第7話 完全燃焼





俺たちは岸田の倉庫に戻った。

岸田にも同じ様に安いバーボンを丸ごと一本飲ませた。

普段酒は一切飲まない岸田。

他の二人よりも酒の回りは早かった。


岸田と岸田の息子の車を倉庫に入れてシャッターを閉めた。

そこに岸田のショールームにあったハマーがやって来た。


「持って来たぜ…」


ジェニーは倉庫の前にハマーを停めた。


「こんな車どうするんだよ」


ジェニーは城見を担いで後部座席に乗せた。


「ああ…警察呼ぶには派手な方が良いだろ。演出さ…」


俺は微笑み、城見の横に岸田を放り込んだ。

それから助手席に一平を乗せる。

そして最後に封筒の中にあったシャブを車内にばら撒いた。


「お前…それ…」


カマちゃんはもったいないと言わんばかりに手を伸ばした。


「こんなモンがあるからいけないんだよ…。これは警察に持って行ってもらおう」


俺はカマちゃんに言った。


カマちゃんも納得したかの様に笑って頷いた。


「これで岸田のショールームに突っ込む」


「は…」


「えっ…」


ジェニーもカマちゃんも驚いていた。


岸田のショールームには数億円に近い車が展示してあった。

そこにこのハマーで突っ込む。

岸田には大きな痛手だろう。


「お前…面白いラスト書くなあ、気に入ったぜ…」


ジェニーはそう言うとハマーの運転席に乗り込んだ。


「その役目、俺に任せてくれよ」


「ダメた」


俺はジェニーに言った。


「最後はコイツらだけで行ってもらおう。お前は遥さんを自分の車に乗せろ…」


ジェニーは渋々ハマーから降りてきた。


「仕方ないな…」


そう言うと倉庫の二階に上がって行った。

俺はカマちゃんと二人で泥酔した三人の手足に巻いたガムテープをちぎった。

しばらくすると、ジェニーが遥を背負って倉庫から出て来た。


「さて…そろそろラストシーン。決めますか」


俺はジェニーとカマちゃんに言って微笑んだ。






ジェニーは岸田の店の前で運転席に一平を座らせた。

足をアクセルペダルに置いて、ハンドルを握らせた。


車内には一千五百万円分のシャブが散らばってた。

そして三人とも泥酔状態で眠っている。

俺は後部座席のドアを開けて岸田と城見を確認したが、まだまだ起きそうに無かった。


「準備出来たぞ」


ジェニーは俺の横に来た。


「じゃあ前輪に何か咬ませて、サイドブレーキ外そうか…」


「わかった…」


ジェニーはハマーの前輪に車止めを咬ませた。

そして一平を乗り越える様にして、サイドブレーキを外し、ブレーキを踏んで、ギアをドライブに入れた。


「大丈夫かよ…こんなんで」


カマちゃんは俺の横でタバコを吸ってた。


「何…そのガラス突き破って、中に突っ込めば良いだけだ。一、二台、中の車にぶつかってくれればそれで良い」


「良いぞ…」


ジェニーが言った。


俺はジェニーに頷き、カマちゃんに微笑んだ。


「カマちゃんタバコくれ…」


「ああ…いいよ」


カマちゃんはタバコの箱を取り出した。


