楼破り
黒中光
第壱話
シンと冷え切った朝靄の中に客が溶けていくのを見届けると芳紀は紅色の着物をサッと翻して、かじかむ手を擦り合わせながら下腹がヒリヒリと痛むのを堪えて自分の相部屋に駆け足で戻った。襖を開けると姉さんの雪白が七輪に火を入れているところで、手をかざすとじんわり指先が痺れた。
「川北屋さん、相変わらず元気が良いね」
「ただの塩次郎でありんす」
下卑た中年男が床で見せた我が物顔の振舞に、喘いで見せていた自分。それを澄まし顔の姉さんに聞かれていたかと思い、肌がざわりと泡だった。
「それでも遊女のお勤めでありんすから」
芳紀は張見世に出ない日もあるほどの人気だが、遊女は所詮男に買われるだけ。男を選ぶことはできないし、それでしか生きてはいけない。
「あんたは冷たいね。生身の女は好いた男と添い遂げるのが本懐さ。町娘も遊女も、女はそう言う生き物さ」
「恋の炎は身を滅ぼすだけでありんす」
芳紀の母も遊女だった。身請け前に他の男の子を孕み、店から追い出された。母は芳紀を独りで産み、早々に流行病で死んだ。恋した遊女を助ける者などいない。
芳紀は寝直そうと布団を敷くが、雪白は地味な着物を羽織り、帯を文庫に締めている。
「外に出なんすか」
「長兵衛と会うのさ」
長兵衛は出入りの庭師で、雪白の
雪白の軽い足音が去って行くのを聞く。新造が握り飯を持ってきたのでそれを食べた。
芳紀は温い布団にくるまり目を閉じる。
雪白は「女の本懐」とかご高説を垂れてはいるが、だからどうした。
楼主に金で買われ、年季が明けるまで塀の中で暮らす。男の精のはけ口になる生活だが、こうして暖かい部屋に食い物もついている。母親が死んだ後、身寄りのない娘がどんな生活を送ったか。煙たい目に耐えて残り物を恵んでもらい、雨の日には寺の軒下に転がり込む。そんな惨めな生き方、芳紀は二度とごめんだった。
「好きな男に抱かれる幸せ。そんなものが大切でありんすか」
昼になり芳紀は散歩に出かけた。府中の城からは侍達のかけ声が聞こえてくるが、それには背を向けて山に入る。夜獣の姿を見せた男どもが
陽だまりの中を進むと、僧服の若者が
「怪我でもしなさんせ?」
「足を少々……」
眉の細い繊細な顔立ちが青白く染まり、脂汗をしたたらせている。
「主さん、どこの方でありなんし?」
男は名を安星と言い、会津の生まれだという。長旅だったのか、服も草鞋も擦り切れている。
「恥ずかしながら医者にかかれる路銀はない。足が癒えるまで家においては貰えぬか」
安星の頼みに芳紀は狼狽えた。陽が遮られ影が広がる。
遊郭は男に夢を売る場所。女が男を引き入れるのは御法度。人助けという言い訳は通らない。
楼主に見つかったら、芳紀は手足を縛られて火で
「お坊様、気の毒だがわっちにはできないことでありんす。他をあたっておくなんし」
「突然の頼みでその方を困らせておるのはよく分かる。しかし、今一度考え直してはくれぬか。身動きとれぬ山では、その方以外に頼れる者がおらぬ」
品のある面差しの中に悲壮な瞳。芳紀の胸に憐憫の情が湧き起こる。
哀れな男を自らの手で救いたい。そんな切望に似た衝動が折檻の恐怖を吹き消した。
「わっちの店には納屋がありんす。夜具にくるまれば夜も越せる。それでようざんすか?」
「結構だ。世話になる」
雲が風に消し飛ばされ、輝く太陽が顔を出す。安星の歓喜の表情に、芳紀はぼうと上気した。
男に肩を貸して山道を降りる。遊郭に近づくと、見知った禿が駆けていくのが見えた。途端に恐怖がぎゅうと芳紀を掴む。
しわしわの顔から陰険な目を光らせる楼主は、府中の遊郭で一等目端が利く。
足がもつれて、よろめいた拍子に安星の重みがのしかかってくる。身体が熱い。熱も出てきているようだ。
弱り切った若者の姿に、身体の奥が燃え上がり芳紀の手足に力を与える。芳紀は回り道して遊郭の裏手にやって来た。滅多に人がやって来ないが、その部分の塀が崩れれていることを長兵衛から聞いたことがあった。
着物を泥まみれにしながら、若者の身体を押し上げて遊郭に忍び込ませる。
「あと少しでござりんす。辛抱しなんせ」
店は昼間だというのにがやがやと慌ただしく、安星を納屋に匿うのは容易だった。寝具を一揃い出してやると、安星はするりと寝入ってしまった。
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