ドアノブの向こう

見鳥望/greed green

 記憶違い。勘違い。そう言われればそれまでの事だ。


 ただもし、”あれ”がどちらでもなく真実だったら。


 今思い返しても血の気が引く思いがする。











 小学二年の夏の頃。まだスマホも携帯も持っていない幼い時期の事。むせ返る様な灼熱の日々に臆する事なく、肌を焼いて遊びつくしていた日々。いくら遊んでも遊び足りない社会人になってからとはまた違う、時間が足りない毎日のとある夜の事だった。




 嬉しい事に幼いながらこの頃既に二階の一室が自室としてあてがわれていた。といってもテレビも何もないただ寝る為だけの部屋に近い存在だったが、その日もいつものように布団の中でぐっすりと眠っていた。






 かりかりかりかり、すー。






 ふと目を覚ますとあまり聞きなじみのない音で目が覚めた。




 ーー何の音だ?




 一瞬まだ夢の中にいるせいかと思っていたその音が、意識が覚醒してからもはっきりと鳴り続けている事で、僕は音の出所を探った。


 そしてすぐにどうやらその音が、自室のドアの方から鳴っている事に気付いた。そこから更にじっと耳を澄ませて集中した時、それがドアノブの”穴”あたりから鳴っている事が分かった。






 ドアノブの穴といきなり言われても意味が分からないかもしれないので説明すると、何がきっかけか忘れたが、ある時点から僕の部屋のドアノブは壊れてなくなってしまっていた。そしてその後も何故か修理されることなくそのまま放置されていた為、後にはドアノブが本来はめ込まれているべき小さい四角い穴だけが残っていた。


 


 ドアノブがないため、パタンとドアが閉じるとカギがかかったかのように開ける事が出来なくなる。ではどうしていたかというと、鉛筆の芯がちょうどこの穴にすっぽりと収まり、くるっと捻るとまるでドアノブのようにドアを開くことが出来た。


 そんな理由から、特に不自由もなくドアノブのないこの部屋を僕は当たり前のように使っていた。






 かりかりかりかりかりすー。






 ドアと小さい穴を引っ掻くような音。すぐに僕は犯人の目星がついた。


 当時飼っていたポメラニアンのベルだ。室内で飼っていたベルがかまってほしいのか二階に上がってきてドアを引っ掻いている。かわいらしいそんな姿を想像してふっと笑みがこぼれた。




 ーーやれやれ。




 様子を見ようと立ち上がろうとしたその瞬間、






 かりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがりがりがり。






 先程まで様子を窺うような控えめな音は、一転して必死に開かないドアをこじあけるように、穴を引っ掻きほじくり回すような凄まじい音に変わった。




 びくっと全身が震え、僕はその場に固まった。


 そしてすぐに自分の考えが間違っていた事に気付いた。




 ーーベルじゃない。


 


 ベルにはこんな事は出来ない。


 何故なら小型犬のベルの身長では穴に届かないのだ。


 ジャンプでもすればもちろん可能だ。だが今みたいに穴をずっとほじくり続けるようなや音は絶対に出せない。


 それに気付いた時、必然と湧き上がった疑問に正気を失いそうなほどの恐怖を覚えた。




 ーーじゃあ今、部屋の前にいるのはなんだ?




 耐えがたい恐怖に思わず毛布にくるまった。寒さではない震えはいくら身体を暖めてもおさまらなかった。


 


 ーー消えろ消えろ消えろ消えろ。




 念じ続けている最中もずっと”そいつ”は諦めず穴を引っ掻き続ける。頭の中でそいつが必死で指の爪を穴に突っ込み、ぐりぐりと穴をえぐる様を想像して泣きそうになった。








 どれほどの時間が経っただろうか。


 祈りが通じたのか、ふいにぴたりと音が鳴りやんだ。




 ーー終わった……?




 さっきまでの事が嘘だったかのように静寂が急に訪れた。


 自分は悪い夢でも見ていたのだろうか。ただ絶対に先程までの出来事が夢ではない事が頭と身体が分かっている。間違いなく現実だ。こんなにはっきりとした夢なんてあり得ない。




 冷静に考える。”あいつはまだいるだろうか”




 ドアの向こうが正直気になる。だが動く勇気はまだなかった。あいつがまだいるかもしれない。音が鳴り止んでからもしばらく僕はそのままじっと毛布にくるまりながら耐え忍んだ。




 当時時計の針の音が嫌いだった事もあり(デジタル時計もまだあまり普及していなかった)、部屋の中に時計の類が一切なかった。だから実際にどれくらいの時間が経ったかは分からない。だが体感で少なくとも30~40分程は経過していたように思う。


 しかしもうあの音は一切しなかった。




 ようやく僕は毛布から這い出た。




 ーーもう大丈夫かな。




 のそっと立ち上がり、おそるおそるドアの前まで近付く。


 


 ーー開けるか。


 