俺はそれに微笑んで、カマちゃんが咥えていたタバコをむしり取った。


「あ…」


俺はハマーの運転席のドアを開けて、一平のジーンズのふとももの辺りにカマちゃんのタバコの火のついた先の部分だけを落とした。


上手く一平の脚の上に火種が乗ったのを確認して、俺は運転席のドアをゆっくりと閉めた。


「車に乗ろう。急いで…」


この声に三人でジェニーの車に乗った。

俺は車を走らせて少し離れた場所に停まった。


「なるほどな」


「上手く行くかな…」


ジェニーもカマちゃんも、もちろん俺も岸田の店の前に止まるハマーをじっと見つめていた。


「上手く行くなら、もうそろそろだな…」


俺がそう言ったのと同時だった。

ハマーのアクセルは目一杯踏み込まれ、物凄い勢いで岸田の店のショールームに突っ込んだ。


ショールームの分厚いガラスを割って、中にあった旧車のベンツとフェラーリにハマーはぶつかり、それでも停まらないハマーはショールームの奥に消えて行った。


「やったな」


「すげえな…」


俺たちは三人でハイタッチした。


「カマちゃん。警察に電話してよ。事故が有りましたってな…」


俺は心が躍っていた。


楽しかった。

何より三人でこうしている事が嬉しかった。


「了解…」


車はハマーだ。

中に乗っているヤツらに怪我などは無いだろう。

しかし飲酒運転とあれだけの量のシャブを警察は見逃さない筈だ。

俺は車を岸田の店の前に着けて、不自然に道に置いてあった車止めを回収した。


「もしもし警察ですか。事故です。なんかでっかい外車が店に突っ込んで…。住所ですか。此処は…」


まだ車の中の三人は起きていない様だった。


「俺たちは退散するか…」


俺はそう言うと車を走らせた。


ルームミラーで見える岸田の店からは煙が上がっていた。

凄い音がしたので近所の人たちも集まり始めていた。


ジェニーとカマちゃんは振り返り、その光景をずっと見ていた。


「何か飯でも食おうか…腹減ったな…」


俺は白みがかった空を見ながらそう言った。






俺たちは人工島の防波堤の上に座って朝日を眺めながらカップラーメンを食っていた。


「やっぱ徹夜明けはこれだな…」


カマちゃんは妙にはしゃいでいた。

俺たちは昔からそうだった。

徹夜で遊んだ後はこの人工島に来て、道沿いにある古いカップラーメンの自動販売機でラーメンを買って食う。

その自動販売機も新しくなっていた。


「ちょっとカレーラーメンくれよ」


俺はカマちゃんのラーメンを無理矢理奪った。


「ちょっと…全部食うなよ」


「しかし、今回は完全燃焼したな…。何にも得しないのにな…」


ジェニーは呟くように俺の横で言った。


「あの頃だってそうだったじゃないか…何にも得しねえのに毎日毎日喧嘩して…」


俺はカマちゃんにラーメンを返した。


「そうだよな…。いつの間にか、得する事にしか興味が無くなって…。そんな事ばっか、追っかける様になって…。それが大人になるって事かな、何て思うようになって…。汚れたのかな…俺たちは」


