第5話 血溜まり
その人影は咲茉よりも高く大きい背格好からして、間違いなく男だった。
街灯も月の光すらもない夜の暗さとフードを深く被っている所為で、ハッキリと顔が見えない。地面に倒れている悠也が目を凝らしても、その男の素顔は全く見えなかった。
果たして、たった今なにが起こったのか?
起きた出来事に頭が追いつかず、ぼやける意識の中で悠也が呆然とその男を凝視する。
前触れもなく突然、この男に突き飛ばされた。
今の悠也に分かったことは、ただそれだけだった。
今も悠也が倒れているのにも関わらず、暗闇の中で知らない男が無言で立ち尽くしている。
「……っ!」
その異様な姿を見ていると、とてつもない恐怖心が悠也に襲い掛かった。
間違いなく、この男は何かがおかしい。おそらく自分を突き飛ばしたのも故意だったのだと、悠也は確信してしまった。
「……え、まっ」
本能的に身の危険を感じた悠也が、咄嗟に立ち尽くす咲茉に逃げろと叫びたかったが――思うように声が出なかった。
脇腹が焼けるように熱い。全身を駆け巡る激痛で、上手く身体が動かせない。
それでも必死に声を出そうと悠也が試みる。しかし次に彼の口から出てきたのは、咳と喉奥からこみ上げてくる嘔吐だった。
「ごほっ――!」
悠也が咳き込むと、口から液体が溢れ出た。
吐き出した感覚で悠也は直感した。これは吐瀉物ではなく、もっと別の何かだと。
地面に吐き出した液体に視線を向けると――それは暗闇でもハッキリと分かるほどの鮮やかな赤だった。
「これ、もしかして……血?」
視界に広がる鮮血。それが自分のモノであると悠也が理解した瞬間、脇腹から感じる熱が鮮明になった。
これは熱ではない。極度の激痛で、脳が勘違いしているだけだった。
どうにか動かした悠也の手が脇腹に触れると、粘り気のある温かい感触があった。
脇腹に少し触れただけで、凄まじい激痛が悠也の身体を駆け抜ける。今まで感じたこともない痛みに悶えながら、無意識で彼が脇腹に触れた手を見ると――
「はあっ……! はあぁぁっ……!」
荒くなる呼吸の中で、ようやく悠也は理解した。
真っ赤に汚れた自身の手。そして口から溢れる鮮血が、問答無用で彼に事実を突きつける。
――自分が刺されたということを
刺されたと悠也が理解した途端、全身に悪寒が襲い掛かった。次第に彼の呼吸も過呼吸へと変化していく。
意識が遠のいていく。しかし、それでも決して意識だけは手放すまいと悠也は死に物狂いで意識だけを保っていた。
「なんで、悠也が倒れて……?」
地面に倒れて震え始めた悠也を、咲茉は呆然と見つめていた。
頭が状況を理解できない。しかし彼から溢れてる鮮血を見ていると、唐突に咲茉の頭が事実を理解した。
「――悠也ッ!」
倒れる悠也に、咲茉が駆け寄ろうとする。
だが彼女の背後に立っていた人影が、それを許さなかった。
悠也に駆け寄る咲茉の腕を、彼女の背後から人影が強引に掴んでいた。
「ッ――!」
腕を掴まれた途端、咲茉の表情が凍りついた。
掴まれただけで彼女は分かってしまった。力強く握られている感覚が、紛れもなく男のものであることを。
「やっ……! やめっ……!」
声にならない悲鳴をあげて、彼女の身体が硬直する。
しかし彼女の怯えなど男には関係なかった。
強引に男が咲茉を振り向かせると、その瞬間、怒声が響いた。
「俺って男いるのに他の男なんか作りやがってッ‼︎」
「ッ――!」
間近で叫ばれて、咲茉の身体がびくりと震える。
それでも、男は叫んでいた。
「ずっと俺が見守ってあげてたのによぉ! 俺が他の男から守ってあげてたのによぉ! 知らねぇオッサンと隠れてどこに行こうってんだよぉッ!」
「な、なにを……言って……!」
震えながら咲茉が必死に反論するが、その声は男の耳に届いていなかった。
「やっぱりお前には俺がついてないと駄目なんだよなぁ! ずっとお前のことを想って見守ってたのが馬鹿だったよッ‼︎」
「だ、だから……!」
「俺がずっと一緒に居てやるよ! ぜってぇそこのオッサンよりも死ぬほど気持ち良くさせてやるッ!」
咲茉の腕を掴んでいた男の手が、強引に彼女の尻を鷲掴む。そしてそのまま彼女の身体を無理矢理抱きしめた。
「い、いや……!」
「はぁ……! この匂い、たまんねぇ! それにやっぱり服越しでも分かる良い尻してるなぁ!」
咲茉の髪に顔を近づけた男が嬉しそうに叫ぶ。
「はぁぁぁ……! やべぇ、めっちゃ興奮してきた! おい、死にかけのコイツなんてどうでも良いから一緒に行くぞッ‼︎」
