§003 一つの嘘

「ど、どうしたの。ごめん」


 俺は反射的に謝罪の言葉を口にしていた。


 ただ、これはあくまで混乱から口をついて出てしまった条件反射のようなもの。


 正直な気持ちを言えば、俺は彼女が泣いている理由がわからなかった。


 俺が無理矢理ホテルに連れ込んだ状況になっているから、俺が彼女を襲おうとしたから、俺が逆に彼女とエッチしようとしなかったから。


 理由はいくらでも考えつくが、一つ言えることは、彼女が泣いてしまう原因を作ってしまったのは間違いなく俺であるということだ。


 だからこそ、理由はどうあれ、俺は心からの謝意を込めて、もう一度、彼女に言う。


「……今日は本当にごめん」


 けれど、俺の言葉を聞いた彼女は、両手で顔を覆いながらも首を横に振った。


「……違うんです。律さんは悪くないんです。ちょっといろいろと思うところがあって……気持ちを抑えきれなくて……。でも、もう少ししたら落ち着きますから。律さんは私のことは気にせず……お帰りいただいて大丈夫ですので」


 そう言いつつも、更に感極まったのか、ついには嗚咽を漏らし出す彼女。


 お帰りいただいて大丈夫と言われても、さすにが泣いている女の子をホテルに置いていくわけにはいかない。


 しかし、当然、俺に泣いている女の子を慰めた経験など無い。


 抱きしめる?

 頭を撫でる?


 そんな選択肢が脳裏を過るが、俺は心の中で首を横に振る。


 いやいや、あれは彼氏彼女の関係性で、しかも「イケメンに限る」というやつだ。


 俺みたいな人間が急に彼女を抱きしめたら、それこそ平手じゃ済まなくなるかもしれない。


 ……じゃあどうすれば。


 そんなことをグルグルと考えるが、結局妙案は思い付かず、俺は只々、彼女が泣き止むのを待つしかなかった。


 それから幾ばくかの時間が過ぎた。


 時間にすると、おそらく10分くらいだったと思う。

 でも、俺には途方もなく長い時間に感じられた。


 彼女のすすり泣く音が聞こえなくなったのを確認し、俺は恐る恐る視線を向ける。


 すると、ベッド上で壁に寄りかかり、体操座りの膝に顔を埋める彼女の姿があった。


 顔を埋めているため表情は読み取れないが、先ほどと比べると、幾分落ち着きを取り戻したようだった。


 俺は遠慮がちに彼女に声をかける。


「……大丈夫?」


 その声にスッと視線を上げる彼女。


「……はい。大分、落ち着きました。先ほどは取り乱してしまってすみませんでした」


 そう言って彼女は頭を下げる。


「いや、俺が悪いんだから謝らないでくれ。もし、君が望むのであれば、俺はすぐにでもこの部屋を出て行くよ」


 しかし、彼女はゆっくりと首を横に振る。


「いえ……泣いてしまったのは、本当に律さんのせいではないのです。……全て私が悪いので、律さんはそんなにご自身を責めないでください……」


 ……全て私が悪いので。


 またもや紡がれた自信の無い台詞。


 この状況で、彼女が全て悪いなんてことは絶対にあり得ないのに。


 どうしてこの子はこんなにも自分に自信が無いようなことを言うのだろうか。


 俺みたいな元陰キャであればわかる。


 皆に陰キャと蔑まれ、容姿を馬鹿にされ、自信の無さが身体に染みついてしまうのだ。


 でも、彼女はどう見ても俺とは対照的。

 スクールカーストの頂点に君臨してもおかしくないほどに容姿は端麗で、誰がどう見ても憧れる存在だ。


 だからこそ、俺は気になってしまった。


 一体何が彼女にそこまでの言葉を言わせるのだろうと。


「……どうして水無月さんはそんなにも自分に自信がないの?」


 気付いたら、俺は彼女にそんな素朴な疑問を投げかけていた。


 同時に彼女の大きな漆黒の瞳を、更に大きく見開くのがわかった。


 まさかそのような言葉を言われるとは思っていなかったという雰囲気だった。


 彼女はコクリと唾を飲み込み、幾ばくかの逡巡を見せるが、意を決したように俺の目を見つめると、ゆっくりと言葉を口にした


「――実は私、高校デビューなんです」


「え、」


 高校デビュー。


 そんな俺の中では耳慣れた、でも、一般的には耳慣れない言葉に、俺は思わず声を漏らした。


 そんな戸惑いを見せる俺とは裏腹に、彼女はもう心を決めたのだろう。


 ぽつりぽつりとではあるが、彼女は自身の身の上を語り出す。


「……私、中学時代は本当はこんな見た目じゃなかったんです。……髪はもっとボサボサで……眼鏡もかけてて……ずっと図書館に籠もっているような典型的な根暗女子だったんです」