ジェニーはカップラーメンのスープを飲んでは白い息を吐いていた。


「間違いなく、それが大人になるって事だろ…。仕方ないんじゃないか…」


カマちゃんはカレーの匂いをさせながら笑った。


「カレー臭させながらな」


俺はカマちゃんの背中を叩いた。


「俺、加齢臭してるか…」


「しらねえよ。お前は、から揚げ臭いんだよ」


「いやそうじゃなくてよ。加齢臭してない。してないよな…」


加齢臭にやたらとこだわるカマちゃんだった。


防波堤の上にカップラーメンのカップを残して俺たちは車へ戻った。


「忘れてたよ…」


ジェニーは眉間に皺を寄せた。


「どしたの…」


「遥…。コイツなんとかしなきゃな…」


思い出した…。

ジェニーの元嫁の遥を車に乗せたままだった。


「ああ、それね…任せとけ」


俺はそう言って携帯電話を開いた。


俺はトモ子に電話をかけた。

トモ子は看護師だった。


俺がトモ子に事情を説明すると、遥の入院の手続きをしてくれる事になった。


「トモちゃんって看護師だったのね…」


カマちゃんも初めて知った様だった。


「あれ…言ってなかったっけ…」


「ってか、トモちゃんって誰だよ。なあ、今の誰よ…。え…シラケンの彼女か…。嫁か…おいおい。俺たちの間で隠し事は無しだろうよ…」


ジェニーは後部座席で騒いでいた。






そのまま俺のマンションでトモ子を乗せて、病院へ向かった。

遥を降ろして俺たちは帰る事にした。


カマちゃんを弁当屋の前で降ろした。


「じゃあ、またな。ゆっくり寝たら飯でも食おうぜ」


「ああ、どうせ暇だしな…」


ジェニーとカマちゃんは拳をぶつけて挨拶をしていた。


「じゃあシラケン。またな」


「ああ。またな…」


俺はこめかみに二本の指を当てた。


ジェニーは車を走らせた。


「あの店も捜査の対象になるだろうから、お前のところにも警察が来るかもしれないけど…」


「覚悟してるよ…。それくらい。まあ、辞めてくれって言われてるしな…」


ジェニーは笑っていた。

それは、昔、見たジェニーの顔だった。


車は俺のマンションの前に停まった。

辺りはすっかり明るくなっていた。

俺は車を降りた。


「じゃあな…。また連絡するよ」


ジェニーは言った。


「ああ。毎日して来い。どうせ暇だろ」


「嫌なヤツらだな…」


「あ、そうだ…。トランクにプレゼントが入ってる。後で見てくれ」


俺はそう言って微笑んだ。


「プレゼント…。何だよ…。気持ち悪いな」


ジェニーは苦笑した。


「じゃあな。夜にでも連絡するよ」


「ああ。ゆっくり寝てくれ…」


ジェニーは車を走らせた。

俺はジェニーの車が見えなくなるまで見送った。






部屋に戻ると、トモ子がきれいに部屋を片付けてくれていた。


テーブルの上には飯が準備されていてラップをかけてあった。

そしてメモが…。


「ケンちゃんへ。ちゃんとご飯食べなさいよ。お風呂も入って、ベッドで寝るんだよ。それから第一出版ってところからファックス来てたから。アタシが帰るまで今日は外出禁止だからね。バカケンジ」


俺はそのメモを見て笑った。

風呂にもお湯が張ってあった。

俺は服を脱いで風呂に入る。


少しずつ寒くなる季節。

温かい風呂が最高に気持ちいい。

俺はこの季節が一番好きだ。


俺は風呂を出て髪を拭きながらリビングへ。

テーブルに置いたノートパソコンを開き、そして一気に書き始めた…。






四十歳の青春。

馬鹿な話だと思うだろう。オヤジじゃないかと馬鹿にされるかもしれない。それでも良い。誰が何と言おうと俺は今も青春の日々を送っている。ジェニーとカマちゃん。二人の友人は、俺に昔と変わらない顔で笑いかけていた。それこそが俺には青春の日だった。






