ほら、ね、愛してる

@gitiou

ほら、ね、愛してる


 潜った幸福感の余韻に浸ったまま名残惜しくも朝になった。

 日当たりの悪い部屋の特に隅に置いた頭を起こす覚悟を決め、煌々とついた電気と差し込んだ朝日で明るすぎるリビングに向かう。

 マーガリンの入ったバターロールをめんどくさくて焼かずに食べ、寝ぐせを直すぐらいの最低限の身支度を済ませて家を出る。独特の少し焦げたような匂いが冬の始まりを痛く知らせる。ブレーキとタイヤとライトに若干の不安のある自転車に跨っていつもの道を漕ぐ。今日も手袋を忘れた。

 

 窓際後方、自分の席に着いてとりあえずリュックから筆箱を取り出し机に置く。ほっとしてぼーっとしてたら隣の席の君島が来た。

「はゆ」

「す」

砕けきった朝の挨拶に言語でもない声で返す。

 一限に英単語小テストがある木曜日の朝はいつもより心なしか静かだ。右を向くと君島が、ワンピース初めて読むけどとりあえずストーリーの大筋だけ掴みたい時みたいな速度で単語帳をめくっている。君島は賢いから、毎回この時間の勉強だけで合格点を超すことが出来る。たまに、今さっき十数分単語帳を開いていただけの君島が二ミスで、前日の夜から必死こいていた自分が満点だったりすると、このシステムだとホンモノが埋もれてしまうじゃないかと馬鹿らしく思えてくる。

 それでも、赤ボールペンの20の横に描かれた巻きが多くてサイケ気味な花丸と採点者欄の「君島」の文字がこそばゆくてひどく暖かいから、今回も狡い勉強をしてしまっていた。

 

 休み時間に自販機で水を買うのが日課になっている。階段をおりて外に出て、目当ての品を手に入れ教室に戻るのが試練みたいで、いつの間にか癖になっていた。始業時間がいつ来るか体感いつも測れずにいて、焦りながら渡り廊下を早足で過ぎる。どんなに寒くても外気より冷たいペットボトルが心地好い。

「勿体なくない?毎日120円払って」

飲み込む音を聞かれるのが少し恥ずかしくて変に喉を鳴らした。

「色々良いんだよ」

 君島は多分情緒とかに興味が無いのかもしれない。この前、現代文の授業をほぼ丸々突っ伏して寝ていた。確かに朗読の音声が高校生に聴かせるにはあまりに渋すぎたことは否めない。それは深い声だった。深いけどその分少しアクが強くて、こっそり窓を開けて風を浴びていた。魔法みたいな風だった。


 放課後、まだ隣に君島が居た。

「なんで残ってんの?」

「え?なんで?」

「いや珍しいなって思って。いつも友だちと帰ってるじゃん」

君島は少し黙った。

「別に何でもないよ。ほんと。喧嘩したとかでもない」

黒板の方を向いたまま君島は寂しそうに答えた。寂しさに頬を赤らめていた。

「そっちこそ、いつもここで勉強してんの?」

「勉強、っていうか、帰っても別に用もないし、一人でいるなら広いとこの方がいいっていうか」

「わかる」

君島は立ち上がって僕の方に近づき、机の木のとんがったとこに両手を置いてしゃがんだ。

「同じだ」

「ごめんね」

「何が

「僕がいたら一人じゃないから」

「嫌?」

 そんなわけない。

僕もどうやら、そんなに情緒に執着が無いようだった。

 やるべき範囲がまだ分からない問題集を何となく飛ばし飛ばし進めてみる一方、僕の第六感は君島を追った。いつもの教室を博物館みたいに見て回っている。日射しは淡いオレンジで、廊下から響いてくる誰かと誰かの甲高い笑い声が眩しかった。

「歌詞ってさあ」

 一通り教室を回りきった君島は、最近発見したらしい邦楽の歌詞あるあるを提唱し始めた。使われているフレーズが偏っている、という言われすぎてほぼ味もないようなつまらないものだった。しかし状況からか、独特の郷愁的なかわいらしさと温さがあった。例を訊いても、「歌詞あるある」あるあるぐらいよく聞くフレーズばかりだった。僕の手札には、そういうカードゲームももうあるんだけどな、しか無かった。

 実証するべく君島はスマホからお気に入りのシンガーソングライターの曲を流し出した。一応不正のないよう君島なりの配慮として、アーティストのページの右側にある赤い再生ボタンを押して、恣意的な選曲にならないようにしていた。広い教室の端っこでギターとまっすぐな声が籠もる。初めて聴く曲だった。あるあるの餌食になるやもとも知らないピュアな良い歌詞を、僕はそのまま普通に聴いた。君島は多分邪心でもって構えていた。僕にとっての初めては、君島にとって遊びだった。

 精査すればあっただろうけど、一曲目での釣果は芳しくなかったようで、君島は黙って動かず、続いて曲が流れた。二曲目は僕の好きな曲だった。僕の好きな曲は、君島の好きな曲だった。

「あ、ほら。君」「声」「あなた、一人、空」

 大漁だった。自分のセンスにケチつけられた気がした。君島は心から嬉しそうだった。

「ほら、ね、愛してる」

 急に僕の方を向いたからびっくりした。君島は心から楽しそうだった。

 

 外は暗くなっていた。

 自転車を押したい気分だった。

 空虚な車道を眺めて着いたため息はもう白かった。




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