第2話 再会





レイコはパンティの中で蠢く隆の手を、もう自分の意思では跳ね除ける事は出来なかった。

夫を裏切る事になるという意識とは真逆に底なし沼の様な快楽の底に沈んで行く。


「ダメ…」


その言葉を口にするのが精一杯で、身体は意識とは逆に勝手に開いて行った。






俺はそこまでキーボードを打つと、灰皿に置いたタバコを取り咥えた。


正直もう官能小説はウンザリだった。

明けても暮れても男と女のあり得ない情事を文字にしてキーボードを叩く。

吐き気がする時もある。

こんな筈じゃなかった。


二十五歳の時に書いた小説が賞を取り、俺は教師を辞め小説家として生きて行く事に決めた。

ある意味、編集者の口車に乗せられたのかもしれない。

初めの内は受賞作家の作品って事で本もある程度売れていたが、その人気はピタリと止まり、今じゃ毎月二本の官能小説を書いて暮らしている。

俺が小説家として復活するにはもう一度、何らかの賞を取るしかないのだろう。

わかっているのだが、なかなか筆…じゃないな、キーボードを打つ手が進まないのだ。


俺はタバコを咥えたまま横になり、天井を見ていた。

タバコの灰が落ちそうな事に気付き、慌てて灰皿でタバコをもみ消した。


「ケンちゃん。書けないの」


「いや…。そうじゃないけど」


俺がゆっくりと起き上がると、トモ子は背中から腕を回してきた。


「無理しなくても良いのに」


トモ子は甘い声でそう言うと、俺の頬にキスをした。


「明後日、締切だからな…。書かないと」


トモ子の手を握り、俺は微笑んだ。


「ケンちゃんが書きたいモノ書けばいいじゃない。生活はアタシが何とかするから」


そう言う訳にはいかない。

男のプライドの様なモノだ。

官能小説を月に二本書いて十五万。

ニートの様な生活だったが、それでこの部屋の家賃と、自分の国民健康保険、国民年金を払っていた。

それを払うと、後はタバコ代くらいしか残らない。

食費は今でも、この二年前から同棲しているトモ子が出していた。

それでも世間から見たらヒモの様なモノだ。

女に食わせてもらってる事には変わりはない。

時々、自分が情けなくなる事があるが、それでもトモ子は俺の傍に居てくれる。

俺はこの一つ年上の女を幸せにしたいと思い、書きたくもない官能小説を書いている。


「疲れてるんじゃない。少し気晴らしにでも行ってくれば」


トモ子は俺のジーンズのポケットに金をねじ込んだ。


「ありがとう。そうするか…」


俺はテーブルの上のタバコとライターを掴み、壁のハンガーにかけたジャケットを取った。


気分が乗っている時は官能小説の一本や二本、数日で書き終えるが、乗らない時は、そりゃもう悲惨なモノで、ひと月すべてをそれに費やす事になる。


「夕飯、作って待ってるからさ。ゆっくりしておいでよ」


トモ子は玄関で靴を履いた俺に、いつもの様にキスをする。


「今日は何…」


別に夕飯のメニューに興味は無いのだが、作ってくれるからには訊くのが礼儀だと思い、いつも訊く事にしていた。

トモ子も俺がメニューに興味が無い事はわかっているのだと思う。


「ケンちゃんの好きなモノ、何でも作るよ」


トモ子はまた甘えて来る。

俺もそれに合わせる様に、トモ子の腰に手を回す。


「じゃあさ…。じゃあさ…。子供…」


俺は甘える様な声で、トモ子の耳元に言った。


「やだ…。ケンちゃん。もうエッチなんだから」


トモ子は濃厚なキスをした。

部屋の中ではシャツの下にブラを付けない、トモ子の胸の小さな固い突起が…おっと、どうやら官能小説の癖が抜けない様だ。

これも職業病の一種だろう。


俺は部屋のドアを閉めて外に出た。

何処かへ行けと言われても正直、行く宛ても無い。

一人で部屋に籠る仕事を十五年もやってきたのだ。

仕方ない事だろう。

ジーンズのポケットにトモ子が突っ込んだ金を見た。

一万円。

俺にとっては大金だった。

その金をポケットに戻し、今度は携帯電話を取り出す。

特にどこかに電話をする訳ではないが、定期的に携帯の画面を見ないと落ち着かない。

これは現代病の一つだろう。

俺はかなりな病人なのかもしれない。


商店街に出てみた。

平日の昼間とあって人影も疎らで、ラフなジャケットにジーンズ姿のオッサンは、俺くらいのモノだ。

ジャケットの胸に挿したサングラスをかけた。

地球の紫外線は目をやられる…。

機動戦士ガンダムでシャア・アズナブルがそう言っていた。

そんな事を思い出しながら、俺はフラフラと歩く。


俺は白石健司。

一九七一年生まれの今年四十歳。

職業は…。

まあいいか。

幼い頃から文章を書くのは得意で、読書感想文のコンクールなどはいつも賞を取っていた。

そこそこの大学を出て俺は、幼い頃からの夢だった教師になった。

ある日、趣味で書いていた小説が賞を取り、教師を辞めて小説家として生きる事にした。

それから十五年。

ロクでもない日々を送っている。

何を書いても、それが自分のモノではない様な気がする。

いつの頃からだろうか、どうも俺の中で不完全燃焼の何かがある事に気付いた…。






俺は、ある弁当屋の前で立ち止まり、ポケットの小銭を出す。

そして、店を覗き込む様に見て、


「すみません。マズイから揚げ弁当一つ」


そう言った。


「お客さん。うちのから揚げ弁当は美味いって評判なんですよ…」


店の中からコック服を着た男が顔を出した。


「何だよ…シラケンかよ」


「よっ」


俺はこめかみに二本の指を当てる様にして挨拶した。

昔からこの挨拶は変わらない。


「から揚げ弁当くれよ」


俺はカウンターに小銭を置いた。


「金は良いよ。中で食っていくか」


カマちゃん。

大塚雅一。

同級生である。

小学校の時、カマちゃんの家はこの場所で中華料理屋を営んでいた。

気が付くと洋食屋になり、高校へ通う頃は定食屋になっていた。

そして俺が小説家になった頃、とうとう弁当屋になってしまった。

これも時代の流れだ…。

なんてカマちゃんは言っていたが、カマちゃんの性には合っている様だった。

数年前にカマちゃんのオヤジはリタイヤし、完全にカマちゃんに店を譲った様だ。


「相変わらずだな…。よく潰れないね」


俺は、厨房の中でから揚げを揚げるカマちゃんに言った。


「馬鹿、もう昼のラッシュは終わったんだよ。後は夕方のラッシュだな。それまでは暇なんだよ。たまにマズイから揚げ弁当くれって客が来るくらいかな」


「へえ、そいつは失礼なヤツだな」


俺はイートインコーナーに置いてある週刊誌を捲った。

俺の書く官能小説が載っている雑誌だった。

あり得ない世界を書く。

それが小説だと言ってしまえばそれまでだが、あり得ない性描写は、世の中の男どもを興奮させる事だけの為に作られたフィクションで、そのフィクションは時に胸を悪くさせる。

