第3話 ジェニーの涙





あれから数日。


俺は何とか官能小説を書き終え、徹夜明けの身体を休めていた。

年々無理が利かなくなって来ている。

昔は三日程徹夜しても、セックスが出来る程の体力はあった。

しかし今はそんな力も気力もない。

原稿をメールで送り、俺は一人、風呂に入っていた。

何度も湯船で寝そうになり、その都度、頭を振って目を覚ました。

入稿した後は修正や変更の連絡がある。

その日、一日は起きていないといけないのだ。


「ただいま」


トモ子の声がした。

どうやら仕事から帰ったらしい。


「おかえり」


俺は風呂の中から返事をした。


「あれ…ケンちゃんお風呂…」


トモ子は風呂のドアをおもむろに開けた。


「ああ、入稿終わったからな。ゆっくり風呂に入ってた」


そう言ってトモ子に微笑んだ。


「じゃあアタシも入ろうかなー」


トモ子は脱衣所で服を脱ぎ始める。


おいおい…。

風呂くらい一人でゆっくり入らせてくれよ…。


「おう。入れ入れ。気持ちいいぞ」


俺の心の声は、外には漏れない様に出来ているらしい…。


トモ子は湯船に飛び込む様に入って来た。

お湯が滝の様に溢れ出す。


「今回も大変だったね…」


トモ子は俺に顔を近付ける。

俺は無意識に少し顔を引いて、


「ああ、もうエロ小説は限界かもしれん。何もエロスが思い浮かばん。って言うより、何がエロスかさえわからん様になって来ている」


「それはさー、ケンちゃんの経験不足じゃないの…」


トモ子はそう言いながら触って来た。


「おいおい…。俺は今世紀最大に疲れてる。今日は無理だよ…」


「嘘ばっかり…ほら…」


嘘とホラがかかってるのか…。

違う。

そうじゃない…。

人は疲れた時に生命の危機を感じ取り、子孫を残そうと本能で性的欲求をかき立てるらしい…どうやらその説は本当らしい…。






俺はベッドで深い眠りについてしまった様だ。


ふと目が覚めると夜の十一時を少し回ったところだった。

トモ子も横で寝ていた。

テーブルの上には二人分の夕飯にラップがしてあった。

ふと我に返り、ベッドの横に置いた携帯電話を取るが、出版社からの着信は無かった。

どうやら一発で入稿出来た様だ。

しかし、着信履歴の中にジェニーからの着信があり、時間的に遅いとは思ったが、俺はコールバックしてみる事にした。

案の定、ジェニーは電話には出なかった。


俺は服を着て、トモ子を起した。


「飯。食おうぜ…」


トモ子は半分寝ボケていたが、ゆっくりとベッドに起き上がると服を着て、一緒に食卓に着いた。

セックスの後、トモ子は食事を作ってくれたらしい。

いつも俺が疲れている時はガッツリ肉料理。

今日は豚の生姜焼きだった。

二人分をレンジで温めて食べた。


「そう言えば携帯なってたよ」


「うん。さっき着信見た。ほら、この間話した二十年振りに会った友達から。かけ直したけど、もう出なかった」


「そっか…」


俺はトモ子の味が好きだった。

外での食事をあまりしないのもそのせいで、部屋に帰って食べたい。

そう思えるのは幸せな事なのだろう。


「もう来月の依頼、来てるの…」


「いや…まだだな」


官能小説の依頼はまた来月もやって来る。

しかしそんな仕事を続ける事もイヤになって来た。


「アタシはさ…。ケンちゃんの書きたい小説を書いて欲しいな…」


俺だって書きたい。

けど、今は何が書きたい事なのかもわからない…。

とんだロングスランパーだ。


「もう一生書けないのかもしれない」


何て事も考えてしまう。


俺が書きたい事って何なのだろうか…。


「今、書きたい事を探してるところ…」


俺はトモ子にそう言うと残りのご飯を口に放り込んだ。


「ごちそう様」


口の中をいっぱいにしたままそう言うと、俺はリビングのソファへ移動した。