「…………」


「でも、そんな自分を私は嫌いではありませんでした。世界には光と影があるように、人間にも光と影がある。光の側に生まれた人は場を盛り上げてクラスを牽引する、影の側に生まれた人はそんなクラスを影ながら支える。そういうだと思っていたのです」


「…………」


「それに、そんな私にも優しく声をかけてくれる人はいました。ああ、この人は見た目じゃなくて、私の中身を、頑張りを見てくれる、心の澄んだ人なのだと思いました。彼も私と同じ影側の人間ではありましたけど……私から見たら太陽のように眩しくて……私もこういう人になれたらなって素直に思えたのです」


「…………」


「でも、それは勘違いでした。彼は中学の卒業を控えたある日、私に言ったのです。『お前みたいな暗いやつを誰が好きになるか、ブス』って。もちろん、傷付きましたよ。だって、私はその人のことを好きになりかけていたから。でも、同時に納得する部分もあったのです。ああ、やっぱりこんな私じゃ振り向いてくれないよね……って。だから私はその人を見返してやろうと『高校デビュー』をすることを決めたのです」


「…………」


「そこからはもう無我夢中でした。ちょっと高い美容院に行ったり、苦手だった化粧を必死に練習したり。自分でも随分変われたなという自覚はありました。でも、それが自己満足では終わってはいけないと思って……私は自分の価値を証明するために、今日この場に来たのです」


 そこまで話した彼女はスッと視線を上げて、俺の顔をまじまじと見ました。


「私、律さんに一つ嘘をついていました。実は……私、ナンパをされるために渋谷に来てたんです」


「え、」


 そんな思いがけない言葉にトクンと胸が高鳴る。


「もし、流行の最先端の街・渋谷で、イケメンにナンパしてもらうことができたら……私の今までの努力が報われるような気がして……」


 彼女はそこまで言うと、視線を正し、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。


「だから本当に謝らなければならないのは私の方なのです。私は自分の価値を推し量るために律さんを利用しようとしていました。でも、律さんの言葉を受けて、私のしてしまった事の重大さを理解しました。……そうですよね、は好きな人で卒業しなきゃダメですよね」


「…………」


「私はどうやら焦っていたみたいです。高校デビューをするなら早く処女を捨てなければならないと、目的と手段がめちゃくちゃになっていたみたい。でも、それを気付かせてくれたのは、他でもない律さんです」


「……俺が?」


「はい。私は覚悟を決めていたつもりでした。でも、律さんに手を握られた時、どういうわけか中学の時に好きだった人の顔を思い出したんです。同時に思いました。……その人は今の私を見たらどう思うだろうか。……きっと悲しむんじゃないかって。……そう思ったら、目から涙が零れ落ちていました」


「…………」


「……でも、律さんがいい人で本当によかった。……もし、あそこで最後までしてしまっていたら、私は一生後悔していたと思います」


 彼女はそこまで言うと、ゆっくりと立ち上がり、鞄から4,000円を取り出してテーブルの上に置いた。


「私は律さんに感謝しています。私のような根暗女子に声をかけてくれて、しかも、何度も『可愛い』って言ってくれて、少しだけ自分の容姿に自信が持てた気がします。……でも、やっぱり影の側の人間は影の側の人間。いくら見た目を変えようとも、性格まで変えるのは難しかったみたいです。なので、私は明日から元の根暗女子に戻ろうと思います。高校デビューもやめて、分相応な高校生活を送ろうと思います」


 そこまで言うと、彼女は俺の方を向き直り、深々と頭を下げた。


「こんな形になってしまい申し訳ございません。ホテルの料金はせめてもの償いとしてお納めいただければと思います。それでは、本当にありがとうございました」


 彼女はそう言い切ると、「今日のことは忘れてください」とばかりに、走り去るようにドアに手をかけた。


 そう。これでいいと俺も思った。


 俺と彼女は本来出会うことのなかった関係。


 だから、今日のことは二人の胸の内にしまって、綺麗さっぱり忘れるのが一番なんだ。


 けれど、どういうわけか、俺の心の中がモヤモヤしてたまらなかった。


 もちろん、彼女は恥も外聞も捨てて全てを包み隠さず話してくれたのに、俺はまだ彼女を欺いたままだという罪悪感もあった。


 でも、そんな感情とは全く別にして……俺は……。


「ちょっと待ってくれ」


 気付いた時には、俺は彼女を呼び止めていた。


 半身、振り返る彼女。


 そんな彼女を真っ直ぐに見つめると、俺も先ほどの彼女と同様に、意を決して言った。


「――実は俺も……高校デビューなんだ」


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