何事も程々が一番良い。


「ほら、お待ちどう…」


カマちゃんは俺の前に山盛りのから揚げを出して来た。


「食えよ。うちのマズイから揚げ。シラケンスペシャルにしてやったからよ」


俺の顔は引き攣っていただろうな…。

カマちゃんは頬杖をついてニコニコと笑ってた。

何事も程々が一番だよ…カマちゃん。 







「で、どうなの…。書いてるの」


カマちゃんは俺の横に座ってタバコに火をつけた。


「まあ、ぼちぼちってとこかな…」


俺も脂っこいモン食った後の一服を味わってた。

やっぱあんまり美味くないよ、このから揚げ。


「じゃあ、まだトモちゃんに食わせてもらってんのかよ」


カマちゃんは横眼で蔑む様に俺を見ていた。

俺はその言葉に少しカチンと来たが事実だから仕方ない。


「トモ子は俺に惚れてるからさ。良いんだよ」


友達の前では強がっていたい。

心にも無い事を言うと、少し声が裏返る癖が俺にはある様だ。


「お前さ、昔からそう言うよな。アイツは俺に惚れてる惚れてるって。結果七勝八敗だろが」


「八勝七敗。間違うなよ…」


俺はカマちゃんを指差して言った。

ここは重要なところだ。

カマちゃんとは小学校から一緒で、今もこうやってたまに話をしている。

俺の青春時代の話には、必ずこの男は出て来る。

時にはウザくもあり、良き仲間でもある。


「でもよ…もう四十だしさ。そろそろトモちゃんとの結婚とかも考えないとな」


そうだよな…。

カマちゃんに言われなくても、それは考えている。

しかし、甲斐性無しの俺と結婚したいか…。

以前にトモ子とそんな話をした事もあった。

トモ子は別に形には拘らないから、一緒にいたい。

そう言ってくれた。

俺にはもったいない女だ。


「まあ、そん時は盛大にパーティでもやるか…。お前のから揚げは抜きでな」


俺はタバコを消した。

カマちゃんは黙って苦笑いしてた。

そしてふと、


「そう言えば、ジェニー帰って来てるの知ってた」


そう言った。

初耳だった。


ジェニー。

岡根章太。

こいつも同級生。

ジェニーは高校を出て栃木県の自動車整備士の専門学校かなんかに行き、その後、大阪の某大手自動車メーカーの整備工場で働いてた。

年賀状かなんかで結婚したってのは知っていたけど、少し離れると、だんだんと疎遠になって行く。

この数年、ジェニーの話は聞かなかった。


「どうやら、町の中古車屋で整備してるらしいよ」


カマちゃんの情報網は小学校の頃から凄い。

昨日どこそこで放火があったなんて情報は、カマちゃんが火をつけてるんじゃないかって噂される程に正確だった。


「久々に会いたいな…」


俺はほとんど無意識にそう言った。

実際、高校を出てから顔を合わせたのは一度だけ。

偶然に駅の向かいのホームに立っているのを見かけたのが最初で最後だ。

それももう俺が教師をしている頃だから二十年近く前の事だ。


「カマちゃんさー。ジェニーの働いてる店わかるの」


「ああ、そうだな。ガソリンスタンドのオヤジに訊いたらわかるよ。訊いてみようか」


カマちゃんはコック服のポケットからスマホを出した。

画面は油でギトギトで虹色に光っている。


「汚ねぇな、そんなんで動くのか、それ」


俺はスマホを触るカマちゃんにちょっかいを出した。






ジェニーの働く中古車屋はすぐにわかった。

ここから、駅二つ程行ったところだった。

意外に近くに居ても会わない事もある。


「どうする。行ってみるか」


カマちゃんはコック服を脱いで、行く気満々だった。


「こんな時間に行っても仕事中だろ。マズイから揚げ揚げてる訳じゃないしさ」


「お前、いい加減にしろよ。うちの一番人気なんだよ」


これ以上言うと、カマちゃんも本気で怒り出すだろうと思い、そこで止めた。


「じゃあよ。今日の夕方、ラッシュ終わったらオフクロと交代するからさ、それから行ってみようや」


カマちゃんは名案を思いついたと言わんばかりの顔で俺を見てた。

そんな顔する程の名案でもないんだが…。


「ああ、良いよ。じゃあ夕方、また来るわ」


「そうしてくれ」


俺は立ち上がり、イートインコーナーを出た。


「また夕方、シラケンスペシャル用意しとくわな」


カマちゃんはカウンターの中に入って笑いながらそう言った。


「バカ野郎。二十年はいらねえよ」


俺はサングラスをかけて、カマちゃんの店を後にした。






カマちゃんと話して、かなり頭もスッキリした気がしたが、それでも部屋に戻り、官能小説を書く気にはどうしてもなれなかった。

商店街を横切り南へ行くと、海に面した大きな公園がある。

俺はその公園へ行き、空いているベンチに座った。


久々にジェニーの名前を聞いた。

俺とカマちゃんとジェニーは小学校、中学校、高校と一緒だった。

その間にクラスは違ったりしたが、いつも一緒にいた。

小学生の時に三人で誓った「不良になる事」それを中学の二年の頃から実行した。







「不良って、まず何をしたら良いんだろうか」


ジェニーが放課後、学校近くの神社で話している時に、突然言い出した。

今考えるとおかしな会話だが、当時の俺たちは不良とはって知識がまったくなかった。

上級生などに少し悪ぶるヤツはいたが、俺たちが目指した不良は単に悪ぶる事じゃ無く、一本筋の通った不良だった。


「難しいよな。どんな不良が良い不良なんだろうな…」


カマちゃんが何気なく言った一言だったが、俺はおかしかった。


