い。その腕に抱かれるならば、その場で死んでも構わない。
ぽとりと椿が花を落とした。雪白を想いながら、両手で花を掬い上げ、風に乗せてあの世へ流す。
「わっちは姉さんのようにはなりんせん」
この遊郭を抜け出す。芳紀の腹は決まっていた。
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