やりたいと思っている事をやって欲しいと言われる。

有難い事なのだが、それが出来ない。

自分自身がそれでイヤになる。

トモ子だって、自分の同棲相手がエロ小説を書いているなんて人には言えないだろう。

何とかもう一度、俺にしか書けない小説を書いてみたいと思っている。

思っているのだが…。


俺はタバコを咥えて火をつけた。


「コーヒー飲む…」


トモ子はキッチンから俺にマグカップを見せた。


「うん。うんと濃いヤツ頼む…」


俺はトモ子に微笑み、新聞を開いた。

真夜中に朝刊を読む。

特にリアルタイムにニュースを知りたい訳ではない。

ある小説家に言わせると新聞には小説のヒントが満載で、一文字も見落とさない様に読むのが作家の朝一番の仕事だと言う。

小説を書いておきながら文字を読むのが遅い俺は、そんな風に新聞を読むと、丸一日かかってしまう。

それじゃ仕事にならん…。


「はい。うんと濃いコーヒー」


トモ子はテーブルにマグカップを置いた。


「サンキュー」


「眠れなくならない…。そんな濃いコーヒー飲んだら…」


「眠れなきゃ起きてりゃいいさ…。どうせ何も予定ないしな…」


「もう…身体に悪いよ。そんな生活」


トモ子はソファのクッションを俺にぶつけた。

手に持ったカップのコーヒーが揺れる。


「危ないだろ…。小説家なんて身体壊してナンボの世界なんだろうよ…。鬼の編集者に言ってくれ…」


俺はトモ子に苦笑しながらカップをテーブルに置いた。







「身体に悪いぜ…」


カマちゃんは落ち着かない素振りで二人の前を歩き回ってた。


「バカ野郎…不良がタバコくらい吸わないでどーすんだよ」


ジェニーは慣れない手つきでマッチを何本も擦っていた。

風が強いせいか、なかなかタバコに火がつかなかった。


「ジェニー貸して、俺がやるよ…」


俺はジェニーのマッチを取り上げて火をつけた。

ジェニーがオヤジのショートホープをくすねて来たので、それを学校の帰りに公園で吸おうという話になったのだ。


「やっぱライターも持ってくりゃ良かったな…」


ジェニーのタバコにも俺は火をつけた。

肺にまで煙を入れない、俗にいう吹かしという吸い方。

葉巻などはこの吸い方が基本だけど、別に葉巻を吸ってる訳じゃない。


「この煙を肺まで吸い込むんだよな…」


「そうそう。やってみてよ」


俺はジェニーと二人で木の陰でヒソヒソと話してた。


「おい…。なんか俺だけダメな子みたいじゃんか…。俺にもくれよ…」


キツイショートホープを吹かしてる俺らのところにカマちゃんが来てそう言った。


「ああ…。ほれ…」


ジェニーはショートホープを箱ごとカマちゃんに渡した。

その箱から一本取り出すと咥えた。

俺はカマちゃんの為にマッチを擦って火を近付けた。

カマちゃんは唇を突き出す様に、恐る恐る火をつけた。

その横顔が面白かったのを今でも覚えている。


カマちゃんはそのタバコの煙を思いっ切り吸い込んで吐き出した。


「なんだ…なんて事ないな…」


俺とジェニーはそれを見て、同じ様に煙を目一杯吸い込んだ。

そして二人で噎せ返った。


「お前…凄いな…」


ジェニーは咳込みながらカマちゃんに涙目でそう言っていた。

俺も同様に涙目…。

しかも頭がクラクラする…。


「なんだこれ…」


俺はタバコを消してベンチに寝転んだ。


「クラクラしないか…」


「ああ…クラクラするね…。でもなんか気持ち良くないか…」


俺の横のベンチにジェニーは横になった。


「お前らシャバイな」


一人、余裕で吸い続けるカマちゃん。

身体に悪いなどと散々言っておきながら、最初にタバコを覚えたのはカマちゃんだった。






翌日、俺は爽快な気分で目を覚ました。

トモ子は既に仕事に行って居なかった。


仕事に行く前にトモ子が準備してくれている飯を食い、パソコンを開いた。