電話が鳴った。ジェニーだった。

俺は電話に出た。


「もしもし…」


「おい、シラケン…。もしもしじゃねーよ」


俺は携帯電話を握り直した。


「なんだよ…。寝不足なんだぞ…大きな声出すなよ…」


「金」


「ん…」


「トランクの金だよ」


「ああ…。もらっとけよ」


俺は手探りでテーブルの上のタバコを取った。


岸田が一平を助けるために持って来た金だった。

岸田の車の中にあったのを見つけ、そのままジェニーの車のトランクに放り込んでおいた。


「そうじゃねえよ…。この金は三人で分けるべきだろうが」


ジェニーは捲し立てる様に言った。


「そうか…じゃあ俺はいらねえから。カマちゃんと二人で分けなよ。どうせ表に出せない金だ。足がつく事はないさ…」


「お前、格好付けるなよ…」


「娘…生まれるんだろ…子供」


俺はタバコの煙を吐いた。


「あって困るモンじゃないだろうが…」


「お前、今晩待ってろ。久々にお前に一発喰らわせてやるからな」


ジェニーはそう言って電話を切った。


まったく血の気の多いヤツだ。


俺はそのままリビングで大の字になり、タバコを灰皿に押し付けると、そのまま意識を失う様に眠った…。






その日の夕方、ジェニーから電話が入った。

俺はその電話で目が覚めた。


「シラケン。悪い…。寝てたか…」


俺はやけに神妙なジェニーが気になった。


「どうした。何かあったか…」


俺は起き上がり、目を覚ますために頭を振った。


「警察から呼び出しがあった…」


「呼び出し…。事情聴取だろう」


「だと思うが…。心配するな。俺は何も知らないで押し通す。お前らには迷惑はかけんさ…」


ジェニーの声はやけに優しかった。


「バカ。そんな事気にしてくれとは言わないよ。俺らだってかなりやってしまったからな…」


俺は窓の外を見た。

外は既に暗かった。

一度も目を覚ます事無く、一日中寝ていたようだ。


「シラケン…」


「何だよ…。この世の終わりみたいな声出すなよ…」


「俺に何かあったら…」


「何にも無いから…」


俺は神妙なジェニーに半ば呆れた。

俺の記憶の中の昔のジェニーに、こんな一面は無かったのかもしれない。


「聞いてくれ…。俺にもしも何かあったら…」


「わかったよ…。何」


「娘を頼む…」


今月、子供が生まれる娘がジェニーにはいた。

母親はシャブを抜くために病院に入り、父親は警察…。

確かにこれでは安心して子供を産めという方が難しい話だ。


「わかったよ。お前の娘は俺に任せとけ…」


俺はそう言った。


「それで安心したよ…」


ジェニーはその後、黙ってしまった。


「ジェニー…」


俺はジェニーを呼んだ。


「あ、ああ…大丈夫だ。じゃあ行って来る」


「行ってこい。すぐに帰れるさ…」


俺は気休めを言ったのかもしれない。


「シラケン…。ありがとう」


ジェニーはそう言って電話を切った。


俺はソファに座り、茫然としていた。

何が悲しい訳でも、嬉しい訳でもなかった。


するとまた電話が鳴った。

今度はカマちゃんからだった。


「どうした…」


「ジェニーから電話あったか…」


「ああ」


「アイツ、大丈夫かよ…」


カマちゃんもいつに無く神妙だった。


「娘を頼むって言われたぞ」


「ああ…俺も言われた」


ジェニーに何かあったら、ジェニーが戻るまで俺はオヤジの代わりでも何でもするつもりでいた。


「二人でオヤジ役やるしかないな」


俺は笑った。


「そうだな…」


カマちゃんも笑っていた。


「まあ、すぐ釈放されるだろ」


「釈放も何も単なる事情聴取だろ。元従業員だしな…」


俺は立ち上がり食卓へ向かった。

トモ子が準備してくれた飯を電子レンジに入れた。


「また、なんかあったら連絡くれ…」


俺は電話を切った。


トモ子が作った飯を俺は食う。


不思議だった。

今回の件、どう考えても後味は悪くない。

もしかすると西田は岩瀬に殺されているかもしれない。

それでも後味は悪くなかった。


腹が減っていた。

俺は貪るように飯を掻き込んだ。

何故か涙が溢れていた。

塩辛い飯が俺の喉を通って行く。


「ジェニー…」


俺は声を漏らした…。


俺はそのまま食卓に顔を伏せて泣いた。

一人の部屋に俺の泣く声だけが響いていた。


そこにまた電話が鳴った。

携帯電話の表示を見るとカマちゃんだった。


「はい」


俺は泣いていたのがばれない様に振舞った。


「シラケン。大変だ…。ジェニーの娘から電話があって、破水したらしい」


子供の居ない俺には今一つピンと来なかった。


「産まれるんだよ。すぐ迎えに行くから準備しろ」


「ああ…わかった」


俺は立ち上がり部屋をうろついた。

何をすればいいのかもわからなかった。