良い不良って…。

悪くて世間から煙たがられて、初めて不良って呼ばれる。

俺はそう思っていた。

しかし、ジェニーとカマちゃんは違っていて、皆に恐れられる程に強い正義の味方。

これが二人の中の不良像だった様だ。

結局、仮面ライダーやウルトラマンになりたかったのとそんなに違いは無かった。


「とりあえずさぁ。学校で悪ぶってるヤツ、片っ端から絞めて行こうぜ」


如何にもジェニーの言いそうな言葉だった。


「大丈夫かよ。六組の名倉とか小学校の頃から空手やってるって話しだぞ」


カマちゃんはいきり立つジェニーが心配そうだった。

しかし、ジェニーがそうなるのも当たり前の話で、ジェニーは身長も高くて学校でも目立ってた。

女にもモテてたし、喧嘩の強いヤツらからも一目置かれる存在だった。

それ故に敵も多い。

そしてそのジェニーのインパクトが俺とカマちゃんをジェニーの腰巾着キャラにしてしまっていた。

俺らが中学生の時代、ちょうど不良マンガのビー・バップ・ハイスクールの全盛で、そんな感じに決めたヤツらが沢山いた。

俺たちはそんなヤツらをバカにしてたところもあった。


「リーゼントとか角刈り剃り込みとかイヤだろ。ちょっと俺んち行ってヘアスタイル考えようぜ」


ヘアスタイルに関しては、カマちゃんが一人、張り切ってた。

カマちゃんの姉貴の部屋からスタイリング用のムースやジェルを拝借して三人で頭に塗りたくっていた。

当然コテコテの頭になってしまう訳で…。


洗面所に並んで頭を洗っていると、帰って来たカマちゃんの姉貴に見つかり、こっぴどく怒られた。

結局、その日は自分で考えて、翌日学校にそのヘアスタイルで登校する事に決まった。


俺は家に帰って、色々とやってみたが、当時流行ってたニューウェイブって髪型で、翌日学校に行く事にした。

案の定、校門で風紀委員に止められ、体育教官室で頭を洗う事になる。

俺が体育教官室に行くと、そこには既にカマちゃんがいた。

二人で目配せしながら仕方なく頭を洗った。


「おかしいな。ジェニーは止められなかったんだな」


体育教官室を出たところでカマちゃんが俺に言った。

確かにおかしい。

ギリギリセーフだったのだろうか。

二人でボサボサの髪の毛を気にしながら、教室に戻ると、そこにはきれいに頭を剃り上げたジェニーがいた。


「え…」


俺とカマちゃんはそのジェニーを見て絶句した。

それじゃ、たとえ風紀委員に止められたとしても頭を洗う必要はない訳だ。


俺とカマちゃんはそんなジェニーを指さして笑った。


その日から歴史の先生にジェニーは、「岡根和尚」と呼ばれる事になった。







「トモ子、今日ちょっとこのまま出るから。先に飯食ってて…」


俺は夕方、カマちゃんの店に向かう途中に、携帯でトモ子に電話した。

トモ子は少し残念そうだったが、承知してくれた。

俺はまた商店街を北へ横切り、カマちゃんの店へ。

嘘ではなかった。

カマちゃんの店は結構繁盛していて、そのカマちゃんも必死に弁当を作っていた。


「あら、シラケンちゃん」


そう呼ばれ振り返ると、カマちゃんの母親が立っていた。

カマちゃんの母は、小学生の頃から変わらず俺の事をそう呼んでいる。


「久しぶりね」


「はい。ご無沙汰してます」


俺は軽く頭を下げた。


「ちょっと待っててね。雅一とすぐに交代するから」


そう言うとそそくさと店に入って行った。


小学生の頃はよくカマちゃんの家に遊びに行っていた。

あれから三十年余り。

もう七十近い年齢だろう。

それでもシャンとして商売人の空気を醸し出していた。


「ちょっと待っててくれ」


店の中からカマちゃんの声がした。


「ああ」


俺は短く返事をして、空を見上げながらタバコを吸った。

これだけ混んでる店を、簡単に抜ける訳にはいかない事も理解出来た。

カマちゃんがニコニコしながら、客に弁当を渡していているのを俺はじっと見ていた。

何故か少し胸が熱くなった。


同級生がこれだけ頑張っている。

それなのに俺は毎日毎日、くだらない官能小説ばかり書いている。

この差は何だろうか。


この一年、まともな小説は書いていない。

いや違うな、書けていない。

それも違う、書けない。

そう、書けないのだ。

自分の書きたい小説が何なのか、それさえわからなくなっていた。


「シラケン、悪いな。もうすぐ出れるから」


カマちゃんは俺を気遣って、何度も俺に声をかける。


「気にするな。俺の事はその辺のポプラの木だと思っててくれ」


俺は缶コーヒーを買って、カマちゃんの店から少し外れたところで飲んだ。

俺が視界に入ると、カマちゃんも気を使うだろうと思ったからだ。


それから二十分程でカマちゃんは出て来た。


「悪い…。行こうか」


カマちゃんは指で車のキーホルダーをクルクル回しながら歩いた。

どうやら店の裏手に車を停めているらしい。

店の裏はカマちゃんの自宅になっていて、そこに両親、嫁、子供二人と一緒に暮らしていると言ってた。


「ジェニーいるかな…」


俺はカマちゃんの昔から変わらない歩き方を見てた。

独特な歩き方で、少し跳ねる様に歩く姿は何も変わらない。


「どうだろうな。もう仕事終わってるかもしれねえな。その時は店の人に家、訊こうぜ」


カマちゃんは家のガレージに停めた、黒のホンダのオデッセイのドアを開けた。


「乗れよ」


カマちゃんは運転席に乗り込みながら言う。