編集者からメールが来ている事もある。

今日はそのメールも無かった。


ふと思い出し、携帯電話を開くと、朝早くにジェニーからの着信があり、少し迷ったが、俺はジェニーに電話してみた。


「あ、ジェニー…」


「おう。シラケン。なんか電話、入れ違いですまんな…」


仕事中なのだろう。

等間隔で金属を叩く音が聞こえていた。


「いや…俺こそ遅くに悪い」


昨夜の深夜の電話を謝った。


「今、良いのか…仕事中だろ…」


「ああ、問題無い。いや、ちょっと相談があってよ…」


「金なら無いぞ」


俺はそう言って笑った。


「バカか…。金ならカマちゃんに電話するさ」


ジェニーも笑っていた。


「今日の夜、会えないかな…」


どうやらマジな相談らしい。


「良いけど…何処で」


「出来れば誰も居ないところがいいな…」


何か込み入った話なのだろうと思い、俺は自然に眉間に皺を寄せた。


「わかった。こっちまで来れるか」


「ああ。良いよ。じゃあまた電話するわ。カマちゃんにも聞いてみてくれ…」


「わかった」


電話を切った。

少し真面目なジェニーだった。

そんな事はあまりなく、考えるより先に行動してしまうのがジェニーの特徴だった。


すぐに俺はカマちゃんに電話した。

昼前の一番忙しい時間かもしれないので、出なければ留守電を残すつもりだった。


「はい。どした」


意外にもカマちゃんはワンコールで電話に出た。

俺は唖然として話す事を忘れてしまった。


「仕事中じゃないのか…」


「あー。今日は休み。朝からお袋が頑張ってるよ…」


「そうか…じゃあ、シラケンスペシャルは無理だな…」


俺は笑った。


「あー、欲しいなら店行って作るけど」


いらん…。

二十年いらんって言ったろ…。


「ありがとう。いや…何かジェニーが、相談があるって電話して来てさ」


俺はテーブルの上のタバコを穿る様に一本取った。


「何か、あのジェニーが真剣なんだよ…。ちょっと驚いてよ…」


「へえ…それは珍しい」


カマちゃんは電話の向こうでケタケタと笑っていた。


「で、今日の夜、会う事になったんだけど、時間あるか…」


「夜って何時頃」


「この間の時間くらいじゃないかな…」


俺はタバコに火をつけた。


「あーいいよ。夕方ちょっと用があるから、間に合わなければ先に始めててくれれば」


俺は灰皿の上でタバコの灰を落としながら、


「わかった。じゃあ場所が決まったらメールでも入れとくわ」


そう言って電話を切った。


二十年会わなかった友達。

その友達と一度会うと、こんなに会う機会は増えるモノなのだろうか…。

何より昔の様に色々と相談してくれる関係が、俺は嬉しかった。






その日の夜。繁華街の個室のある居酒屋に俺とジェニーは入った。

カマちゃんも遅れる事、十分程でその店にやって来た。


しばらくは先日の様に昔の話をしていた。

思えば馬鹿な事を三人でやって来たモンだ。

俺はつくづくそう思った。

けど、それが当時の俺たちには最高に楽しかった。


「で、今日は何を…」


俺はふと思い出し、そう訊いた。


「あ、ああ…。話は長くなる。それでもいいか…」


ジェニーが座り直すと、俺とカマちゃんは顔を見合わせた。


「二十年でも三十年でも付き合うぜ」


カマちゃんはビールのジョッキを掲げた。


「俺がイヤだよ…」


ジェニーはそう言いながら同じ様にジョッキを掲げた。

それを見て俺も微笑み、同じ様にした。


話が始まった…。


「今週の初めにな…。残業してたら、事務所でゴソゴソと音が聞こえるんだ。気になって見に行くと若いヤツが社長の金庫。うちの社長、岸田って言うんだけど、その岸田の金庫をあさってるヤツがいたんだ。てっきり俺は泥棒だと思ってな。その男を捕まえて階段から突き落として、ショールームでボコボコにしてやったんだ」


