人生最後の不幸
教室に着いても宝山のマットの話でいっぱいだった。しばらく宝山の専用マットになるだろうとの事だ。
家が太いなら、みんなに使わせる位の気概は見せろよ。減るもんじゃないし。
そう思いながら私の席に着くと、私に気づいた人が周りから捌けた。おそらく、小学校時代の因縁について知っている奴らだろう。そんな気遣いはいらないのだが。
目が悪いので私は一番前の席にいるのだが、全員後ろの方に行ってしまった。
ほら、やっぱり人なんてそんなもんなんだよ。誰にも分からず誇る私。少し心にヒビが入ったような気がしたが、そんなの気にしない。社会に出たらたぶんもっと人間は信じられなくなる。
しかし、私は気づかない。
フリをしていた。大人ぶっててもまだ、多感な中学生。シカトみたいな扱いを受けていて、無理に大人になろうとした私は脆かった。
その心のヒビは思った以上にダメージを受けていた。
例えばそのヒビにクサビを打ち込んだらすぐにでも壊れてしまいそうな程に。
そして、そのクサビは突然やってきた。
「木下!木下!いるか!?」
突然教室の扉を勢いよく開けたのは担任の先生だった。
私だけが前にいたこともあって、すぐに見つけた先生は私を廊下に呼んで、
「落ち着いて、聞いてくれ。」
そう前置きをして、
私にクサビを打ち込んだ。
「お前のお母さんが自動車との衝突事故で病院に運ばれた。」
………は?
そ、それってどういうこと?
とか言いたかったが、何も声が出なかった。頭が真っ白になった。
それじゃまるで、ママが車に轢かれたみたいじゃない?
嘘だよね。うそでしょ?ねぇ。ウソって言って。タチの悪い冗談だって。
口をパクパクさせていると先生は続けて、
「お母さんは命が助かるかどうか怪しく、意識不明の重体らしい。しかも、運転手によると、お母さんが車の方に突っ込んできたらしい。」
イシキフメイノジュウタイ?
オカアサンガクルマニツッコンダ?
ツマリ、ジサツミスイ?
私は先生の言葉が異国の言語に聞こえた。耳には確かに入っているのだが、脳がその事実を受け入れるのを拒否しているかのような、心が粉々に砕け散ったかのような、そんな気がした。
「気持ちはわかる。だが、早くお母さんの所へ…って、どこに行くんだ?木下?」
「…一人にしてください。いつか母の元にいくので、安心してください。」
先生の静止する声もシカトした。とにかく一人になりたかった。私の足は自然と屋上へ向かった。
「あ。あんちゃー…ん?」
途中、誰かに話しかけられたような気がしたが、気にせずに屋上に向かった。
「なんで、ママ…ママァ…」
私はうずくまって泣いていた。授業をズル休みしたことなんか初めてだった。
なんで自殺しようとしたの?なんで私を置いていこうとしたの?
しかし、その問いに答えてくれる人は今はいない。
もしかしたらこれからもいないかもしれない。
手紙の「明日からの休み」ってそういうこと?
そんなことだけしか考えられず、己の無力感に泣いていた。もし、私がもう少し年齢を重ねていたら。もっと早く働けていたら。
しかし、しばらく泣いて、落ち着いて、いつも通りの私を取り戻した。いつもの大人っぽい達観した自分を。
「私が邪魔だったってことだね。」
そうさ。仕事で無理したのも私のせい。だから、私さえ死ねば、きっとそうに違いない。
そうと決まればそこからは早かった。靴を脱いで、フェンスを乗り越えて、フェンスから手を離せば背中から地面に真っ逆さまにおちる。死ねる。
いつも通り諦めれば良い。高校生活も、友達も、部活も、今まで諦めてきたでは無いか。
…だが、手がフェンスから離れてくれなかった。
「なんで、なんで離れてくれないの!?」
私さえ死ねば、死ねばいいのさ。そうすればママもみんな幸せに!
「あんちゃん!」
そ、そう呼ぶのは、振り返って見る。
「…大瀬?なんで?」
今は授業中で、ここに人が来るわけがなくて。
「事情は先生から聞いた。その上で言おう。生きてくれ!死ぬな!」
「な、何がわかるのよ!あなたに!中学校の時からしか付き合いのない!あなたに!私は人が信じられないの!あなたも!」
「…そうか、覚えてなかったか。これをするのは童心を利用しているみたいで少し卑怯な気がしてたけど、そうも言ってられないな。」
そう言って大瀬は細い目をカッと開いて指を目に入れた。おそらくコンタクトレンズを取るのだろう。しかし、一体何が変わるの?
コンタクトレンズを外し終わったのだろう。大瀬は私に近づいていって、近視気味の私の目のピントがだんだんあってきて、じっと見てようやく気づいた。大瀬の目はオッドアイで、
その目は赤と黒だった。しかも、どこか見た事のあるような顔だった。
それに気づいてハッとするのもつかの間、大瀬は、ギュッと私を抱きしめて
「久しぶりあんちゃん。」
「こ、
え?こ、コウちゃん?ヒカルじゃなくて?そういえば、私は名前を見ただけだから、いや、でも。
「うんうん。コウちゃんですよー。」
「うそ。そんな、え?でも?」
「もっとロマンチックな場所でロマンチックな時に言いたかったけどさ。」
混乱する私にいつものちゃらんぽらんな態度ではなく、キリッとした表情で。
「誰も信じられなくても。俺を信じてくれ。俺だけでも信じてくれ。この言葉を信じてくれ。」
そして間が空いた。その時間は1分にも1時間にも感じられた。
「俺、大瀬光は木下あんずのことが幼稚園の頃から好きでした。こんな僕でいいのなら付き合ってください。」
「…え?…なんで?」
「こんな目だからさ、俺は他の園児に気味悪がられてたんだ。そんな中現れたのが君だ。この目をかっこいいって。正直に言うと、あの時僕は君を遠ざけようとしていた。貸した人形が喋るなんて不気味だろう?だけど君はすごいって言ってくれた。その時の笑顔が印象に残ってて。」
「でも、え?でも、ウソだよ、ありえないよ、そんな、え?」
「この目を見ても?」
そう言ってコウは赤と黒の、何かを惹き付ける魅力のある目で私と見つめあった。
「信じてくれ。俺はお前のことが好きなんだ。もし、この思いに応えてくれるなら、笑って返事してくれ。」
…あぁ、なんて、私は
なんて、私は単純になったんだろうか。
こんな言葉で救われるくらい、単純になったんだろうか。
「…はい。」
私は笑った。
彼も笑い返してくれた。
「行ってやってくれ。君のお母さんの元に。」
「そうだね。」
私はフェンスを乗り越えようと足をあげた。しかし、これがいけなかった。安心して力が抜けたのだろう。片足を上げた瞬間、重力が突然後ろに働いた。
「あんず!」
コウちゃんが叫ぶがもう遅い。私は屋上から地面に向かって真っ逆さまに…
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