俺はドアを壁に当てない様に気を使いながら助手席に乗り込んだ。


「カマちゃん、ホンダ嫌いじゃなかったっけ。なんでホンダ…」


そうなのだ。

カマちゃんはホンダが嫌い。

何故かって言うとその理由がさっきの歩き方にある。

小学校の頃、カマちゃんは事故にあった。

その相手の車がホンダのシビック。

そこから、


「俺は死んでもホンダ車には乗らん」


って言い始めた。


「ああ、嫁がなー。子供乗せるのにちょうどいいからこれで決まりー。だってさ」


女は強いね。

俺はカマちゃんの横顔を見て笑った。


車は勢いよく走り出す。


「タバコ吸っても良いよ」


カマちゃんは自分も胸のポケットからタバコを取り出して一本咥えた。


「ああ。ありがと…」


「でもさ。なんでジェニー連絡してこないんだろうな…水臭いよな」


カマちゃんは前を向いたまま言った。


確かにそうだよな。

帰って来てるなら、そう連絡してくれても良さそうなんだが。

俺もぼおっと前を見ていた。


暮れかかる街を空はオレンジ色に染めていた。

ちょうどあの日の空の様だった。







「おい、シラケン、ジェニー、裏山行かねーか」


カマちゃんはランドセルをカチャカチャ鳴らしながら、下駄箱のところではしゃいでいた。


「えー裏山。何にもねーぞ。あんなとこ」


「そうなんだよ。あの山の裏側さー。今、何にも無いんだって」


俺とジェニーは顔を見合わせた。


「何にも無いってどういう事」


俺は学校の入口の階段に座り込んで靴を履いた。


「あの山削ってさ、どっか埋め立てるらしいよ。そんで、あの山のところに家が沢山建つらしいんだ」


「そんなバカな。山が無くなるってすげーぞ。そんな大量の土で何処埋めるんだよ」


ジェニーも俺の横に座って靴を履く。


「どっか海らしい。島作るらしいよ」


カマちゃんは立ったままで踵を上げて靴を履いた。


俺は少し興味を持った。

あの山が無くなった景色を見てみたいと思った。

学校から見ると変わらない裏山の光景。

だけどカマちゃんが言うには裏側は山が削られて、平らな土地になっていると言う。


「島って…。すげえじゃん」


ジェニーは立ち上がった。


「面白そうだな。行ってみるか。」


俺も快諾した。

そんなに高い山じゃなく、図工の時間にスケッチに登る程度の山だ。

多分、二十分程で登れる。


俺たちはこっそりと学校の裏手に回り、山に入った。


「なんか先生が、マムシがいるから気をつけろって言ってたよね」


俺は足元を注意深く見ながら歩いた。

俺は蛇が大の苦手だった。


「マムシってさー。蛇だよな。何でムシなんだ…」


ジェニーはおかしな事を言いながら、先頭を歩いていた。


「しらねーよ。帰って子供相談室にでも訊けば」


当時、流行っていた電話のサービスだ。

子供の素朴な疑問に答えてくれるサービスだったが、俺たち三人は子供相談室をまともに利用した事はなかった。

電話してワーワー騒いで切る。

そんな事でも楽しめた年齢だった。


図工の時間にスケッチで登るところまでは簡単に着くが、その先は俺たちにも未開の地だった。


「シラケン。大丈夫か」


ジェニーは何度も何度も、俺に声をかけてくれた。

俺だってそんなに運動神経が鈍い方じゃない。

ただこのクラスでもトップクラスの運動神経を持つ、ジェニーとカマちゃんについて行くのは大変だった。


「大丈夫だよ」


俺は前を歩くカマちゃんの足跡を辿るように歩いた。







「ここだな…」


カマちゃんが車を停めたのは、外車ばかりを並べている中古車屋だった。

その前にカマちゃんはオデッセイを停めた。


「もう閉まってる感じだな…」


「そうだな…」


俺も車を降りて店の方へ近付いた。

ベンツの旧車などがステンレスの柵になったシャッターの向こうに並んでいる。


「すげえ車ばっかだな…」


「うん」


二人で唖然としてそこに並ぶ車を見ていた。


「なんですか」


店のドアが開き、高そうな服を着た男が出て来た。

俺はその男がどうも胡散臭く感じた。


「あ、こちらでジェニ…岡根さんって働かれてますよね」


カマちゃんが訊くと、その男は頷いた。


「何。オカちゃんはうちで働いてるけど、何、何の用事」


その男はどうやらこの店の店主、言わば社長だろう。

何故かその言い方がイチイチ鼻に付く。


「あーすみません。俺ら岡根の同級生で白井と大塚と言います。ここで働いてると聞いて会いに来たんですけど」


俺はカマちゃんの後ろからその社長に言って頭を下げた。


「同級生ね。オカちゃんならさっき帰ったよ。何だったら連絡先教えようか」


男は店の中へ入って行った。

そしてすぐに出て来たかと思うと、ジェニーの名刺を一枚持ってきた。


「ここに携帯番号書いてるから。電話してみて」


その社長は無愛想にドアを閉めた。

何故か終始、癇に障るオヤジだった。


早速、カマちゃんがその名刺にあるジェニーの携帯を鳴らすと、すぐにジェニーは電話に出た様だ。


「あ、ジェニーか、俺、誰かわかる」


カマちゃんは電話で話しながら、ニヤニヤと俺を見てた。


「そうだよ。何でわかるんだよ。つまんねえな」


俺はその様子を見ながらタバコを出して咥えた。


「今から会えないか。うん、うん。そうそう。シラケンも一緒だからさ。いいよ。車だから迎えに行くよ。場所教えてよ。うん。あーわかる。そこを…。あーわかった。その辺まで行ったらまた電話するよ。じゃあな」