ジェニーはそこまで一気に話すとビールを飲んだ。


「お前にボコボコにされたんじゃ向こうもたまったもんじゃないな…」


カマちゃんは顔を歪めていた。

俺も眉間に皺が寄っていたと思うが…。


「それで近くにあったロープで縛りあげて、社長に連絡したんだよ。そいつがあさってた金庫っていうのが微妙な金庫でよ…。業者や保険屋、ローン会社などからのバックマージンなんかがその金庫には入ってて、言わば裏金ってヤツだな…。社長が好きに使ってる金だ」


まあ、それくらいの事は、普通の中古車屋でもやっているだろう…。

俺はそう思いながら聞いていた。


「だからよ、警察に通報するかどうかを社長に決めてもらおうと思って、社長を呼んだんだ。すると俺が縛り上げたのは社長の息子でよ…。今度は、うちの息子になんて事するんだ。ってなモンでよ…。何故か俺が悪いみたいな空気になってしまってよ…」


「そりゃまた災難だな…」


カマちゃんはクチャクチャと音を立てながらチヂミを食った。

汚ねえからその音だけなんとかしてくれないかな…。


「だろ…。俺、どこも悪くないよな」


同意を求める様なジェニーの口調。


まあ、どこも悪くないかどうかは別として、同意を求めたかっただけなら、別にわざわざ俺たちを呼び出したりはしないだろう…。


「それで…」


俺はスルメの天ぷらをかじりながら訊いた。


「ああ…それは家族の揉め事って事で話は終わったんだ。社長が馬鹿息子を無理矢理、連れて帰ってな…。片付けようと思って事務所に戻ったら、その馬鹿息子のバッグが落ちててよ。その中からこんなモンが出て来たんだよ…」


ジェニーはジャンパーのポケットから小さなビニールの包みを出した。

その中には白い粉が入っていた。


「何だ、これ…」


「多分…、シャブだ…」


ジェニーは更に、


「携帯も入ってたから、その馬鹿息子の発信先を調べてみた。あの馬鹿息子、新生会ってヤクザの西田って男と、この間、お前らが店に来た時にいた城見って保険屋に、数分置きに交互に電話してるんだ。多分、このシャブは新生会の西田から出て、それを保険屋の城見に売ってるんだろう」


「なんかヤバい話だな…」


カマちゃんは眉間に皺を寄せて、残ったビールを一気に飲んだ。


俺もそう思った。

それなら関わらない方が良いし、ジェニーも転職出来るならそれが一番良いのだろうが…。


「それだけじゃないんだ…。そのやり取りの途中に、たまに社長の岸田の名前もあるんだよ…」


「オヤジも一枚、噛んでるって事か…」


俺は手に持っていたシャブをジェニーの手に渡した。

ジェニーはそれをポケットにしまった。


「そういう事になるな…」


ジェニーは微笑んだ。


「俺は初めて馬鹿息子を見たが、先輩整備士の山田さんっていうのが居て、訊いてみたんだ。あの馬鹿息子はホンモノの馬鹿でよ。今、二十二歳らしいんだが、十六の時にやっぱり薬で捕まって年少に入っていたらしい。社長はひた隠しにするらしいが近所でも評判の馬鹿でよ。出て来て何とか更生させようと社長は山田さんに仕事を教えてくれと頼んだらしいが、一日でギブアップ。二日目から出て来なかったそうだ。ヤクザとか怪しいヤツと付き合う様になって、どんどんチンピラみたいなヤツが店に来る様になったんで、社長は仕方なく近くにマンション借りて、一人で住まわせてるらしい…」