「しっかりしろよ…。オヤジの代わりするんだろ…」


カマちゃんは俺にそう言った。

俺はその一言で冷静さを取り戻した。


「そう…だったな…」


俺は立ち止まる。


「すぐ準備するから早く来てくれ。頼んだぞ…」


俺は電話を切って服を着替えた。


カマちゃんが来たのは十分程経ってからだった。

カマちゃんの車で、ジェニーの娘の病院へ向かった。


カマちゃんも焦っていたのだろう。

二度程信号無視をしたかのように思えた。

俺はカマちゃんの横でジェニーの携帯電話を鳴らした。

留守番電話にメッセージを残し、更にメールをジェニーに送った。


「此処だ…」


カマちゃんは荒々しく車を駐車場に停めた。


俺とカマちゃんは病院へ走り込んだ。


ナースセンターのカウンターに両手を突いて、中に顔を突っ込む様にして、


「すみません…」


「…」


ジェニーの娘の名前を知らなかった。

俺は茫然とした。

しかしカマちゃんも知らない様子だった。

岡根で良いんじゃないだろうか…。


「岡根さんはどちらに…」


「ああ、岡根さんですね。先ほど分娩室に入られました。お父様ですか」


「いえ…まあ、そんなモンです」


「これからですので…第二分娩室の前かロビーでお待ちください」


俺たちは第二分娩室へ急いだ。


「おい…どうしたらいいんだよ…」


俺はカマちゃんを肘でつついた。


「俺だってわかるかよ…」


二人の会話は何故か小声だった。

病院に入ると何故か小声になってしまう。


「あれ…白石君じゃない…」


白衣を着た女が俺に声をかけて来た。

俺は誰かわからなかった。


「アタシよ。ほら…」


俺は口を開けたままその女をじっと見た。

そして首をかしげた。


「悪い…。全然わからん」


女は口元を歪めて、


「もう最悪…。覚えてない。酒井。酒井愛子。ほらちょっとだけど中学の時に岡根君と付き合ってたじゃん」


思い出した…。

ジェニーと付き合っていた酒井。


「え…。あの酒井なのか」


「うん。今は上田っていいますけど…。結婚してね」


「覚えてるよ。懐かしいな…」


「どしたの…」


カマちゃんが俺の傍に来た。


「彼女…」


酒井はカマちゃんに頭を下げていた。


「ほら、中学の時にジェニーと付き合ってた」


「ん…酒井…」


「そう。酒井だよ…」


「お久しぶりです。たしか…大塚君」


酒井の笑顔はあの頃のままだった。

カマちゃんと酒井は手を握ってはしゃいでいた。

俺はその光景に微笑んだ。

これが四十歳の本当の姿なのかもしれない。


「ところで二人でどうしたの…」


酒井はふとそう言った。


「あ、ジェニーの娘に子供が生まれるんだよ」


カマちゃんは分娩室を指さした。


「え…あの岡根洋子さんって岡根君の娘さんなの…。知らなかった。私が今から取り上げるの」


酒井は口に手を当てて声を押さえた。


「酒井…医者なのか」


俺は身を乗り出して聞いた。


「そうよ。ここの婦人科医。普段は不妊治療担当なんだけど、今日は当直で、久々に分娩室に入る事になったの…」


酒井はこんなにしゃべる子ではなかった気がする。

二十数年の時を超えて、昔以上に会話をしている俺たち。

この瞬間が俺には温かいモノに感じた。


「元彼の娘の子供取り上げるって複雑か…」


カマちゃんは肘で酒井を突いた。


「そんなのある訳ないじゃない…バカね」


酒井はやっぱり笑っていた。

その笑顔には何処となく昔の面影が見えた。


「先生。そろそろ…」


分娩室から出て来た看護師が酒井を呼んだ。


「あ、はい。すぐ行きます」


酒井はそう言うと手を上げた。


「それじゃ…また」


「ああ、しっかり頼むな」


俺はこめかみに二本の指を当てた。


「かしこまりました」


酒井は微笑んで、俺たちに頭を下げ、分娩室へと歩き出した。

そして部屋に入る手前で立ち止まった。


「その岡根君は何処にいるの…」


酒井は歯を見せていた。


「ああ…ちょっと野暮用でさ。そのうち来ると思うよ」


カマちゃんは少し声のトーンを上げた。


「ふうん…そっか。会いたかったな。岡根君にも…。あ、娘さんのご主人もいないのね。立会とかされないのかしら…」


そう言えば、娘の旦那の話を聞いた事が無かった。

デキ婚というヤツなのだろうか。

娘の苗字も岡根のままなのも気になった。

その辺りは深く聞く話でもない。

俺はそう思った。


「とにかくよろしく頼むな…」


俺は酒井に頭を下げた。


「任せて。腕は良いのよ」


酒井は手を振りながら分娩室に入って行った。






二時間程が過ぎた。


俺とカマちゃんは落ち着かず、分娩室の前で我が子の誕生を待つ様に無意識に歩き回った。


「男かな…女かな…」