カマちゃんは電話を切った。


俺はどうも中古車屋の中から、こっちを見ているさっきのいけ好かない社長と、向かいに座るスーツ姿の男が気になった。


「おい、行こうぜ」


カマちゃんは車に乗り込んだ。


「あ、ああ…」


俺も助手席に乗った。


「何…どうしたの」


カマちゃんは俺の様子に気付いた様だ。


「いや…何でも無い」


そう答えると、カマちゃんのオデッセイは走り出した。

嫌な予感がした。

俺のそういう感は良く当たる。

感とは違うのかもしれない。

洞察力と言うのだろうか。

警察でいうプロファイリングの様なモノなのだろうか…。

中古車屋の社長とスーツの男の目付きは、まともな人間の目付きではなかった。


「…だったよな」


「あ、ああ…そうだったな…」


カマちゃんの話を、俺は聞いてなかった。


「あん時のジェニーってさ。俺らでも怖かったもんな」


だが、大体何の話をしているのかわかった。

この話は何度もカマちゃんとしていた。

多分、ジェニーが中学の時、同じ学年の名倉と喧嘩した時の話だった。






学校の近くに大きな公園があり、その公園で俺たちはバカみたいな話をして時間を潰す。

それが日課の様なモノだった。

その日もいつもの様に俺とカマちゃんとジェニーはそこにいて、バカな話をして、はしゃいでいた。

そこに名倉とつるんでいるヤツらが十人程でやって来た。


名倉はいつも偉そうで、同級生を小間使いの様に使っていた。

よく十円渡して焼きそばパン買って来いなんていうイジメがあったんだけど、あれを現実にやっていた。

しかもその上に名倉は十円渡して焼きそばパンを買いに行かせたヤツに、


「あれ…。お釣りは…」


などと言って更に虐めていた。

名倉の周囲にはその恐怖から従うヤツが溢れていた。


「あれ、名倉だよな…」


カマちゃんがその名倉の集団を見つけた。


「そうだな」


俺は別にそんな名倉に興味は無かった。


名倉は小学校の頃から空手をやっていて、全国大会まで行ったツワモノだという事もあり、喧嘩になると誰も勝てないと専らの噂だった。


「空手より喧嘩の方が強いに決まってるだろうが。何ただのスポーツにビビってんだよ」


ジェニーはいつもそう嘯いてた。


「俺がいつかあの名倉は絞めてやるよ。俺もムカついてるんだ…」


ジェニーの口癖だった。

しかしその口癖はいつしか広まり、とうとう名倉の耳にも入ったのだった。


俺たちがはしゃいでると、向こうから名倉の腰巾着の、桑原だったか桑田だったかが、ポケットに手を突っ込んで肩を揺すりながら歩いて来た。


「おい。お前ら…」


その桑原だったか桑田だったかが、俺たちに声をかける。


「何…」


「名倉が呼んでるからよ。ちょっとツラ貸せや…」


多分その瞬間に、ジェニーは切れたに違いない。


「名倉って誰だっけ。知らない人に付いていっちゃいけないってセンセーに言われてるからやめとくわ」


ジェニーがその桑原か桑田だったか…もう桑原でいいや。

そいつの前に立ってじっと睨み付けた。

ジェニーは中学二年生で一七五センチあり、同級生の大半を見下ろす感じだった。


「名倉かマタグラかしらねーけどよ。用があるなら自分から来いよ。それが礼儀ってもんだろが」


ジェニーは、その桑原を睨み付けたままそう言った。


「わ、わかった…。そう伝える」


そう言うと小走りに帰って行った。


「おいおい。ヤバいんじゃないのか。名倉だろ」


カマちゃんはジェニーの後ろに立って、制服の袖を引っ張った。


「たかが空手だろ。スポーツじゃん。こっちは実践積んで来てるんだよ…」


ジェニーが拳を握り絞めるのが俺からは見えた。


「大丈夫だ。一対一のタイマンで勝負してやる。お前らはそこで見てろ」


ジェニーなりの不良のマニュアルみたいなのがあって、やたらと格好良く見せるっていう拘りがあった。


「しらねーぞ…」


カマちゃんは俺の横に座った。


「シラケン。これ持ってろ…」


カマちゃんは自分のカバンから当時流行ってた三段警棒を取り出し、俺に渡した。


「これで思いっ切りやっても死にはしないから」


大丈夫かよ…。


俺は、あんまり喧嘩は得意じゃなかったが、今日は仲良く話し合おうって雰囲気でもなく、ジェニーはずっと仁王立ちで名倉たちを睨み付けていた。