「やめて……!」
どうにか咲茉が男から離れようとするが、力強く抱き締められている所為で身動きができない。
暴れる彼女を気にもせず、男は汚い笑い声を吐き出した。
「もう我慢なんてやめだ! もう一生離さねぇから覚悟しろよ!」
「――やめてって言ってるでしょ!」
しかし渾身の力を込めて、やっとの思いで咲茉は男を突き飛ばしていた。
そして怒りに満ち溢れた形相で、咲茉は感情のままに叫んだ。
「勝手に私の身体触らないで! もう私は悠也だけのものなの!」
「はぁ……?」
「アンタなんて知らない! アンタのことなんて知りたくもない! 勝手に変なことばっか言って私に付き纏わないでッ⁉︎」
「な、なに言って――」
「誰かぁぁぁぁ! 助けてくださいッ‼︎ 知らない人に襲われてますッ‼︎」
男が動揺していた隙に、無意識で咲茉は喉が張り裂けそうなほどの声量で叫んでいた。
静かな住宅街に、彼女の声は驚くほど響き。
数秒も経たずにして、彼女達の付近の家々から電気が付いていった。
「な、なんでお前……!」
「悠也ッ⁉︎ 大丈夫ッ⁉︎」
呆然とする男を無視して、咲茉はスマホを取り出しながら倒れている悠也に駆け寄った。
彼の身体に触れた途端、生温かい血の感触が咲茉の表情を歪ませた。
「あぁぁ! こんなにいっぱい血出てる!」
「え、ま……?」
「大丈夫だから! すぐに救急車呼ぶから!」
小さな声で咲茉を呼ぶ悠也の手を、彼女が握り締める。服や手が彼の血で汚れようとも、気にすることもなく。
そしてスマホを持っている手で、震えながらも咲茉が救急車を呼ぶための番号を押す。慌てて何度も失敗するが、やっとの思いで電話ができたことに安堵する。
「え、ま……!」
「私が一緒にいるから! お願いだから頑張って!」
「……にげ、ろ」
か細い悠也の声が聞こえた。その時だった。
「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞッ! このクソ女がぁぁぁぁぁッ!」
耳を塞ぎたくなるほどの怒声を男が叫んでいた。
「ッ……!」
反射的に、咲茉が振り返ろうとする。
「舐めたこと抜かしやがったよぉぉッ! ぶっ殺してやるッ‼︎」
しかしそれよりも先に、彼女の後ろに立っていた男が左手を振り下ろしていた。
彼の手に握られた、血の付いたナイフ。
おそらく、ずっと握っていたのだろう。刃に付いた真新しい血が、悠也のものであることを物語っていた。
それが男の手によって咲茉に振り下ろされた。
「えっ……?」
抵抗する間もなかった。拒むことすらできず、彼女の背中をナイフが貫いた。
「なに偉そうに俺のこと拒否してんだよッ! 美人だからって我儘言える立場だと思ってんのかッ⁉︎ なぁ! 分かってるのかって聞いてんだよッ!」
そして男が叫びながら何度も振り下ろされたナイフが、振られた数だけ咲茉の背中に突き刺さった。
刺される度に咲茉の身体が揺れ動き、刺された回数が増えるにつれて、彼女の口から血が溢れていく。
それが10回を超えた時、思う存分叫んでいた男の手からナイフが落ちた。
「は……? なんでコイツが刺されてんだ?」
ナイフが地面に落ちた音を聞いた途端、ハッと息を呑んだ男が力なく俯く咲茉を見つめる。
咲茉が着ていた白いダウンは、もう赤く染まり切って。地面には血溜まりができていた。
何気なく男が自身の手を見ると、当然のように咲茉の血で汚れていた。
「これを俺が……やったってのか? いや、そんなわけないだろ……俺がコイツにどれだけ捧げたと思ってんだよ? おい、さっさと起きろッ⁉︎」
事実を受け入れられないと男の手が咲茉に触れる。
しかし彼女の身体は、支えを失った人形のように崩れ落ちた。
倒れていた悠也に覆い被さるように、咲茉が倒れ込む。
「はぁ? マジで死んでんの?」
身動きひとつせず、力なく倒れた彼女の姿に男が唖然とする。
その光景に男は頭を抱えると、突如発狂していた。
「違う違う違うッ! 俺がやったんじゃないッ! 俺がコイツを殺すわけないだろッ! 俺が、こんな! こんなことするとか! あり得な――」
そう叫びながら男が絶叫すると、どこかへ走り去った。
男が消えた後。その場に残されたのは、血溜まりの中で倒れている悠也と咲茉の二人だけだった。
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