第4話 もう一度だけ


 電車を降りて駅を出ると、二人は静かな住宅街を歩いていた。


 互いに涙が枯れるまで泣いた後、気まずい雰囲気が流れるも、特に言葉を交わすこともなく二人は駅に向かった。


 肩を並べて、自然と手を取り合って。その繋ぐ手に相手の体温を感じながら、二人は電車に乗り――今に至る。


「私達の使ってる駅が一緒だったのに今まで一度も会わなかったなんて不思議なこともあるんだね~」


 悠也の繋ぐ手の先で、街頭に照らされた咲茉えまの横顔が穏やか口調でそう言っていた。


 二人に会話がなかったと言っても、決してゼロではなかった。電車に乗るまであった数少ない咲茉との会話で悠也が知ったのは、彼女が普段使っている駅が彼と同じことだった。


 更に聞くところによると、駅が同じとは言っても悠也の住んでいる家と咲茉の家は少し離れてるらしく。駅を出てから互いに自宅に向かう方向は真逆だった。


 住んでいる家が別々の方向なら、駅を出れば悠也は彼女と別れなければならない。


 しかし少しでも咲茉と一緒に居たかった悠也は、夜も遅いからと彼女を家まで送ることを提案していた。彼女を家まで送り届けるとその分だけ睡眠時間が削られるが、そんな些細なことなど彼にはどうでもよかった。