「仕方ないな…」


俺は立ち上がって、カマちゃんの三段警棒を制服の後ろに隠した。

多分、使う事はないと思うが…。


さっきの桑原が名倉の横でこっちを指さして話していた。

名倉は突然立ち上がり、俺たちの方に向かって歩き出した。

いよいよやって来る。

名倉がこっちに歩き出すと、その取り巻きたちも一斉にやって来て、公園の砂埃が風に流されていた。

遠くから名倉たちの声が聞こえる。


「おい、岡根」


名倉は怒り狂った表情でやって来た。


「てめえ調子こいてんじゃねーぞ」


足元の土を掴んでジェニーに投げつけたが、当然風に流されてジェニーに届く筈も無い。


「最近の空手は土俵入りもするのか」


ジェニーは腕を組んで名倉を睨み付けた。

名倉はがっちりした体格だが、身長はジェニーよりも十センチ以上低かった。


「お前、俺を絞めるって言い回ってるらしいな」


ジェニーの前に立って、見上げる様に名倉は言った。

さっきの桑原ともう一人…名前がわからんが、名倉と同じ様にジェニーを睨み付けていた。


「そんな事言ったかな…。英単語覚えるのが忙しくてよ。お前の事なんて一秒も考えた事ないけどな」


ジェニーはその状況でも、顔色一つ変えない程に根性も座っていた。

俺には到底、真似出来ん。


ジェニーのすぐ横に俺とカマちゃんは立っていた。

カマちゃんはその怒り狂う名倉たちを見ながらニヤニヤ笑っている。

こいつも、どういう神経してるのか疑ってしまう。

今から喧嘩だっていうのに…。


必ず月に数回、こんな感じで喧嘩に巻き込まれていた。

もちろん喧嘩売られるのは決まってジェニーで、俺とカマちゃんはそのサポート役だった。

ジェニーがボスキャラを倒す間に、邪魔する雑魚キャラを俺が、ちょっと強いヤツをカマちゃんが片っ端からやってしまう。

いつもそんなフォーメーションだった。


「シラケン。今日はお前、左の二人な。俺は右行くから…」


カマちゃんが俺に小声で言う。


あーそうなの…。

やっぱ俺もやるのね…。


「しばらく学校なんて来れねーようにしてやるよ」


名倉はそう言って制服の上着を脱ぐと、その上着を取り巻きの一人が受け取り、きれいにたたんでベンチに置いた。

俺はその光景が面白くて吹き出してしまった。

するとその俺に名倉が気付いた。


「お前、おい白石。お前、何がおかしいんだよ…」


名倉は俺の方へ歩き出そうとした。

その時、


「おいおい。名倉。お前の相手はこっちだよ」


ジェニーは名倉の肩を掴んでいきなり名倉を殴り付けた。

名倉はそのジェニーの一発で倒れ、気を失った。

周囲もその光景を見て唖然とした。

その瞬間にカマちゃんは桑原に殴りかかった。

ジェニーも休む事無く取り巻きの数名を。


始まっちゃったな…。

そこで俺も参戦。

こういう風につるんでるヤツらってのは強いヤツが一人いて、それ以外のヤツらってのは弱いヤツが多い。

俺も何人か相手に暴れた。


その内の一人に太った金栄ってヤツがいて、俺はその金栄を思いっ切り蹴り倒した。

その金栄はよろけて、気を失って伸びている名倉の上に倒れた。

金栄は噂では中学で百キロを超えているという話で、その金栄が名倉の足の上に倒れたその瞬間、ボキっという鈍い音が周囲に響いた。

それとほぼ同時に、全員の動きが止まった。

俺にもその音ははっきりと聞こえる程だった。

そして、気を失っていた名倉は、


「うぅ…」


と言う声を上げて足を押さえた。

そして泡を吹いて再び、気を失った。

そこで全員の喧嘩は止まり、皆で名倉の周囲に集まった。


「ヤバいんじゃないのか…」


「死んだんじゃないだろうな…」


皆は口々にそう言う。


「おい。名倉…」


一番焦ってたのは倒れかかった本人、金栄だった。

百キロを超えた巨漢が足の上に倒れたのだ。

骨が折れる事もあるだろう。


「何、ぼぉっとしてるんだよ。桑原、お前そこのタバコ屋から救急車呼べよ。お前、名倉の荷物持ってこい。金栄、お前、名倉の家の電話番号わかるか」


そうやってテキパキと指示をしたのはジェニーだった。


「わかった」


桑原が走り出すと、全員が一気に動き出した。


俺とカマちゃんはベンチに座って、温くなったペプシコーラを飲んだ。


「大丈夫かよ…」


