第8話 十年





俺は十年前の出来事をすべて志村さんに話した。

トモ子もカマちゃんもそれを真剣に聞いていた。


「そんな事が…」


俺はコクリと頷く。


「俺のこの十年は、こんな話の上に成り立っているんだ。とても人に話せる話じゃない…」


志村さんは俯いて目を閉じていた。


「それに四十にもなって不良気取るってのも恥ずかしい話だしな」


俺は缶コーヒーを飲み、カマちゃんの顔を見た。

カマちゃんも口元を歪めて頷いていた。


「ヤクザとかシャブとか拉致監禁とかさ、まあ、人には言えない話だわな」


カマちゃんはそう言って笑った。


「この経験をしたから、俺は三人の話を書いたんだ。時間的には前後するけど、この経験が元に青春時代の話を書いた。それがあの本だよ…」


志村さんは納得したかの様に再びコクリと頷いた。


俺は立ち上がって、すっかり暮れた外の景色を見た。

そして振り返ると志村さんに頭を下げた。


「すまん。だから俺は、この十年を語る事が出来ない」


俺はそう言うとゆっくりと頭を上げた。


志村さんは微笑みながら頷いた。


「わかりました…。先生の特集は諦めます」


俺はその言葉に微笑み頷いた。


「作家ってのはさ、スマートで格好良く作家になった人ばかりじゃない。俺はもしかすると、過去を語る事の出来ない作家の方が多いんじゃないかと思ってる」


俺は椅子に座り、残った缶コーヒーを飲み干した。


「小説なんて書いていると金も無いし、食うのに困っている奴もいるだろう。人に言えないような仕事をしたり、もっと酷い事をしている人もいるかもしれない。もちろん、読者は作家の色々な部分を知りたいと思うのかもしれない。だけど、語れない…。それが事実だよ…。俺は作家って裏方だと思っている。男前でテレビにバンバン出る様な作家もいるけど、顔を見せてしまうと、何だ、こんな人が書いているのかって事になってしまうのかもしれない。だから読者の為にも、知らない方がいい事だってあるんだと思う」


