第2話  久木家 翡翠の玉壁の呪縛


——…だめか……。

 さっきからここにいるのに、父さんにも見えていない……――


🕢🕢🕢


「やっぱり千明ちあきの作る味噌汁は美味いなぁ」

「——それ、夕べの残りだから」


 なにやら白けた空気がただよっていたので、しみじみ語ってみた俺、久木ひさき 千眞かずま、三八(歳)。

 もとい、わたし千万かずまの感慨あふれる言葉に誰よりも速くつっこみを入れたのは、将来有望な我が家の末っ子。


 義務教育課程八年生の久木ひさき 万知吏まちり、十四歳である。


 このところ彼は非常に機嫌が悪い。

 態度が悪くなるのは、息子が改名することに消極的な私と千明に対してだけだ――(微妙な年代の女性に年齢を聞いてはいけない――こっそり明かすなら私と同期で、千明ちあきの方が半年ほど上になる)。


 観察してみたところ、万知吏まちりより二期二年先に産まれた双子。

 久木家うちの長男と長女(どちらも十六歳)。

 万吏ばんり千知ちさととは、ふだん通りに接している。


 朝が早い万吏ばんりは、もう出かけてしまったが――…


「っ! ねぇちゃん、勝手に(俺の片目焼きに醤油)かけんなよ」


「え? 万知まち、かけないの? (ふくれっつらで、もたもたしてても、父母ふたりに効果はないんだよ――ここはあたしが気を散らして食卓の空気を変えてあげなきゃでしょ)」


「かけすぎなんだ。ブロッコリーとウィンナーにもかかったじゃないか!」


「しょうがない。失敗したのはあたしだから交換してあげる。そっちちょうだい」


「やだよ。ねぇちゃんのマヨかけ卵マヨタマじゃん」


「おいしいよ? 一回、食べてみ(て)」


だ」


万知まちのそれ、食わず嫌いだね」


「俺、醤油派だから」


 うん。姉弟仲がいいのは良いことだ。

 こんなにも愛情をもって呼ばれるというのに、万知吏この子は、どうしてそんなに自分の名前を嫌うのだろう?


 ――万知吏まちり――…


 あふれるほどの可能性と知性を彷彿ほうふつとさせるいい名だと思うんだが……。


 万吏ばんり千知ちさとの運気も兼ねそなえた末っ子らしい文字だ(ただの部分合成のようでもあるが……)。


 音が……。響きが気に入らないのだろか? 


 だとしても、人間、愛着をもって呼ばれ続ければ自然になじむものだ。

 いまさら異なる文字の組み合わせを名乗られても違和感しか覚えない。


 〝万知吏まちり〟は〝万知吏まちり〟だ。


 この十四年間、ずっーと〝万知まち〟とか〝まぁり〟という略称・愛称で。

 時には〝くん〟をつけながら呼び続けてきたのだから…――

 ちなみに兄の万吏ばんりを〝ばんくん〟と呼ぶことはあっても、〝まり〟と呼ぶことはしない。


 万知吏この子が言葉をおぼえる前から、そうしていたのだ。

 これから先もそうでいたいと思っていたし、久木家うちの末っ子の名前は、やはり〝万知吏まちり〟しか考えられない。


 そのへんは、その子の母親である千明ちあきも同意見だった。

 だが、万知吏まちりのほうは、そういった私と千明ちあきの考えが気に入らないらしい。 


 我が家の家宝——《翡翠の玉壁ぎょくへき》が、彼が産声をあげる前から反応をみせ、その響きを示したというのに……


 ――いずれ、あたまがむこうを向いて〝りちま〟になる〝まちり〟だと……――


 変わるとしたら〝りちま〟とやらになるのだろう。

 私としては、後の名のほうに戦慄にも似た違和感を覚えるが……。


 その子、《万知吏まちり》の曾祖母にして私の祖母——

 霊能の確かさ・あらたかさから生き神とまでいわれた久木ひさき 優佳ゆうかの見立てだ。

 そのに間違いはないだろう。


 (私の)祖母ばあちゃんは言っていた。


 万知吏この子のことを〝ことのほか変わった霊調をそなえた子だ〟と。

 そして〝その命は発生す生まれ以前まえから脈々とうけ継がれてきた《玉壁の呪縛》に囚われていて、きっと……変わることはないのだろう〟と。


 さらには、


 〝もう、参考や謎の解明にしかならないものを見つめ続けることを背負わされた不憫ふびんな子だ〟とも。


 そして、その命が尽きる数か月前にもさとされた。


 せめておまえは、その手が届くところにあるうちは大事にしてやるんだ。未来ばかりに目を向けるのではなく、過去を見て寄り添ってやるんだよ、と。


 霊能あふれる者の言葉は、よくわからないものだが、


 〝あの子に届くものかもわからないが、それが身の丈以上のものを求め過ぎた一族の……いや。これに関わってきた者のせめてもの贖罪しょくざいだ〟なのだそうだ。


 〝見えたからといって、どうなるものでもないのにな〟と——ぼやきめいたことも口にしていた。


「ごちそうさま」


 はしをおいた万知吏まちりが、その動作のなか。上目遣いに、じろりとこちらを威嚇した。


 やはり怒っている。


 かわいい息子に睨まれ疎まれるのは心が痛い。

 この先、こんな関係が継続されるのではないかという現状に恐怖おそれすらおぼえる。

 ここは折れて、改名に賛成してやるべきか?


 そうなると、この子は〝りちま〟になるのか?


 いや。

 やっぱり、久木家ひさきけの末っ子は〝万知吏まちり〟だろう。


 平素は凡庸に毛が生えた程度でも、時にはその鋭くも柔軟な和毛にこげが伸び、おかしな感じにたなびくことがあるようだと祖母に評価された——霊能者というには、ことのほか安定性に欠ける私だが、それでも判ることはある。


 〝万知吏まちり〟は〝万知吏まちり〟なのだ。


 それ以外の呼び方など考えられない。すでに確定している気さえする。


「――明日、甚悳じんとくさんが、うちに訪問し~来~たいっていってるけど、どうする?」


 千明ちあきの言葉を左上に聴いた俺……いや私が、彼女を見あげる。

 若い頃は魔美女だったが、最近はこころなしか輪郭がゆるく……いいや、やわらかくなった(太ったのかな?)。


 それはそうと、

 ――甚悳じんとくさんか……。

 かなり肩がこる相手だが、しかたないだろう。


 肩で息をした俺は、そこでふと窓際に目を向けた。


 大開口の窓のこちら側に万知吏まちりが立っているように思えたのだが。

 我が家の末っ子は、いま彼自身の部屋がある方向から現れて、玄関へ向かおうとしている。


 気のせいだったようだ。


 

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