カマちゃんはジェニーに声をかけた。


「心配ねーよ。足が折れただけだろ…」


ジェニーもベンチにやって来て、カマちゃんのコーラをひったくる様に飲んだ。


救急車はすぐにやって来た。

周囲の住民も集まり出したので、俺たちは先に退散した。


その時点で、学年最強だった名倉はジェニーに負けた。

両足を折るというおまけ付きで。


その後聞いた話では、名倉はその骨折が原因でもう空手が出来ない身体になってしまった様だ。

しかし、そのおかげで勉強し、進学校へ進み、医者になったらしい…。

人とはわからんものだ…。

今では腕の良い外科医として名も売れているって話だ。

金栄を蹴って名倉の足の上に倒した俺に感謝して欲しいもんだ。







「ここだな…」


カマちゃんは車を降りて、ジェニーに電話をかける。

俺も車降りて、カマちゃんの横へ。


どの家なのだろうか…。

新しい一戸建てが数軒建っていた。

その奥にハイツらしい建物があった。

あのハイツかな…。


「お、ジェニー。着いたぞ。うん、入口の付近にいるから」


短い電話だった。


「どの家かな…」


俺がカマちゃんに訊くと、


「奥のハイツだろう…」


そう言った。

しかしドアが開いたのは、一番手前の新しい戸建ての家だった。

そこからジェニーは出て来た。


「アレかよ…」


思わず声に出して言った。

ジェニーはもう家を持ってるんだな。


そんな事より、二十年振りくらいの再会である。


「よっ」


ジェニーはやっぱりこめかみに指を二本当てて挨拶した。

やっぱり変わらない。


「久し振りだな…。って老けたなー」


十八と四十では、それは大きく違うだろう。

三人でそう言い合った。

俺はジェニーの変わらない笑顔に何となくほっとした。


「シラケン。お前、教師辞めたんだってな…」


ジェニーは俺の肩を叩いた。


「ああ…失敗だ」


俺はジェニーに久しぶりに微笑んだ気がした。


「まあ、失敗なんて何処にでもある」


ジェニーのその言葉がやけに大人に聞こえる。


「お父さん。携帯忘れてるよ」


ジェニーの家から若い女性が大きなお腹を抱えて出て来た。


「あーすまん」


「飲み過ぎない様にね」


その女性はジェニーにそう言うと俺たちに会釈して家の中に入って行った。


「これか」


カマちゃんは妊婦とわかる様にジェスチャーをした。


「ああ…娘だ。今月生まれる」


ジェニーは何処となく嬉しそうな顔をしていて、俺はその横顔を見て嬉しくなった。

自分の娘に子供が生まれる。

ジェニーはジジイになるのか…。

良い話だ。


「じゃあ、飲みにでも行くか。もちろんカマちゃんのおごりで」


「おいおい。俺のおごりって何だよ」


カマちゃんは少し慌てた様子で割り込んで来た。


「いいじゃねーか、マズイから揚げで、ぼろ儲けしてるんだしよ」


俺はそう言ってオデッセイの後部座席に乗り込んだ。


「ジェニー、前に乗ってくれよ」


「ああ」


ジェニーの身長では後部座席は大変だろうと思い、俺が後ろに乗った。


「なんで俺のおごりなんだよ…」


ブツブツ言いながらカマちゃんも運転席に乗り込んだ。






カマちゃんの車を駐車場に入れ、俺たちは匂いに釣られて、焼き鳥屋に入った。


ジェニーの一串一口の食い方、カマちゃんのクチャクチャ音を立てて食う食い方。

何もあの頃と変わらなかった。

俺は黙ってその光景を見ながらパリパリの皮を食べていた。


「今、シラケンって何してんだよ」


ジェニーは葱身に大量の七味をかけながら俺に訊いた。


「俺か…。ニートだな」


「ヒモとも言う」


口の中を砂ずりでいっぱいにしたカマちゃんが言った。

俺はカマちゃんの肩を思いっ切り殴った。


「そうか。ニートか」


ジェニーは大真面目に呟いた。


「バカ、違うよ。コイツは一応、小説家の先生だ」


カマちゃんは笑ってた。

真面目な顔のジェニーが面白かったのだろう。

俺も面白くて笑った。


「全然売れないからニートみたいなモンだけどな」


自虐である。

しかし本当に売れない。

売れないどころか書けなくなってしまっている。


「どんなの書いてんだよ…」


ジェニーは焼き鳥の串で俺を指していた。


「危ねえよ。串、しまえよ…」