カマちゃんは名前まで付けそうな勢いだった。


「落ち着けよ…。お前が歩き回ったって生まれる訳じゃないんだよ…」


そう言う俺もベンチに座る訳でもなく。

窓から外を見ていた。


その時、分娩室の中から子供の泣き声が聞こえた。


その瞬間、生まれて来る子が男でも女でもいい。

五体満足で生まれて来てくれれば…。

そう思った。

こう思うのは、親になってみないとわからないと思っていた。

しかし、それに似た感情を俺は無意識の内に抱いていた。


酒井が分娩室から出て来た。


「産まれたわよ…。元気な女の子」


その酒井の言葉に俺とカマちゃんは手を取り合って喜んだ。


「ありがとう…」


カマちゃんは酒井の手を握り、頭を下げた。


「おかしい…なんか大塚君の子供が生まれたみたい」


酒井は声を出して笑っていた。                                                                                                                                                                                                                     


その時だった。


「シラケン。カマちゃん」


ジェニーが大声で俺たちを呼んだ。

病院に走り込んで来た様子だった。


「ジェニー」


俺は走って来たジェニーを抱き止めた。


「生まれたのか。洋子は、洋子は大丈夫なのか」


どうやら警察には解放された様だ。

携帯電話に入れた留守電を聞き、慌てて病院へ来たのだろう。


「こんばんは。岡根君」


酒井はジェニーに頭を下げた。


ジェニーはその酒井をじっと見つめていた。


「愛子…」


その声は虫の羽音の様な小さな声だった。


「おめでとう。元気な女の子よ」


ジェニーの顔からは、今までに見た事のない様な笑みがこぼれた。


「アタシの事なんで目に入らないみたいね…」


酒井は呆れ顔で微笑んでいた。


「どうぞ…。赤ちゃん。ご覧頂けますよ」


分娩室から看護師が出て来た。


茫然と立つジェニーの背中を俺は押した。


「ほら…行ってやれよ…」


ジェニーは小さく頷いて分娩室のドアを開けた。

俺とカマちゃんもその後に続いた。


「洋子…」


ジェニーの娘、洋子は笑っていた。

その洋子の横に小さな赤ん坊が拳を握っていた。


「良くやった…。お疲れ様」


ジェニーは目を閉じて、混み上げて来るモノを堪えているかの様だった。


「なんか良いな…」


カマちゃんは俺の横で呟いた。


「ああ…」


俺もその光景に微笑んだ。


「洋子…良くやった」


ジェニーは娘の手を握った。


「あなた…」


あなた…。

なに…。

あなたって言ったな…。


俺は首をかしげて二人を見た。

ジェニーはベッドに横たわる洋子の唇にキスをした。


「おい…」


俺は思わず前に出た。


「娘じゃないのか…」


ジェニーが俺の声に気付いた様だった。


「娘はこっちだろ…。洋子は俺の嫁だよ」


俺とカマちゃんはゆっくりと顔を見合わせた。


そして…。


「何っ…」


と叫ぶように言った。






俺はノートパソコンを閉じた。


俺たちの話を書くと決めて、俺は数日で一気に書き上げた。


この話が誰にも認められなくても、俺はそれで良いと思った。


世に出ない作品でも、ジェニーとカマちゃんと俺の中には深く刻み込まれる四十歳の青春の一コマから始まった物語。


若き日に忘れてきたモノを、この歳になって見付けた。


そんな体験だった。


そして、何も変わらない俺たちがいる訳では無く、何も変わる事の出来ない俺たちがそこにはいた。


二〇一一年。


俺たちは間違いなく四十歳だった。


それでもまだ、俺たちの青春は終わらない。


俺たちが俺たちのままで居られる間は青春なのだ。


あの日々から二十年以上経って、やっと見付けた答えのようなモノ。


しかしそれは答えでは無かった。


何が青春かなんて答えは一生出ないのだろう。


冷め切ったコーヒーのカップを持って、俺は立ち上がった。


「トモ子」


俺はキッチンに立つトモ子を呼んだ。


「なに…。ご飯、もう出来るからね」


トモ子は鼻歌を歌いながら、料理を作っていた。


「ちょっとこっちに来てみなよ」


俺は窓辺に立った。


「夕焼けがすごいんだよ…」


俺は窓から暮れかかるオレンジ色の街を見た。


きれいな夕焼けを見ると、必ずあの日を思い出す。


俺たちの原点だったあの日を…。







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