 唐突な悠也の提案に最初は咲茉も遠慮していたが、夜遅い時間に人気のない住宅街を女一人で歩くことを恐れたのか――少し悩んだ後、渋々と彼女はその提案を受け入れていた。


「……そう言うってことは、咲茉は普段電車使ってるのか?」

「バイト行くのに使ってるよ。ここ辺りだと時給低いから。街の方が時給良いし、それに交通費も出るから」


 繋いだ咲茉の手に引かれながら歩く悠也が訊けは、彼女がそう答える。


 これも数少ない会話で悠也が知ったことだが、ここ最近から咲茉はコンビニでバイトを始めたらしい。


 確かに同じ仕事でも働く場所にとって時給は変わる。交通費が会社から支給されるなら時給の高い方を選ぶのは当然の選択だろう。


「なら、いつもこの時間に?」


 気まずい雰囲気でも、こうして時折話し掛けてくれる彼女に感謝しつつ、悠也が訊くと咲茉は小さく首を振っていた。


「ううん。いつもバイトは夕方まで。今日は人手不足だからって店長にお願いされたんだよ。あまり夜遅いの、本当は嫌だったんだけど……どうしてもって」

「なら会えるわけない。俺は始発と終電近い時間の電車しか使ってないんだから」


 彼女と住んでる場所が同じでも、悠也は自宅と職場しか行き来しない。休日もなく働いている彼に家の周辺を出歩く時間もない。


 更に始発と終電間際の時間にしか電車を使わない自分と全く違う時間に咲茉が電車を使っているのなら、偶然会えるはずもなかった。


「……いつも始発と終電に乗ってるの?」

「俺の働いてる会社、ブラックなんだよ」


 驚く咲茉にそう言うと、悠也は苦笑していた。


 我ながら情けないことを言っている。彼女に驚かれるのも当然だった。


「仕事、辞めたくても辞めれなかったんだ」

「……なんで辞めれなかったの?」


 その答えなんて、もう分かりきっていた。


「勇気がなかっただけだ。今まで適当に生きてただけの俺に、誰かに自慢できる取り得なんてなかった。辞めるって一言すら上司が怖くて言えない自分が情けなくなるよ」


 面と向かって彼女に伝えると、尚更なおさらに悠也は情けなくなった。


 もっと彼女に誇れる人間で在りたかった。そうは思っても、今更の話だった。


 悔しそうに顔を歪める彼に、一瞬だけ咲茉が目を伏せる。しかし、ゆっくりと首を横に振っていた。


「今からでも遅くない。まだやり直せるよ」

「……こんな見た目で?」

「だから見た目なんてどうにでもなるよ。私と違って、悠也はやり直せるから」


 なにげなく告げられた彼女の言葉に、思わず悠也は足を止めていた。


「なんでお前は駄目なんだよ」

「……どうしてだろうね」

「お前だって、まだやり直せるだろ?」

「私は駄目なの。どう頑張っても無理だよ」

「今、お前言ったじゃないか。見た目だって変われるって……なら美人なお前も、もっと綺麗になれるだろ?」


 悠也が変われると言うのなら、彼女だって変われるはずだ。


「見た目の問題じゃなんだよ。私の場合は、もう心が死んでるの」

「……どういうことだよ」


 しかし悠也がそう訊いても、咲茉は黙るだけだった。


 黙って俯く彼女の横顔は、まるでなにかを諦めているような表情だった。


 その表情に、なぜか悠也の胸が痛くなった。


「やっぱり……訊いても、言ってくれないんだな」


 互いに泣いてから、どうにも気まずくて訊けなかったことを悠也が口にする。


「ごめんなさい」


 そう言って、咲茉が悠也の手を強く握る。


 そしてどこか悔しそうに、少しだけ彼女の頬が引き攣っていた。


「お前も、俺のこと好きだったなら……言ってくれよ」

「好き、だっただよ。もう昔のこと」

「今からだって遅くないだろ! こうして俺と手だって!」

「これは私の我儘だよ。最後に好きだった悠也と、繋ぎたかったから」

「最後だって? これからいつでも会えるだろ?」

「もう悠也とは会わないよ。だって、その方が絶対良いから」

「……良いわけないだろ!」


 悲しげに笑みを浮かべる咲茉に、悠也が叫んだ。


 あの時の咲茉の言葉を、悠也は忘れなかった。


 咲茉に好きだと伝えた時、確かに彼女は言っていた。


『悠也も、私と同じだったんだね』


 あの言葉をそのまま受け取れば、彼女もまた自分と同じ気持ちだった。


 その事実が、悠也を動かした。


「俺は咲茉のこと、ずっと好きだった。お前だって俺のことが好きだったなら、今からでも遅くない。二人で一緒にやり直そう」


 繋いでいた咲茉の手を悠也が両手で包み込むと、まっすぐに彼女を見つめていた。


「もう、今更なんだよ」

「今言えないなら、ずっとお前が言ってくれるまで待ってるから」


 瞬きすら惜しい。まっすぐに悠也が見つめていると、咲茉がそっと目を逸らした。


「悠也だから言わないんじゃないの。きっと、私は死ぬまで誰にも言わないよ」

「それでも、ずっと待ってる。死ぬほど頑張ってカッコ良くなる。仕事だって転職して頑張って、お前を支えられる男になる。絶対、お前が自慢できる男になるから……今更でも良いから、俺は咲茉とずっと一緒に居たいんだよ」


 彼の言葉に、咲茉の目が僅かに揺らいだ。


「私ね、悠也が思ってるほど綺麗な人間じゃないんだよ」

「そんなのどうでもいい。仮にお前から莫大な借金抱えるって言われても良い。夜の仕事してたって言われても関係ない」

「……なんで、こんなに言ってるのに、そんなこと言うの?」


 僅かに顔を上げた咲茉が、悠也を見つめる。


 悲しそうで、今にも泣きそうに揺れる彼女の目に、悠也は迷うことなく想いを言葉にした。


「お前のことが好きだからに決まってるだろうが……! ずっと忘れられないくらい、どうしようもなく好きだからだよ!」

「……あれから10年も経ってるのに?」

「これからずっと咲茉と一緒に居れるなら10年くらい大した時間じゃない! 死ぬまで後何十年あると思ってんだよ!」


 感情の思うままに悠也が告げる。


「もしかしたら悠也に、なにも言えないのに?」

「ずっと隣で、ずっと一緒に居る」

「……一生かもしれないんだよ?」

「嫌だって言っても隣で待ってる。言いたくなるまで、一生待ってやるから」

「……だからなんで、そんな必死に、私に優しくするの?」


 向けられた彼の想いに、咲茉の口は震えていた。


 悠也に握られていた手を、彼女が恐る恐ると両手で包み込む。


 ぽろぽろと、彼女の目から涙が溢れていた。


「お前のことが好きだからだよ。だから……お前の抱えてる全部、俺にも背負わせてほしい」


 もう後悔はしないと決意を持って、悠也が告げる。


 彼女の頬を流れていく涙を、悠也は優しく指で拭った。


「っ……!」


 止めどなく流れていく涙で咲茉の喉から、嗚咽が出た。


「……本当に、悠也はそれでも良いの?」

「良いに決まってる。老けた俺なんかで良いなら、ずっと一緒に居る」


 両手に掴んでいた悠也の手に、咲茉の頭がゆっくりと添えられた。


 まるで愛おしいものを見つけたような、大切なものを見つけたように、彼の手を咲茉が強く握り締める。


「本当に……また、良いの?」


 嗚咽交じりの声で、言葉にならない声を漏らす咲茉を悠也が見守る。


 そしてひたすらに泣く彼女が必死に嗚咽を堪えながら、どうにか言葉を紡いだ。


「また悠也のこと、好きになっても良いの?」

「またじゃなくて、今もだろ?」


 涙でぐしゃぐしゃになった咲茉の顔が、更に歪んだ。


 そして、衝動的に彼女が悠也に抱き着こうとした時だった。


 突然――悠也の身体に強い衝撃が走った。


「えっ……?」


 突如、横に倒れていく身体に悠也が困惑する。


 咄嗟に立て直そうとしても、身体が全く言うことを聞かない。


 更に、なぜか脇腹から焼けるような激痛が全身を駆け巡り。


 地面に身体を打ち付けてもなお、脇腹の熱は収まることもなく。


「悠也……?」


 おぼろげになっていく視線を悠也が動かせば、困惑してる咲茉が居て。


 そして彼女の背後には――夜に溶け込む人影が立っていた。

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