第5話

「え、何?」

「癌とか?」みな口々に言う。

「うん。俺…〇〇癌なんだ。ステージ4」

「うそ!見えない」

 〇〇ちゃんが言った。〇〇ちゃんなんて言っても、ただの汚いおばさんだ。

「ちょっと遅かったな。〇〇ちゃん、昔から江田のこといいなって言ってたんだよ」

 でも、育ちが世界が違うから、言い出せなかったとでも言いた気だった。

 なぜ、今、その話をするかと俺は思った。

「告ろうかずっと迷ってたよね」

 待てよ。そいつはずっと彼氏がいたはずだ。同級生二人くらいと付き合っていた。人を何だと思ってるんだろう。俺がそいつと付き合わなくてはいけない理由なんてあるのか?若い頃ならともかく、年を取ってバツイチになったその女と。俺は癌にまでなったのに、なぜ話題の中心じゃないのかわからなかった。


「あーあ。三年前だったら抱いてやったのに」

 他の男が冗談で言った。

「で、今はどうなんだよ?」

 俺はそいつが何を言いたいのかはわかったから、俺は正直に答えた。

「もう、勃たないよ。抗がん剤やってるし」

「でも、ステージ4って。そんなになるまでわかんなかったの?」

 心配しているというより、馬鹿だねと言われているようだった。

「うん。会社の人間ドック受けてなくて…一日潰れるのがもったいなくてさ。仕事休みづらいし」

「でも、検診受けさせるのって会社の義務だろう?」

「でも、検診の結果を会社に知られるのも嫌でさ…」

「何で?」

「健康状態って、個人のプライバシーだろ?」

「え~。意味わかんない。何?今さら体重知られたくないとか?」

 女が馬鹿にしたように言った。

「何で受けなかったの!」

「俺は、毎年、入院ドッグやってるけどな。三十五歳くらいから」

「私も!」

 そこにいた全員が、人間ドックを受けていた。みんなその場で人間ドッグの情報交換を始めた。


「俺、この間、〇〇医大で一週間ドッグやって来た」

「あ、あるよね!どうだった?」

「でも、すごい高いんじゃない?」

「七十万くらいするけどさ。前に二日ドックとかも受けてたし、やってみたくて」

 そいつが一週間ドッグのことを事細かに説明し始めた。さすがに、一般のサラリーマンが自腹で払える金額ではない。医療費控除も使えないのだし、何も見つからなかったら無駄になってしまう。


 みな、俺の存在を忘れて、嬉々としていた。ここは病院の待合室か。井戸端会議か。無神経なやつらだ。俺がどんな気持ちでカミングアウトしたかなんて考えていやしなかった。


 でも…。


 いいなぁ。こいつらには先がある。


 金があるかどうかより、生きられることが羨ましい。


 俺もちゃんと人間ドックを受けていればなぁ!と心から思った。何度、何度、後悔したかわからない。自分は他の人より健康だと思い込んでいた。自覚症状もなかった。


「江田、今、どこの病院行ってんの?」

「〇〇医大」

 都内にある医大の附属病院だった。理由はたまたま紹介状を書いてもらったからというだけだった。

「セカンドオピニオン受けてみれば?」

「うん。うちの旦那が〇〇大出身だから紹介しよっか?」

 初めて心配してくれたようだった。

「もう、いいよ。覚悟はできてる」

「〇〇癌って、オーストラリアで先進治療があるんじゃなかったっけ。一千万くらいかかるけど」

「そんな金ないって」

 俺は力なく笑った。

 一抹の期待をしたものの、みんな金持ちのくせに、貸してくれる人はいなかった。

「私の知り合いもオーストラリア行ってた。いいらしいよ」


 どこまでも上から目線だった。最後の方はただ、遠くから声が聞こえるだけになった。みんなの顔がどんどん浮腫んで、茶色いシミが浮かんできた。


 俺は笑っているけど、何を喋っているかもわからなくなって来た。


 俺は泣いているのか。


 すると、ある時期から急に吐き気がして来た。頭痛もした。俺は体調が良くないのに、どうして無理に出かけた来たんだ。仕事もやっと行っている状態なのに、なんでこんな田舎まで来ちまったんだろう。俺は東京を離れてはいけないのに…。


 俺が確かめたかったのは、みんなが今どうしているかということだった。

 みな、順調そのものだ。

 俺は昔より惨めになり、みんなは順調そのものだ。

 その壁は一生超えられない。


 それでも、俺は人より恵まれている。大学に行き、平均より稼いでいる。

 そんなことわかっている。

 俺は笑うしかなかった。


 俺は耐えられないほど体調が悪くなって、「トイレ借りるな」と言って席を立った。ふらふらになって、壁伝いに歩くしかなかった。みんな俺の方など見もせずに、昔話に花を咲かせていた。

 


 

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