第3話

 それから数年後。ケヴィンは国王として即位し、王妃としてニーナを迎えていた。


「ケヴィン陛下! ご報告申し上げます!」

「うるさいぞ! 報告くらい静かに入れないのか!」


 王の間に飛び込むや否や怒鳴られた衛兵は一瞬口を閉じるが、しかし怯んでいる場合ではないと「しかし、緊急事態でございます!」勢いを取り戻す。


「フェーニクス帝国の進軍速度が予想以上に早く、既に王都に攻め入る勢いです! 早急に手を打たねばこの城も帝国騎士の手に渡ります!」


 グライフ王国はフェーニクス帝国にその領土を攻められていた。


 大陸随一の力を誇るフェーニクス帝国騎士団、それに名を連ねるのは大陸指折りの魔術血統を持つ騎士ばかり。剣ひとつ振るうだけでも魔力の差が物を言うこの世界で、優秀な魔術血統を持つ者が帝国に集中していることは、この大陸における帝国の地位を盤石ばんじゃくなものとしていた。


 それにも関わらず、グライフ王国はフェーニクス帝国侵略を試みた。その結果は火を見るよりも明らかで、グライフ王国の領土は、帝国騎士団を前に次々と陥落するしかなかった。じわじわと、それはしおが満ちるように無情に着実に、しかし潮と違って一歩も引かず、帝国は王国を占領していた。


「そう焦るな、我が国には天然の要塞ようさいがある。進軍がそう上手くいくわけがない」


 しかしケヴィンは、玉座から腰も上げず苛立たし気に返事をするだけだった。


 ああ、やっぱりこの王は駄目だ――。そんなケヴィンの態度に、衛兵は愕然とする気力さえなかった。


 ケヴィン・フィンフ・ヒエロファント王は、王子のときから密かに暗愚あんぐわらわれていた。かつてケヴィンにリーゼロッテが宛がわれたのは、そんなケヴィンをエレミート公爵令嬢ならば正しく導いてくれると期待されたからだ。


 しかし、エレミート公爵が逝去し、ヘルシェリン侯爵が宰相に就いてから、その期待は日に日に小さくなっていった。ケヴィンによればリーゼロッテは微笑んでばかりで役に立たないし、一方で新たな宰相として頭角を現したヘルシェリン侯爵には妙齢で利発な娘がいた。ヘルシェリン侯に国王から信頼が寄せられ始めていたこともあり、今は亡きエレミート公爵令嬢と婚姻しても旨味はないし、ここはリーゼロッテとの婚約はなかったこととし、ヘルシェリン侯爵令嬢をめとるほうが良いのではなかろうか、そう口にしたものは多かった。リーゼロッテはお飾り花のようなものだし、溌剌はつらつとしたニーナのほうが彼をよく導いてくれるだろう、とも。


 そうしてケヴィンとリーゼロッテの婚約は無効となった。人々はリーゼロッテを、親を亡くし婚約も破棄されたとは可哀想に、もうこの国にはいられまいと笑い、リーゼロッテが行方知れずとなったのは入水じゅすい自殺でもしたからだろうと言われていた。実際、ケヴィンとニーナが婚約しても取り立てて問題は起きなかったし、リーゼロッテよりもよっぽど仲が良くて微笑ましいとさえ言われていた。


 しかし、ケヴィンの即位後、そのほころびは現れた。


 ケヴィンとニーナはなんとも気の合うことに頭の程度が同じで、二人で誤った方向へと意気投合し、とんでもない施策を次々と進めることを許すことになった。また、ニーナは王妃の責務などと称し、まるで自らが王となったかのように政治に口を出し、しかも感情論を振り回した。ヘルシェリン侯爵はケヴィンに代わって実権を握り、ほしいままに政敵を次々放逐ほうちくし、ヘルシェリン家かその息のかかった者を重役につけた。ケヴィンの弟・第二王子は公爵プリンツとして辺境に送られ、第一王女は他国へ嫁ぎ、第三王子は不慮の事故・・・・・頓死とんしした。


 その結果、いつの間にかグライフ王国はヘルシェリン侯爵に支配されてしまった。


 そうして人々は気が付いた、すべての歯車はエレミート公爵が亡くなってから狂ってしまったのだと。リーゼロッテは微笑んでばかりのお飾りだと思っていたが、リーゼロッテが黙って微笑んでその罵倒を聞き流すことでケヴィンの暴走は最低限に留められ、またリーゼロッテが婚約者の地位を握っていたことは他の貴族への牽制けんせいの役目を果たしていたのだと。


 思い返せば、婚約破棄の場面は妙ではあったのだ。リーゼロッテは周到に婚約無効の誓約書などというものを準備していたうえ、妙に意気揚々と王城を出て行った。実はリーゼロッテがケヴィン王子を見捨てたのではないか、と人々の間にはまことしやかな噂が流れた。ここ数年間、戦の敗けがかさみ、魔獣の侵攻を食い止められなくなったのはリーゼロッテの呪いだと言う者さえいた。


 結果を見れば誰だってなんとでも言える。それはそうなのだが、リーゼロッテが王妃となっていれば、せめてニーナ王妃殿下と宰相ヘルシェリン侯爵の暴挙だけは止められたのに……国民はそう嘆かずにはいられなかった。


 ――ケヴィンのもとへ報告を持ってきた衛兵も、そう嘆いていた国民の一人だった。そしていま、王国が危機に瀕しているというのに現実に目を向けず臣下に耳を貸さず、ただ怒鳴るしか能のないケヴィン王を見て確信した。やはり、リーゼロッテとの婚約を破棄したのがすべての間違いだったのだと。


「クリストハルトに伝えろ、帝国軍を迎え撃つ算段を整えておけと」

「……おそれながら、クリストハルト公爵には連絡がつかず……」

「は? 何をしているのだ、あの阿呆は」


 無能な弟め――とぼやくケヴィンを前に、衛兵はたらりと冷や汗が背筋を流れ落ちるのを感じる。衛兵の様子に気付いたケヴィンは眉を吊り上げた。


「なんだ?」

「……いえ……」


 だからこうして、帝国騎士の侵攻を許すことになったのだ――。意を決したように眉間にしわを寄せて強く目を瞑り、彼は膝をついた。


 その後ろに、コツリ、と静かな足音が響く。次の報告か、とケヴィンは回廊へと視線を向け――現れた騎士に我が目を疑った。


 胸に金のしょくしょ、不死鳥の紋章をかたどった金銀二色のバッジに、真鍮製しんちゅうせいのボタン……その騎士団服を見る限り帝国騎士に間違いなかったが、その団服の色は黒ではなく深紅しんくだった。


 しかし、ケヴィンを驚かせたのは、帝国騎士が王城に入っていたからでも、その騎士が黒でなく深紅の騎士団服をまとっていたからでもない。


 氷原のように美しい薄い青の髪と、夜明けの空の瞳。その特徴を持つ女性を、ケヴィンは一人しか知らなかった。


「リーゼロッテ……!」

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