俺は小説の中の話じゃないかと錯覚する程で、自然と眉間に力が入った。


カマちゃんはビールのおかわりを頼みながら、


「相当ヤバいな…あの店。下手すりゃ、あそこでシャブの小売やってるのかもしれんって事だよな…」


そう言った。


「そういう事だ…」


ジェニーは名刺を出して並べた。


「馬鹿息子が持ってた名刺だ」


一枚はその新生会ってヤクザの西田と言う男の名刺。

もう一枚は保険屋の城見ってヤツの名刺。

もう一枚…それは女の名刺だった。


「これは誰なんだ…」


俺はその女の名刺を手に取った。


「大阪生命…早良遥…」


俺は名刺の裏を見た。

そこには俺が左手で書いても、もう少し上手く書けそうな字で、


「しろ見さんのかの女」


と書いてあった。


「城見ってヤツの女なのか…」


俺は名刺をジェニーに返した。


「ああ…そうみたいだな…。そして、俺の元嫁だ…」


俺とカマちゃんの手は止まった。


そういう事か…。

それでジェニーは俺たちに、相談したかったのか。

ようやく話はわかった。


「もし、城見がシャブの常習であれば、すでに遥もシャブ漬けにされている可能性はある。それでも救い出せるモノならそうしてやりたいんだ…」


ジェニーは下を向いて拳を握っていた。


そんなジェニーの気持ちは、痛い程良くわかった。


「連絡してみたのか…」


カマちゃんが静かに訊く。


「ああ…。だが携帯も繋がらないんだ」


あの日の城見の目付きに、俺は違和感を覚えた。

それは間違っていなかったのだ。

だとするとジェニーが言う様に、ジェニーの元嫁も危ない。

娘に子供が生まれるというのに…。


「よし…、わかった。まず城見に会って話を聞こうじゃないか…」


カマちゃんはジェニーを見て微笑んだ。


「出来る事からやって行こうぜ。昔から俺たちはそうだっただろう…。今までも俺たちに出来なかった事は無いじゃんか」


「そうだな…。俺も暇だし、やってみるか」


口ではそう言ったが、実はそうじゃなかった。

久々に自分の中で血が湧き立つ感じがした。

あの青春時代にこいつらと一緒に暴れてた時の様に…。


「ありがとう…。しかし相当ヤバいぞ」


「お前と居たら何時だってかなりヤバかったよ」


カマちゃんは笑っていた。


「そうだよ…。いつか刺されるんじゃないかって、ずっとドキドキしてたよ」


俺もそう言って笑った。


ジェニーは声にならない音を漏らさない様に涙を流していた。

ジェニーの涙を見るのはこれが二度目だった。


あの日の事は俺も一生忘れない。






その日は日曜だった。


俺たち三人は隣の街の駅前にあるディスカウントスーパーに買い物に来ていた。

前日にジェニーが、CDプレイヤーが欲しいと言うので買いに行く事になった。

今なら何処で買っても安く買えるが当時はCDが出てまだ二~三年といったところで、まだ高価で、持ってるヤツも少なかった。

高一の夏休み明けだった気がする。


買い物を終えて、街を歩いていると、そこに地元の不良集団が歩いて来た。

しかもシンナーを吸いながら…。


シンナーや薬をやっているヤツは正直ヤバかった。

痛みを感じないヤツが多いのだ。

それに刃物など持っているとそれを振り回すなんて事も平気でやる。

冷静な判断能力などアイツらにはない。


俺はジェニーとカマちゃんに、


「アイツらはヤバい。今日のところは大人しく帰ろう…」


そう言った。

二人もそれに気付いていたらしく、少し遠回りして駅に向かおうとしたのだった。

