§002 初めて

「…………」

「…………」


 ホテルに入ったはいいが、当の俺は完全にフリーズしていた。


 確かに『ナ○パマニュアル』を読んではいたが、初対面の美少女とホテルに入るなど、さすがに想定していなかったのだ。


 予想外の状況に弱いというのは、陰キャの特徴のようなもの。


 先ほどまでの自信は雲散霧消の如く消え去り、俺の思考は完全に陰キャ時代のものに戻ってしまっていた。


 俺はベッドに腰掛け、途方に暮れながら、気を紛らわせるようにホテルの部屋を見回す。


 煙草の臭いが残る室内は思いのほか狭く、ベッド、テレビ、冷蔵庫、テーブル、ソファと必要最低限のものしか置かれていない。


 ただ、ベッド横に置かれたグッズや薄暗い照明から、ここが何をするための場所なのかを否応なしに理解してしまう。


 俺の意識は、自然と隣に座る彼女の方へと向けられる。


 彼女も少なからず緊張しているのか、微かな息遣いが聞こえるが、何か言葉を発するわけでなく、ただ床の染みを眺めているだけだった。


 正直なところ、俺には彼女の考えていることがわからなかった。


 確かに彼女をカフェに誘ったのは俺だ。


 でも、俺が誘ったのはあくまでカフェであって、まさかこんなにも大人の段階を飛び越した場所に来ることになるなど夢にも思っていなかった。


 最近の女子高生はこんなにも簡単にホテルに来るものなのだろうか。


 これが噂に聞くビ○チというやつか。


 いや、もしかして新手の宗教勧誘かもしれない。


 むしろそれならまだいい方で、彼女は実は美人局で、もし俺が彼女に手を出したら怖い人がいっぱい出てきたり……と最悪な想像がどんどんかき立てられる。


 気付けば、背筋は急激に冷え込み、新調したTシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。


 俺の頭の中からは、既にエッチな気持ちは完全に消滅し、残ったのはこの場をどう収拾するかの不安感だけだった。


 そんな気まずい沈黙を破ったのは、彼女の方だった。


「……律さん」


「ひゃい!」


 彼女の呼びかけに思わず声がうわずる。


 そんな緊張でガチガチな俺を、同じく緊張した面持ちで見つめた彼女は、絞り出すようにゆっくりと言葉を紡いだ。


「……律さんはどうして私に声をかけてくださったんですか?」


 彼女には申し訳ないが、俺の今日の目的は高校デビューを完遂すること、それ一点だった。


 そのため、俺が声をかける相手は、正直彼女でなくてもよかったのだ。


 と、そこまで考えて、俺は彼女に声をかける瞬間のことを思い出していた。


 いや、さっきの説明とは矛盾しているかもしれないが、俺はまるで一目惚れでもしたかのように、気付いたら、彼女に声をかけていたのだ。


 あの時の胸の高鳴りはなんだったのだろうと、今では思う。


 でも、俺はあの時の気持ちを、無性に彼女に伝えたいと思ってしまった。


「えっと、それは……一目見て可愛いと思ったから……」


 そんな俺が紡いだ言葉に、どういうわけか彼女は大きく目を見開いていた。


「私……可愛いですか? 実は……私、そんなに自分の容姿に自信が無くて……」


 容姿に自信がない?


