別居
ケーキを持って雨宿りに行ってから、貴俊さんとは月に1、2回会うようになった。
お互い家庭がある。世間で許されるものではない。
お互いの生活を脅かさない。口には出さなかったが、暗黙の了解があった。ある時
『あやちゃんは賢い人だ』
と言われたが、つまりそういうことをわきまえた人だ、という意味だろう。
仕事や家庭と友人たちなど、お互い大切なものがある。それを侵食することは相手を幸せにはしない。もちろん、私も侵食されたくない。
私たちは笑顔になりたくて時間を共にしていた。私の家庭のことは、詳しくは話してはいなかったが大変なんだ、とちらっと伝えてはあった。
待ち合わせに現れた私は大概しかめっ面だったのに、貴俊さんと会うと笑顔で表情が明るくなるのが嬉しいと、言っていた。
彼の家庭のことは私からは聞かなかった。仲が悪いわけではなさそうで、逆に安心だった。でも私に会うとやっぱり癒される、と言っていた。
そんな毎日が3年くらい続き、私は夫と別居することになった。理由は貴俊さんの存在ではない。せっかく働き始めたのに、また辞めたのだ。もう限界だった。
住んでいたマンションを引き払い、息子を連れていったん実家に戻ることにした。
貴俊さんにはまずメールで伝えたが、話したいと言われ、彼の出張帰りに待ち合わせて駅前のカフェで会った。
毅然と事実を伝えた。一時実家に避難します。仕事も事情を話して退職させてもらっています。まだ先のことは考えられません。
貴俊さんの悲しそうな表情に胸が押し潰されそうになった。彼が発した言葉は、私が想像していたものではなかった。泣き出しそうな顔で言った。
『あやちゃんのスペシャルな時間を作ってやれなくなる…』
なんと、そうだったのか。
私のことは、単なる彼の暇つぶしのひとつなんだ、とばかり思っていた。
実家に帰ると言ったら、口では寂しいねなんて言いながらもさらっとお別れになるかと思っていた。その方がお互い楽だろうと。
まさか私を楽しませてやろうという気持ちがあったとは。
あやちゃんの笑顔にが嬉しい。確かにいつもそう言っている。表裏のない言葉だったのだろうか。
会えなくなるのは嫌だ。強く思った。
『会えなくなるとは言ってませんから。ちょっと距離が出来るだけで、何も変わらないから。私またいつでも来ます』
明るく言った私を、ちょっと驚いたような表情で彼は見て笑った。
『あやちゃんならやるな。でも無理するな』
『会わない、っていう方が無理だから』
年末の寒い夜だったが、駅前の公園を手をつないでたくさん歩いた。
最初の頃も雨の公園歩いたね。何年前だ?
3年半。早いですね。あっという間ですよ。
間もなく私は実家に帰ったが、すぐに東京の職場を見つけて再就職した。ひとまず実家から片道2時間半かけて通うことにした。
貴俊さんも長距離通勤でしょ、私もやる。やれる。
そして朝5時に家を出る生活が始まった。どうしても貴俊さんの近くにいたかった。
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