そんな俺たちにその不良たちは気が付き、飲みかけの缶コーヒーを投げつけて来たのだ。

そのコーヒーはカマちゃんの背中に当たり、三人の白いシャツに飛び散った。


「何やってくれてんだ…」


ジェニーがそう呟いた。


ダメだ…。


俺がそう思った瞬間にジェニーは買ったばかりのCDプレイヤーの箱を投げ出し、その不良たちの方へ走り出した。


それを合図の様にカマちゃんも…。


もう…。

しらねえぞ…。


俺も走った。


真ん中に居た明らかにリーダー格のシンナーを吸っているヤツにジェニーの飛び蹴りはクリーンヒットした。

その男が手に持ったシンナーを投げ出すと、その袋は傍にいたヤツの顔にかかる。

誰が缶コーヒーを投げたかなんて俺たちには関係なかった。

シンナーをやっているヤツなんて立てないくらいまで痛めつけないと、こっちが危ない。

十人位いたヤツらを俺たちは三人で相手した。

それでもシンナーでイカレてるヤツらは怖かった。

どれだけ殴っても蹴っても起き上がって来る。

完全に目が逝ってしまっている。


大半がその場に倒れ唸っていたが、リーダー格の男はしぶとかった。

俺とジェニーはその男を振りまわし何度も近くにあった電話ボックスにぶつけた。

ガラスは割れ、顔面は血だらけで、その男は自分の折れた歯を吐き出した。


これで大丈夫だろうと思ったところで誰かに後ろ手に腕を捩じ上げられた。

次の瞬間、俺たちの手首で金属音がした。


その音に冷静になり振り返ると、制服の警察官が立っていた。


俺たちはどうやら捕まった様だった。


その後、三人とも地元の警察へ連れて行かれ、別々に事情を聞かれた。


三人ともまったく嘘など言ってない。

シンナーをやっているヤツに絡まれ、因縁をつけられた。

コーヒーを投げつけられた跡もある。

それ以上に血まみれだったが…。


「シンナーをやってるヤツに絡まれると本当に殺されるかもしれない」


ジェニーの声は俺たちにも聞こえる程だった。


警察はそんな筈はないと言う。

シンナーでおかしくなったヤツを見た事ないのか。

俺はそう思った。

あの逝ってしまっている目を見たら絶対にそんな事は言えない筈だ。


何時間も俺たちは一方的に悪いと言われ続けた。

それでも俺たちは意見を曲げなかった。

親を呼ばれ、ようやく解放された頃には、もう真っ暗だった。


俺たちの親はひたすら警察に頭を下げていた。


「息子さんたちには反省の色がありませんので、本来なら何時間でも我々は付き合うんですけどね…」


一人の警官が偉そうにそう言っていた。


俺たち三人はその時、絶対に警察官にだけはならないと思った。


「君たちがやった事は立派な犯罪だ。反省も出来ないなんて社会に出てもロクな大人にならん。きっといつかまた、警察の世話になる」


そう言った警察官に、俺は震えが来るのを感じた。

腹が立ったのではなかった。

そんなモノはとうに限界を超えていた。

アイツらは俺たちが悪かったと言わせたいだけなのだ。


親に引きずられる様に警察を出る俺たち。


ジェニーはその出口で立ち止まって振り向いた。


「何が正しいかなんて俺にはわからん。アンタらの言う事が正しいのかもしれん。だけど、俺は俺のルールで正しいかどうか決める。そしてそのルールとアンタらのルール。どっちが正しいか何時かアンタらの前で見せてやる。人の話も聞けんヤツが何を偉そうに制服着て、俺たちに説教できるんだ…。今日の俺たちは間違ってない。アンタらに殴られようが、蹴られようがそれを曲げる気はない」