カマちゃんが一人、大きく頷く。


「お前が頷くな」


俺はカマちゃんに空き缶を投げ付けた。






俺は志村さんをホテルまで送り、トモ子と二人で部屋に戻った。


「お風呂どうする」


トモ子はピアスを外しながら訊いた。


「ああ、シャワーでも良いや」


そう言う俺に頷き、トモ子は着替えを取りに行った。


俺は窓辺に立ち、暮れた街を見た。

いつもと…、ジェニーが生きている時と何も変わらない街だった。


「ジェニー…」


思わずその名前が零れた。

自然と涙が溢れて来る。


「馬鹿野郎…」


「明日も亜希子さん来るのよね…」


と言いながらトモ子がリビングにやって来た。

俺はトモ子にバレない様に涙を拭うと、


「ああ、志村さんの事だから、朝早くに来るよ…」


そう言って振り返った。

するとトモ子が抱き着いて来た。


「トモ子…」


俺はトモ子の肩に手を添えた。


「辛いなら泣けば良いじゃん…。悲しいなら、そう言えば良いじゃん…」


トモ子は俺の胸でそう言う。


「トモ子…」


「もう…。私、ケンちゃんとどれだけ一緒に居ると思ってるのよ…。ケンちゃんの馬鹿…」


俺はトモ子を抱きしめる。


「すまん…」


また涙が溢れて来た。

しかし俺はその涙を拭く事は無かった。







「いや、でも良かったな…。シラケン」


白タキシード姿の俺の横で、酔って何度もそれを繰り返すジェニーは涙を流しながら俺の結婚を喜んでいた。


「何がだよ。お前、飲み過ぎ…」


俺はジェニーの持つシャンパングラスを取り上げてテーブルの上に置いた。


「いや、お前はもしかすると、一生結婚出来ねえんじゃねえかって思ってたからよ」


俺はそう言いながら抱き着いて来るジェニーを引き剝がし、


「おい、カマちゃん。コイツ何とかしてくれ」


とカマちゃんに助けを求めた。

カマちゃんはゆっくりと俺の横にやって来て、


「まあ、そう言うなよ。コイツは本気で嬉しいんだよ」


俺は眉を寄せて苦笑した。


「トモ子さん、いや、トモちゃんで良いか…。トモちゃん、シラケンの事をよろしく頼みますね…。コイツ頭良いけど、喧嘩が弱くてね…」


トモ子もそんなジェニーに困り果てている様だった。


「あんなに酔う事なんて無いのにな…。相当嬉しいんだぜ」


カマちゃんは手に持ったグラスを俺に渡し、ジェニーを後ろから抱かかえる。


「ほら、ジェニー。新郎新婦に迷惑かけるんじゃねぇよ…」


そう言いながら、近くの椅子に座らせた。


「ああ、トモちゃん…。頼むよ」


と言いながらジェニーは引っ張られて行った。


「いつもあんななの…」


と、トモ子が訊いた。


「いや、あんなジェニー…初めて見たよ」


俺はグラスを置いて、トモ子の友達に挨拶をした。







「ジェニー君の事、思い出してたんでしょ…」


ベッドで天井を見ていた俺に気付き、トモ子が言った。

俺はトモ子を見て微笑むとベッドを抜け出す。


「ちょっと飲もうか…。付き合ってよ…」


俺は寝室を出るとキッチンへ行き、缶ビールを冷蔵庫から出した。


トモ子はカーディガンを羽織ってダイニングへやって来た。


「こんな時間から飲んで大丈夫なの…。朝一番に亜希子さん来るわよ…」


俺はビールを二つのグラスに注ぎながら微笑んだ。


「これくらい大丈夫だろ…」


そう言うとトモ子のグラスに軽くグラスを当てた。


トモ子もグラスを取り、ビールを飲む。


「ねえ、今日の話ってさ…」


トモ子も今日、俺が志村さんに話した事ははっきりとは知らなかったのかもしれない。


「ああ…」


「あれはフィクションじゃないのね…」


俺はそう訊くトモ子に微笑んだ。


「どうだったかな…。もう十年も前の事だからな…。忘れてしまったな…」


トモ子は二口目のビールを飲むと、口元を歪めた。


「フィクションなら、やけにリアルな話だったから、流石は作家先生だと思ったのよ…」


フィクションではない。

それが原因でジェニーは刺されて死んだのだ。


俺はトモ子を見ながら優しく微笑んだ。


「何よ…」


俺は目を伏せて笑った。


「思い出したんだよ…。ジェニーがいつか言ってた事があってさ」


「何を…」


俺はビールのグラスを揺らしながら、


「トモ子は俺にはもったいないってさ」


トモ子はクスクス笑い出す。


「何だよ…」


「ジェニー君、私にも言ってたわよ…」


「何を…」


俺はビールを一口飲んで訊いた。


「ケンちゃんはいつか絶対に売れる作家になるから、そのためには私が必要だからって」


俺はそれを聞いて苦笑した。


「アイツ…」


俺はトモ子と一緒に笑った。


「でも、ジェニー君の言う通りになったわね…」


俺は無言で頷いた。


「十年前はもう書けないかも…って苦しんでたのにね…」


俺は何度か頷き、


「今でも書けないって思う時はあるよ。まあ、あの時は官能小説だったけどさ」


そう言うとトモ子も声を出して笑ってた。


「そうそう。俺にはエロのセンスがないって苦しんでたもんね」


「エロじゃなくて、エロスだよ、エロス」


「同じ事じゃないの…」


「まあ、限りなく同じだけどな…」


そう言うと二人でまた笑った。


俺とトモ子は笑いの絶えない夫婦だ。