俺は危うく眉間に焼き鳥の串が刺さって絶命するところだった。


「小学校の先公やりながら小説で賞取って、そこから小説家になったのは良いが、すぐにスランプ。そのスランプももう十年だ。素人と一緒だよ。書きたいモンが無くなって…なんて言い訳しながら十年。でもこの歳からもうガキどもの相手するのも無理だしよ…。今は食うためにエロ小説書いてるよ…。月に二本書いて十五万。毎月家賃と健康保険、国民年金払ったら全部パーだ。だから一緒に住んでる女に食わせてもらってるって訳だ。どうだ、俺の一分で語れる人生は…」


俺の言葉に二人とも黙ってしまった。


「なに黙ってんだよ…。ほら、次、カマちゃん。人生語れよ…」


「あ、ああ…」


カマちゃんは残りの生ビールを一気に飲んだ。


「俺は、高校出て調理師の学校に行った。立派な定食屋になるためによ。いや、定食屋じゃないな、いつか俺はオヤジの店を立派な一流レストランにするつもりで勉強した。フランス料理だぞ。訳わかんねえ横文字を毎日毎日、ノートに書いて覚えて勉強して、家に戻ったらオヤジはその定食屋を弁当屋にするって言い出した。俺は弁当屋になるために学校行って勉強したのかよ。ってオヤジと喧嘩になった。それでもオヤジは聞かなかった。何でもいいから俺に店を残したかったのかもしれん。気が付くとオヤジは引退して、俺が弁当屋の主だ。マズイから揚げ、毎日毎日死ぬ程揚げて、気が付いたら四十だ。あっという間にな…」


カマちゃんも一気に捲くし立てた。


俺はカマちゃんの焦燥感に似たそれも理解出来た。

自分の想いと違う方向に流されて行く。

しかもその流れは自分ではどうしようもないのだ。


「つまんねえ話だな…すまん」


カマちゃんは届いたばかりの生ビールを飲んだ。


「俺は…。俺は…高校出て栃木の自動車整備の学校に行った。栃木ってところは何にもない。勉強するには良いところだ。若いヤツだってする事ないから、週末は決まってラブホテルが満室でよ。結婚も早い。学校出る頃に知り合った女がいて、その女との間に子供が出来た。大阪の女だった。俺は就職を大阪で探し、一緒に大阪に連れて行った。それで二十歳で結婚だ。ずっと家族食わせるために働いて働いて、しかし二年程前に、上司が部品の横流しをやってるのがわかって…。羽振りが良いと思ったんだよ。毎晩、新地で飲み歩いて、女が出来ただの、新車買っただのって。本社の人間と一緒に色々と調べてみると、その上司は三年で一億近い金を作ってた。それがわかった瞬間にさ…。ぶん殴っちまって、その上司は運悪く、酸素ボンベで頭打って意識不明になった。会社としてはそれを罰しない訳にはいかないって事で、俺は退職させられた。その頃、嫁さんも出て行った。大阪で働く意味もないって事で、帰って来たのが一年半程前。今の店の社長に拾われたって訳だ」


その言葉で俺は思い出した。

ジェニーの働く店にいた目付きの悪い男。

断片的にその記憶が蘇った。


「さっき店に行った時に、社長と話してたスーツを着た男がいたな…」


「あー、それは保険会社の城見だな。目付きの悪い男だろ」


ジェニーは焼酎のお湯割りをチビチビと飲みながら言った。


保険会社の男か…。

どう見てもヤクザにしか見えない男だった。


「あの男見てると、俺がぶん殴った上司を思い出すんだよな…。あの男も敏腕なのかどうか知らんが、ものすごく羽振りは良いらしい。先月もベンツ買って行ったよ」


またジェニーは焼酎を飲む。


「まあ、あんな感じで高級車がメインの店だ。ヤクザだって頻繁にやって来る。社長だってまともな商売してるとは言えない。けどな、食って行かなきゃいけないんだよな…。少々の悪には目を瞑る。これが大人の生き方ってもんだろう」


ジェニーは俯いて微笑んでた。

納得はしていないのだろう。


「おめでたもあるしな」


「そうそう。いよいよ生まれるんだよ」


「よし乾杯しよう」


俺たちは再び乾杯した。






その日、カマちゃんの行きつけのラウンジへ、その後行った。

その辺りから俺の記憶は曖昧で、何処をどう帰ったのか覚えていなかった。


気が付くと朝で、俺の隣には裸のトモ子が満足そうな顔で…かどうかわからんが、とにかく…寝ていた。







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