ジェニーは警官たちに向かってそう言った。

そのジェニーの目には話を聞いてもらえなかった悔し涙が流れていた。


「お前は何を言ってるんだ。ブタバコに入れても良いんだぞ」


一人の警官が剣幕になってジェニーに掴みかかろうとした。

その警官を年配の警官が俺の目の前で止めた。


その年配の警官は、


「お前みたいなヤツが、将来、警察官になってくれたら、もっとこの国は良くなるかもしれんな。今日は帰れ。ゆっくり寝て明日からまた、ちゃんと親孝行しろよ…」


ジェニーの肩を叩いてそう言った。

その言葉にジェニーは声を上げて泣いていた。


それがジェニーの涙を初めて見た日だった。






その日、俺はなかなか眠れず、天井を見ながらジェニーの苦しみを考えていた。

ジェニーの涙はそれ程に衝撃的だった。


「眠れないの…」


トモ子は横で俺を見ていた。


「うん…。ちょっとな…」


俺はベッドを出てキッチンへ向かうと、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り、ソファに座った。


「大丈夫…」


トモ子も起きて来て俺の横に座る。


「すまんな…。起してしまったな」


「ううん。いいけど…」


トモ子は心配そうな目をして、俺の顔を自分の胸に埋めた。

心地良かった。

トモ子の体温が今の俺にはたまらなく心地良かった。


「仲間を…ジェニーを助けたいんだ」


「うん」


「無くしてしまいそうだったモノを、取り戻したいんだ…」


「うん」


「昔みたいに、本当の俺で在りたいんだ…」


「うん」


トモ子は優しく返事をした。

きっと俺が何を言っているのかなんてわからない。

それでもトモ子は無条件に俺の味方だった。


「このまま、眠っても良いよ…」


トモ子のその気持ちが俺を眠りに誘った。






翌日、俺は街を彷徨う様に、髭も剃らずに虚ろな目でフラフラと歩いていた。

今の自分に何が出来るのか。

それさえもわからなくなった。

ただジェニーを助けたい。

だがそのために何が出来るのか…。

昔の自分は、何が出来るのかなど関係無かった。

まずやってみる。

結果、出来ても、出来なくてもそれで良い。

そんな毎日だった。

今はその出来なかった場合が怖いのだ。


今まで俺は何をして来たんだろう…。


俺は商店街を抜け、スクランブル交差点に立っていた。

誰かのクラクションが聞こえ我に返った。

色の無かった世界は、その色を徐々に取り戻していく。


俺はゆっくりと歩き、再び商店街の中へ入った。


携帯電話が鳴っているのに気付く。

カマちゃんだった。


「もしもし…」


「あ、シラケン。大丈夫か…」


「え…。どうしたの…」


「今、トモちゃんから店に電話があったんだよ。お前が居ないって。携帯に電話しても出ないから心配して」


俺は胸に穴が空いた気分だった。


「おい、シラケン」


「聞いてるよ…」


「今、どこだ」


「商店街だよ…。大丈夫だよ。今から帰るから。トモ子に美味いケーキでも食わせようと思って、買い物に出ただけだ」


俺は商店街の真ん中で立ち止まり周囲を見た。


誰も俺には目も繰れず、ただ足早に歩いていた。

俺は何故かそれを見て微笑んだ。

そんなに人の目が怖いのかよ…。


「すぐトモちゃんに連絡してやれよ」


カマちゃんはそれだけ言うと電話を切った。


携帯電話の着信履歴を確かめる。

トモ子から十数回のコールが残っていた。

俺はすぐにトモ子に電話した。


「もしもし…」


「何処、行ってるのよ」


「ごめん。今、商店街。お前に美味いケーキでも食わせようと思ってさ…」


「そんなの、要らないから、早く帰って来てよ」


「わかったよ…。今から帰るから…」


「すぐよ。今すぐよ…。走って帰って来て」


「わかったよ。心配性だな…」


俺は微笑んだ。

そして何かが見えた気がした。


「あ、トモ子…」


「何…」


「俺、書くよ…。自分が書きたいモノ、やっと見つかったんだ…」


「うん。書いて…」


「ああ。書かされる小説に俺は居ない。自分が書きたいモノだからその中に俺が居る。それがわかったんだよ…」


俺は歩き出した。

その俺の足はどんどん早くなって行く。

そして気が付けば俺は走っていた。

トモ子の待つ部屋へ向かって。







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