 そう思ったが、さすがにそれは怖くて出来なかった。


 そこで僕はドアスコープから外を窺うように、ドアノブの小さい穴から向こう側を確認する事にした。


 ドアの前に屈み、穴をそっと覗き込む、




 ーーあ。




 穴の向こう側を見た時に思ったことは、恐怖ではなく少々の驚きだった。


 穴の先に広がっていたのは、早朝の薄い空の青色だった。いつの間にやら夜が明け、朝になっていたのだ。


 自分はそんなにも長い時間戦っていたのか。


 そこでようやく身体の力が抜けた。ずっと身体が強張っていたせいで、全身の内側からびきびきとひっついた筋肉が剝がれるような感覚だった。




 どっと疲れが押し寄せ、眠気が急に襲ってきた。




 ーーよかった。




 ドアを開けることなく、僕はそのまま布団の上に倒れ込んだ。






 次に目が覚めた時、階下から家族たちの生活音がしていた事もあり何の躊躇もなくドアを開いた。そこにはもちろん誰もいなかったし、昨夜の事は嘘のようにいつもの朝が僕を出迎えてくれた。




 かりかりがりがりがりかりかりがりがりがりかりかりがり


 


 しかしあの忌まわしい音はしっかりと耳にこびりついていた。思い出すだけで身の毛がよだった。


 結局僕はこの出来事を自分の中だけに閉じ込めた。家族に話そうかと思ったが信じてくれるわけもないし、話そうとすれば嫌でも思い出さなければならない。もう思い出したくもなかった。


 


 ーーただの悪夢だった。きっとそうだ。


 


 それが真実だったのかは分からないが、その後この家で二度と同じような目にあう事はなかった。

























 そんな出来事から十数年後。


 親戚の法事か何かで一同が揃うタイミングがあった。家族と親戚で溢れかえる中、皆でごはんを食べた後、きっかけは分からないが唐突に自分の近くの席でちょっとした怪談会が始まった。


 自分も怪談や怖い話が大好きだったので、面白い話が聞けるかもと喜んでその場に参加した。各々が体験談を話していく中、




「あ、俺も一個ありますよ」


 


 そう言って手を挙げたのは、実の兄弟である次男の幸一だった。兄貴にそんな体験談なんてあるんだと意外に思いながら、兄の話に耳を傾けた。






 それは兄が中二の夏の頃の体験だったという。


 当時自分と同じように兄は二階の別の部屋で夜を過ごしていた。


 夜中ふと自然に目が覚めた。そして何とはなしに自分の部屋の扉を見た。


 兄の部屋は襖のように横に開くタイプの扉だった。その扉が急にさっと少しだけ開いたのだという。




 えっと思っていたら、廊下の暗がりからぬぅっと女の顔がゆっくりと現れた。


 長い黒髪で目が異常に吊り上がったもの凄い形相の女だった。


 怖くて声も出せず、目も離す事も出来ず向き合っている状態がしばらく続いた。




 やがて女は何も言わず、すうっと奥へ引っ込んでいき姿を消した。




「って事が昔ありましたよ」




 話を聞き終え、周りの大人たちは「怖いな」「気持ち悪いな」と感想を口にする。だがそんな中で自分だけは違う感情に囚われていた。




 ーーまさか、な。


 


 話を聞きながら、完全に忘れ去っていた幼少期のトラウマとも呼べる嫌な記憶がはっきりとよみがえってきた。


 小二。夏。夜。ドアノブの穴。かりかりがりがり。




 ーーそんなわけがない。ただの偶然だ。




 兄と自分は歳が離れた兄弟だった。


 兄が中二の頃、自分はちょうど小二になる。


 小二の夏の自分の体験、中二の夏の兄の体験。


 時期がちょうどぴったりと重なっていた。




「その女さ、どんな姿してたの? 顔しか見てないの?」




 誰かがそんな質問を兄に投げかけた。




「あーどうだったかな……」




 何気ないその質問の答えが、開けてはならない扉を開く事になるとも知らずに僕は兄の答えを聞いてしまう。




「服というか、着物か浴衣か。そんなのは着てましたね確か。薄い青色、水色みたいな」




 その瞬間に世界が色を変える程の衝撃が走った。




 薄い青色、水色。


 記憶違い。勘違い。当時そんなふうに自分を落ち着かせた。


 あれは現実じゃない。ただの悪夢だった。


 でもどうしても、今再び思い出して感じるのはやはりあれは現実だったという感覚だ。


 だからそんな事は考えもしなかった。起こった事実の中で勘違いがあるなど思いもしなかった。




 音が鳴り止み恐怖で縮こまっていた自分は、恐る恐るドアの前に立ち穴から向こうの様子を見た。


 あの時、疑いもせずそこから見える景色を早朝の朝の空だと思った。


 本当にそうだったか。本当に自分が見ていたのは空だったか。


 あの時自分が見た情報は色だけだった。なのに何故か頭の中で勝手に経過した時間感覚と恐怖が去ったという自分自身への催眠か、そこから見える景色を朝の空だと勘違いした。


 だが、兄の話が記憶の全てを塗り替えた。




 僕が見ていたのは、女の着ていた服の色だ。


 長い髪を垂らし、凄まじい形相で穴を睨みつけ佇む女。


 ずっといたのだ。諦めたと思っていたが、そうじゃなかった。


 外側からドアを開けられないなら、内側から開けてもらえばいい。


 じっと音も立てずそいつは、僕がドアを開けるのを待っていたのだ。




 


 全ては妄想であり空想だ。


 兄の体験談こそただの悪夢で現実とは限らない。


 だがそれぞれに起きた出来事と時期があまりにも自分の中でリンクした。




 僕は結局その場でも自分の話はしなかった。


 記憶違い。勘違い。そう言われればそれまでの事だ。


 ただもし、あれがどちらでもなく真実だったら。




 今思い返しても、血の気が引く思いがする。

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