俺の中の理想の夫婦なのかもしれない。

何年も食わせてもらい、本当に感謝しか無かった。

俺が賞を取り、一端に原稿料をもらえる様になった時に、トモ子は看護師を辞めた。


そして結婚する準備をして部屋を探して、色々な変化のあった十年だった。

俺の仕事はどんどん増えて行き、前の様にのんびり過ごす時間は無くなったが、多分、二人とも充実しているのだと思う。


「いつか、トモ子を書けってジェニーが言うんだよ」


結婚した後にジェニーたちと飲んでる時に、真剣にジェニーにそう言われた事があった。


「私を…」


俺は頷いてビールを飲み干した。

するとトモ子が身を乗り出して来る。


「ねぇねぇ…」


「何だよ…」


トモ子は目を細めて、


「ケンちゃんがさ、私を小説に書く時って、私はどんな人になるのかな…」


俺は少し上を向いて考えた。


「浮気性な女とか…」


「え、私、浮気性なの…」


俺は笑った。


「まあ、どっちかなんだよ。そのままのトモ子を書くか、まったく逆のトモ子を書くか…」


トモ子も上を向いて頷いていた。


「そんなモンなのね…」


「そんなモンなんだよ」


トモ子は笑ってビールを飲み干した。


「さあ寝るか…」


俺は立ち上がって、二つのグラスをシンクに置いた。

そして寝室に向かおうとすると、


「ケンちゃん…」


とトモ子が後ろから声を掛ける。

俺は振り返ってトモ子を見た。

トモ子は満面の笑みを浮かべて、


「死ぬまでに私を書いてね…」


と言う。


俺は微笑んで頷いた。






翌朝、朝食を食べているとインターホンが鳴る。

モニターには志村さんが覗き込む顔が映っていた。


「志村です、おはようございます」


大声でそう言った。


「ああ、今、開けるよ…」


と言うと志村さんは身体を引いて頭を下げた。

その時、志村さんの後ろに人影が見えた。


あれ…。

何処かで…。


俺はオートロックを開けた。


「すみません。あ、まだ食事中でしたか…」


と部屋に入って来た志村さんは、ダイニングテーブルを見て言った。


「いや、終わったところだよ…。志村さんは朝飯食ったかい」


俺は、タバコに火をつけながら訊いた。


「はい。ご飯お代わりして食べて来ましたよ」


俺は笑いながら書斎に入るとパソコンの電源を入れた。


すると机の上に置いていたスマホが振動した。

俺が液晶画面を見ると、カマちゃんの名前が表示されていた。


「何だよ、こんな朝っぱらから…」


俺は電話に出た。


「シラケン…。起きてたか」


カマちゃんは朝の仕込み中なのか、少し後ろが騒がしかった。


「ああ、どうした」


「知り合いの弁護士に訊いたんだけどさ、岸田の親父は刑務所を出て直ぐに死んだみたいだな」


俺はスマホを持ち替えて逆の耳に当てた。


「元々糖尿病だったらしいんだけど、まあ、クスリのやり過ぎだったんだろうな…」


俺はパソコンのモニターを見ながら頷く。


「そうか…」


「けどよ…」


俺は肩でスマホを挟んでパソコンのパスワードを入れた。


「どうやら城見も出て来てるみたいだな…」


「城見…」


俺は城見を思い出した。

そして思わず立ち上がった。


「まあ、クスリの売人で逮捕された訳だから、一家離散で会社もクビだろう。ニュースにもなってたしな」


しかし俺の耳にはそんなカマちゃんの言葉は入って来なかった。


「おい、シラケン…聞いてるか…」


間違いない…。

さっき、インターホンで志村さんの後ろに映っていた男は城見だ。


俺は息を飲んだ。


「カマちゃん…」


「ん…どうした…」


俺はタバコを消して、またスマホを持ち替えた。


「城見がうちの前に居た…」


「何だって…」


「さっき、インターホンの映像に映ってた」


カマちゃんも無言になった。


「とにかく、カマちゃんも気を付けろよ…」


俺はカマちゃんに言うと電話を切った。






俺たちは志村さんのリクエストで、また昼飯を食いにカマちゃんの店へと向かった。

そのまま東京へ帰る志村さんを新幹線の駅まで送る事になっていたので、志村さんの大きなスーツケースもトランクに積んだ。


「そんなにあのマズイから揚げが気に入ったの」


俺は運転しながら後部座席の志村さんに訊いた。


「マズくないですよ。凄く美味しいです」


カマちゃんに気を使って言っている訳では無さそうだった。

店の近くにあるコインパーキングに車を停めると、俺たちはカマちゃんの店へと入る。

イートインコーナーから俺は注文をした。今朝の話もあり、カマちゃんの表情は昨日より少し険しく見えた。


「シラケン、ちょっと良いか…」


とカマちゃんは俺を店の外に誘い出す。


「危ないだろうが。弁当なら言ってくれれば届けるのによ…」


俺はポケットに手を入れて、


「カマちゃんと二人の方が安心かと思ってな…」


そう言った。


「とにかく気を付けろよ…。俺は何とでもなるけど」


俺は何とでもならんのか…。


俺は少しムッとして店の中に戻った。


「はい、お待ちどう様。これがシラケンスペシャルね…」


カマちゃんは大盛のから揚げの載った弁当を出して来た。


それを見て手を叩いて喜んでいるのは志村さんだけだった。

 