 俺の目の前にいるのは、10人中10人が「美少女」と断言するであろう『超S級美少女』なのだ。


 それなのに、どこをどう見たらそんな帰結に辿り着くというのだ。


 さすがに謙遜がすぎるのではないかと、俺は首を横に振る。


「いや、水無月さんはどこからどう見ても美少女だよ。多分、今日の渋谷で一番輝いていたと思う」


 そんな思わず漏れてしまった臭い台詞に、呆けた表情を見せる彼女。


 そして、何を思ったのか、軽く瞑目した彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。


「そう言ってもらえて嬉しいです。じゃあ、律さんは……私とってことですよね」


 そこまで言うと、彼女は身体の力を抜いて、下半身をベッド外に投げ出す体勢で、上半身だけベッドに横になる。


 柔らかな身体がベッドに収まり。

 そして、彼女は、妖艶に光る瞳をこちらに向けて、一言、言った。


「……いいですよ。私はそういうつもりで、貴方についてきたので」


 この瞬間、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。


 自慢じゃないが、俺は童貞だ。


 女の子とキスをしたこともなければ、手をつないだこともない生粋の童貞だ。


 そんな俺の目の前には今、ベッドに横たわる天使と見紛うほどの美少女。


 この状況で踏みとどまれる童貞が、果たして世界に存在するだろうか。

 いやいない。

 むしろ、この状況で踏みとどまることは、彼女に失礼ですらある。


「…………」


「…………」


 ……よし、ヤろう。


 この時の俺の頭の中には、もはや先ほどまで抱いていた新興宗教だの、美人局だのの不安はなく、意識は完全に『童貞を卒業すること』に支配されていた。


 俺は彼女の下に寄ると、覆い被さるようにベッドに手を付いた。


 彼女の顔が真下にあり、ほんのりと甘い香りが鼻腔を刺激する。


 息遣いが更に近くなり、顔に当たる吐息を微かに感じる。


 性欲は限界点に達し……俺はベッドに投げ出されていた彼女の手を取った。


「……え」


 しかし、俺は思わず息を漏らした。


 彼女の華奢な手が、小刻みに震えていたのだ。


 俺はすぐさま彼女の顔に目を向ける。


 するとそこには――薄らと涙を浮かべ、唇をギュッと噛みしめる水無月さんの姿があったのだ。


 同時に俺は我に返った。


 その表情が、どういうわけか、俺が中学時代に「ブス!」と言って泣かしてしまった一人の女の子と重なったのだ。


 本当は大好きだったのに……。

 トップカーストの集団から煽られて、心にもない言葉を言ってしまった忘れもしないあの日。


 あの時の俺はトップカーストの集団に言われるがままに、何も言い返すこともできず、ただただ彼女を傷付けてしまった。


 その時の感情がまるで津波のように心に押し寄せてきて……俺の自分勝手で傷付く女の子の顔をもう見たくなくて……気付いたら俺は、彼女から手を離していた。


「……え?」


 そんな俺の予想外の行動に、戸惑いの声を漏らす水無月さん。


「……もうこんなこと……やめる」


 そんな俺の言葉に彼女はゆっくりと身体を起こす。


「……それはやっぱり私に魅力がないから……ですか?」


 どうしてこの子はこんなにも自分に自信がないのかと思ってしまう。


 俺はゆっくりと首を横に振って答える。


「それは違うよ。こういう言い方もなんだけど、水無月さんは誰もがエッチしたいと思える魅力的な女性だよ。でも、こういうのは違うかなって……君の表情を見て思ったんだ」


「……私の表情……ですか?」


「うん。どういう理由があるのかわからないけど、君はきっと俺とのエッチを望んでいない。それに……やっぱり俺もは好きな人で卒業したいと思ってるんだ」


「…………」


「だからごめん。こんなところまで連れ込んでおいてなんだけど、俺は君とはエッチはできない。本当に申し訳ない」


 男として本当に不甲斐ないと思う。

 せっかく誘ってくれた彼女に、俺は恥をかかせたのだから。


 正直、平手の一発や二発は覚悟していた。


 ただ、痛いのはやっぱり怖いから、俺はギュッと目を瞑った。


 しかし、いつまで経っても彼女の掌が俺の頬を打ち抜くことはなかった。


(ひっく、ひっく)


 その代わりに聞こえてきたのは彼女のすすり泣く声で……。


 俺は驚いて目を開くと、そこには、ベッドに座り込んで大粒の涙を流す水無月さんの姿があった。



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