昼飯を食い終えた後、カマちゃんの武勇伝が始まった。

まあ当然俺もジェニーも出て来るのだが…。

それを聞いて志村さんは喜んでいた。


俺は時計を見て、


「志村さん、新幹線の時間、大丈夫なの…」


と訊いた。


「あ、いけない…。本当ですね…」


そう言うと立ち上がる。


「じゃあ私、車取って来るわ…」


トモ子がそう言うと店を出て行った。


「すみません。カマちゃんさんのお話が面白くて、つい長居しちゃって…」


そう言いながら店を出る。


カマちゃんも表に出て来た。


「じゃあな。俺たちも、彼女送ってそのまま帰るわ」


俺はそう言うと、こめかみに二本の指を出して挨拶した。


「車、何処に停めてんの…」


とカマちゃんが訊く。


「ああ、直ぐ其処のコインパーキングだよ」


と俺は指を差す。

するとカマちゃんが、俺が指差した方向を見た。

その時、カマちゃんの後ろに今朝、インターホン越しに見た城見の姿があった。


「カマちゃん」


俺はカマちゃんの手を引っ張った。


カマちゃんの直ぐ後ろに立っていた城見は、手にナイフを握っていた。


「城見…」


俺は後ろに志村さんを隠す様に前に出た。


「殺してやる…」


城見の眼つきはおかしく、口からは涎を垂らしていた。

あれから十年が経っている。

以前の城見とは何もかもが違っていた。

痩せこけて、髪は白髪になっていた。


「任せろ…シラケン…」


カマちゃんはそう言うと、城見を睨んだまま、前に出て行く。


「カマちゃんやめろ…。コイツ…目がおかしい…」


俺はカマちゃんの後ろから言った。


「関係ねえよ…」


カマちゃんはしっかりと両手の拳を握っていた。


「殺してやる…。殺してやる…」


城見は何度も繰り返す。


「何だ、コイツ…」


カマちゃんも一歩引いてそう言う。


「殺してやる」


城見は大声でそう言うとナイフを振り回した。

それがカマちゃんの腕を切り、白いコック服がカマちゃんの血で赤く染まり始めた。


「キャー」


その血を見て志村さんが叫んだ。


「カマちゃん」


俺は腕を押さえるカマちゃんを庇い前に出る。


「シラケン…」


「殺してやる、殺してやる」


城見は何度も何度も繰り返す。


俺はその城見を見て、大きく息を吐いた。

そして、


「やってみろ、ジャンキー…」


そう言うと拳を構えた。


「シラケン、止めろ」


カマちゃんが後ろから言う。


「カマちゃん…黙って見てろ…」


俺はそう言うと、あの一瞬を待った。


「殺してやる」


城見はまた大声で叫ぶ様に言うとナイフを突き出した。

俺はその瞬間、城見の拳を目掛けて自分の拳を突き出した。

城見の握ったナイフは飛ばされて、街路樹のポプラの幹に当たり乾いた音を立てて地面に落ちた。

そして、その城見の腹に蹴りを入れた。

痩せた城見はフラフラと後退りアスファルトの上に倒れた。


俺は城見の持っていたナイフを拾う。

そして城見の襟首を掴んで持ち上げるとポプラの幹に押し付けた。


「殺すってのはな…、こうやるんだよ」


俺はそう言うと、ナイフを城見目掛けて振り下ろした。


「シラケン」


「ケンちゃん」


ちょうどその時、カマちゃんの店の前にトモ子の運転する車が止まり、トモ子とカマちゃんが同時に叫んだ。


ナイフはポプラの幹に突き立っていて、城見はヘナヘナとそのポプラの幹の麓に座り込んだ。






誰かが呼んだ警察がやって来たのはその直後だった。

城見はその警察に連れて行かれた。


カマちゃんの腕の傷は思ったよりも浅くて済み、数日で治るらしかった。


俺とカマちゃんは警察で事情聴取される事になったが、お咎めは無かった。


城見はやはりまたクスリをやっていた様で、ジェニーを刺し殺した岸田一平もそうだったと聞いた。


警察を出ると、もう夕方で、腕を組んだトモ子と志村さんが立っていた。


「もう、本当に無茶するんだから…。もう五十過ぎてるんだからね…」


トモ子は車のドアを開けながら言う。


「ああ、わかってるよ…」


俺は苦笑すると、カマちゃんと一緒に後部座席に乗り込んだ。

そして警察を出ると、西の空がオレンジ色に染まっているのが見えた。


「凄い夕焼けだな…」


俺は目を細めて言う。


「ああ、でも何か懐かしいな…」


カマちゃんも目を細めてその夕焼けを見ていた。


「でも、やっぱり流石は元不良ね…」


トモ子は運転しながらそう言った。


「いや…。もう不良は辞めにするよ…」


俺は再び苦笑した。


「そうだな…。もう五十だしな…」


カマちゃんがそう言うのを聞いて俺は笑った。


「とりあえず、志村さんも今日は泊まる事になったみたいだし、美味しいモノでも食べに行きましょう」


トモ子は赤信号で止まりながら言う。

止まった場所から夕陽が真正面に見え、目を開けるのが辛い程だった。


その時、その太陽の横に光の線が走った。


「あ、」


「あ、」


俺とカマちゃんは同時にそう言った。







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